artscapeレビュー
五十嵐太郎のレビュー/プレビュー
山形 美の鉱脈 明治から令和へ
会期:2020/12/10~2021/01/31
山形美術館[山形県]
サブタイトルに「明治から令和へ」とあるように、山形美術館の収蔵品を中心に展示し、一挙に蔵出しする内容だった。全体は1章「肖像 自己と他者」、2章「かたち ミディアムの可能性」というふうに6章に分かれているが、ところ狭しと並べられた作品数が膨大なので、個別の説明はなく、キャプションも壁につけられず、番号を見ながら、ハンドアウトで作家名と作品名を確認することになる。山形的なるものを基調としようとしているが、作品を絞って選んだわけではなく、またテーマも大づかみにならざるをえないので、むしろ鑑賞者の読解に委ねられるだろう。読みとるラインはさまざまだが、鉱脈の中で際立つのは、6章「場所 アノニマスとコレクティヴ」における三瀬夏之介らの試みである。2009年に東北芸術工科大学でスタートとした「東北画は可能か?」のプロジェクト、1930年代の東根市長瀞小学校における想画教育の再発見、文化財を修復する「現代風神雷神考」などだ。彼らの活動からは、決まった枠組に収束し、排他的になっていく地域性ではなく、開かれた地域性への志向が読みとれる。
さて、1964年に開館した《山形美術館》は、実は公立ではない。《青森県立美術館》が2006年にオープンしたとき、これで全国の都道府県に県立美術館が揃ったと思っていたが、山形県はまだなのである。展示の途中、壁に大きな年表があって、これが興味深い。戦後のかなり早い時期に、美術館設立の動きがあったものの、地元の美術家が公立化に反対したという。なぜか。敗戦前の官による検閲の苦い記憶があったからだ。そうした意味では、公立化には動きが早すぎたのかもしれないが、一方で近年、自己検閲が再び注目されていることを想起すると、これは過去の話ではない。その結果、民間の山形新聞が音頭をとって、県と市が協力して美術館が設立された。なお、現在の建築は、開館から20年程で建て替えられ、1985年に再オープンした二代目である。地元で多くの建築を手がけ、家型のデザインを作風とする本間利雄が設計した。やはり、大きな切妻屋根が印象的な建築だが、外観の壮大さに比べると、内部に吹き抜けはなく、展示室もそこまで大きくない。また、常設の吉野石膏コレクションは、フランス近代絵画の教科書的な作家を揃えており、後発の地方美術館にはないものだ。
2021/01/20(土)(五十嵐太郎)
GUNDAM FACTORY YOKOHAMA
会期:2020/12/19~2022/03/31
山下埠頭[神奈川県]
実物大のガンダムは、すでに2009年からお台場や静岡などで展示されており、ただ野外で立っているだけなら、わざわざ横浜まで足を運ぶつもりはなかったが、今回はついに動くというので、時間指定の予約をとって訪れた(なお、高所で真横から見学できるドック・タワーの観覧席は、平日でも売り切れだった)。
いきなり富野由悠季のあいさつで「ちゃんと歩かせることができなくて申し訳ない」という一文があるのだが、実際、地上レベルから見ると、基壇のような壁で囲うことによって巧妙に隠されてはいたものの、両足は浮いており、確かに動くけれども歩いて前に進んでいるわけではない。これまでもそうだったように、ガンダムは単独で立っているわけではなく、鉄骨フレームの格納庫ドック・タワーに背中をつけている(正確に言うと、格納庫に固定して安定させないと動かせないのだろう)。が、これに関連する展示が予想外におもしろかった。すなわち、ガンダムを車両扱いできないことから(そう言えば、パトレイバーは特殊車両の扱いだった)、高さ18mの建築(5、6階のビルに相当)としてのガンダムをどう動かすのかについての、言わば『プロジェクトX』なのである。
展示からは、各ジャンルの専門家や企業が結集し、このプロジェクトを推進させたことがうかがえる。そして工学・情報系技術の苦労と工夫が具体的に説明されていた。特に興味深いのは、いくつかのボツ案を紹介しつつ、なぜそれが採用されなかったかの理由が示されていたことである。例えば、射出カタパルトで加速する?(広い敷地が必要なうえに、先端で減速させる残念な演出になる)、トレーラーから起き上がる?(それ以外の演出に幅がない)、足下に台車を置いて歩かせる?(すり足歩行はガンダムらしくない)、などだ。
