artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

武生、鯖江、三国、《恐竜博物館》、長浜をまわる

[福井県]

法事のため、2カ月連続で福井に出かけることになった。先月は三方にある内藤廣の《年縞博物館》を見学したが、今回はまず武生と鯖江の近代建築群をまわることにした。前者は初めての訪問だったが、アール・ヌーヴォー風の意匠が入る《武生市公会堂記念館》、アーケードに面した《旧大井百貨店》、《旧井上歯科医院》など、興味深い建築が多い。もっと時間をかけて再度訪れたい地方都市である。地方では今でも古い写真館がよく残っているが、鯖江の《恵美写真館》の創立は明治末にさかのぼり、国の有形文化財に指定されていた。なるほど、和洋折衷の建築として、きわめてユニークな細部があちこちに散りばめられている。


《武生市公会堂記念館》


《旧大井百貨店》


《恵美写真館》

三国の《みくに龍翔館》は、お雇い外国人の技師エッセルが手がけた5階建て八角形の小学校を1981年に再現し、郷土資料館として用いた建築だ。ただ展示には、一番知りたいかつての木造