そもそも、モビルスーツが人型であることに大きな無理があることもわかる。目的を決めて、最適化させると、ほかの形態のほうが合理的なはずだ。しかし、ガンダムのような不動人気のコンテンツでなければ、このようなプロジェクトが成立しえないのも事実だろう。それゆえ、ここでのエンターテインメントへの努力は、将来、何らかのかたちで実際の技術にフィードバックされるはずだ。ところで、1970年の大阪万博で磯崎新が担当した動く巨大ロボットの《デメ》は、これより少し小さい14mである。ただし、足はない。
公式サイト:https://gundam-factory.net/
2021/01/19(火)(五十嵐太郎)
「フランシス・ベーコン」展と葉山周辺の建築
会期:2021/01/09~2021/04/11
神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]
久しぶりに葉山の神奈川県立近代美術館を訪れた。というのも、1月9日にスタートした「フランシス・ベーコン」展が、政府の1月7日の緊急事態宣言を受けて、12日から臨時休館となることが決まったので、急いで出かけたからだ。実際、この原稿を書いている時点でも、さらに緊急事態宣言が1カ月延長されたことを受け、同展はいまだ再開に至っていない(会期は4月11日まで)。つまり、現時点ではわずか3日間しか開催されていない。個人的な意見だが、美術館は人がそこまで密になる場ではないし、しゃべらないようにすれば、ほとんど問題がないと思うのだが、もったいない。
さて、バリー・ジュールのコレクションによる展示は、完成された有名なベーコンの作品ではなく、その構想のスケッチ、本や雑誌の人物写真への描き込み、そして最初期の作品を紹介していたことで、非常に新鮮だった。ミック・ジャガー、プレスリー、グレタ・ガルボ、ヒトラー、ケネディらの肖像、メイプルソープの作品、ボクシングを含むスポーツや電気椅子の処刑場面の写真など、既存のイメージに手を加えることで、完全にベーコンの世界に変容していた。また結局、作品化されず、ありえたかもしれない他の作品の可能性も、圧倒的である。以前、あいちトリエンナーレ2013の長者町ビジターセンターで、一日店長を泉太郎がつとめ、ライブで似顔絵を描くイベントをやったのだが、その辺の雑誌を適当にめくって、下地になる写真を素早く選び、少し加筆するだけで、似顔絵が成立していた。そのときアーティストの力に感心したが、ベーコンの加筆も驚くべき技である。
ベーコンがアイルランド生まれということで、同時開催のコレクション展は「イギリス・アイルランドの美術─描かれた物語」だった。主に文学との絡みで作品を紹介し、中世の装飾本に学んだウィリアム・ブレイクや、英国らしさを打ち出したホガースの版画、渦巻派に接近した久米民十郎、ストーンヘンジを取材したヘンリー・ムーア、小説『ユリシーズ』を題材としたリチャード・ハミルトンなど、興味深いセレクションである。
なお、美術館の向かいは、芦原義信による《富士フイルム葉山社員寮》があったのだが、現在は改装されて《四季倶楽部 プレーゴ葉山》 になっており、宿泊できるようだ。また坂を登ると、吉田五十八が既存家屋を増改築した《山口蓬春記念館》がある。とくにモダンな意匠による大開口をもつ画室や、桔梗の間は、気持ちがよい空間だ。また住宅を展示空間に変えたリノベーションは大江匡によるもので、ポストモダン的なデザインである。
2021/01/10(日)(五十嵐太郎)
燃ゆる女の肖像
18世紀のフランス革命前のフランスにおいて、女性の画家マリアンヌが、見合いに使うために、伯爵夫人の娘エロイーズの肖像画を描くことを依頼され、小舟に乗って、ブルータニュの島に渡るところから物語は始まる。言うまでもなく、リンダ・ノックリンが「なぜ女性の大芸術家は現われないのか?」(1971)で論じたように、あるいはゲリラ・ガールズが、女は裸にならないと美術館に入れないのか(すなわち、作品の題材としてのみ消費されている)と抗議したように、美術史は男性中心の世界観でつくられてきた。そうしたジェンダー論的な意味で、実在はしていたが、歴史に埋もれていた女性の画家(ただし、本作は架空の画家を設定している)を主人公とした映画という意味で画期的な作品である。また映画に登場する画家も、しばしば男性だろう。しかも本作では、マリアンヌとエロイーズの秘められた恋愛を通じ、クィアの切り口もあわせもつ。そもそも、この映画の島のシーンでは、ほとんど男性が登場しない。召使いのソフィ、そして島の女たち。しかし、冒頭と最後に描かれる都市は、男社会である。
とにかく、全編映像が美しい。それだけでも十分に見る価値のある傑作だ。さらに絵描きの映画というジャンルから考察しても、ここまで丁寧に見る/見られるの関係を主題化したのは稀かもしれない。エロイーズを見るマリアンヌの顔が、繰り返し登場する。最初は散歩をしながら観察し、後から記憶で描くのだが、途中からはモデルになった彼女を凝視するのだ。じっとしているマリアンヌもまた、エロイーズを同じように見ている。一方的なまなざしではない。交差する視線の映画である。そして冥界から妻をとりもどす詩人が「決して振り返ってはならない」と警告される、オルフェウスの伝説をめぐる会話が効果的に挿入されている。それは、二人が離れた席にいる劇場のラストシーンにおいて、いやおうなしに思い出されるだろう。ところで、映画がよかったので、パンフレットを購入したのだが、あらすじをなぞるような文章ばかりで、内容が薄いのが残念だった。せめて美術史やジェンダー論の専門家に寄稿を依頼すべきだろう。
公式サイト:https://gaga.ne.jp/portrait/
2021/01/04(月)(五十嵐太郎)
京都・大阪の近代建築リノベーション施設をまわる
[京都府、大阪府]
通常、年末年始は海外なのだが、さすがに今回はそれがかなわず、関西で過ごすことになった。西洋と違い、日本では美術館も休館になってしまうため、宿泊施設や商業施設を中心にまわった。改めて気づいたのは、2020年にリノベーション建築が増えたことである。《京都市京セラ美術館》とほぼ同時期の近代建築をリノベートした《ザ・ホテル青龍 京都清水》は、様々な記憶や痕跡、装飾的な細部の意匠、中庭の階段を大事にしつつ、増築部分を明快にした、ていねいな仕事である。また屋上のバーや一部の客室から八坂の塔や祇園閣がよく見える立地が素晴らしい。
昨年もうひとつ、小学校がホテルに生まれ変わってオープンしたのが、《ザ・ゲートホテル 京都高瀬川》である。京都の中心部に位置しており、長い間、ここはどうなるか? と気になっていた場所だった。学校を模した新築部分のヴォリュームは、オリジナルや周囲に対し、やや大きすぎるが、なるほど水平方向にとても長い8階のバー・ラウンジからの眺めは抜群である。なお、《新風館》(1926)も、隈研吾らによる2度目のリノベーションによって話題になった商業・宿泊施設だ(1度目のリノベーションは、2001年のリチャード・ロジャース)。
変わり種としては《Nazuna京都 椿通》が2020年にオープンしている。これは現地に行くと、全体的に新しく見えるので、もしかするとリノベーションではなく、テーマパーク的なものなのかと思ったが、説明によると、やはりL字型の路地に並ぶ、明治期の町屋群を改修した23室とのこと。基本パターンは、1階が寝室と半露天風呂、そして2階が居間である。十数年前からのプロジェクトで、築100年の町家長屋を若手作家の工房・店舗・住宅群に改造した《あじき路地》にも訪問したが、本当に細い道を挟む小さな空間だった。もっとも年末だったせいか、ほとんど閉まっていた。
また久しぶりに八坂周辺を歩き、半世紀前のアパートを改造して2017年にオープンした《RC HOTEL 京都八坂》は外観のみ見学したが、手前の小さな広場的な空間がよい。実はすぐ背後の高台に《ザ・ホテル青龍》があった。2020年1月、大阪の《高島屋東別館》(1934)の一部が《シタディーンなんば大阪》として開業したので、ここに宿泊した。外観や階段の周辺はしっかりとした近代の様式建築であり、部屋も予想以上に広い。コロナ禍でなければ、ラウンジのフロアも使えた。
ともあれ、急速なインバウンド需要の増加のため、新築だけでなく、リノベーションの宿泊施設がいろいろ登場したのかもしれない。古い建築を使いながら保存する傾向は歓迎すべきことだが、コロナ禍によるツーリズムの低迷が長期化した場合、今後ちゃんとやっていけるのかは気になるところだ。
2020/12/31(木)(五十嵐太郎)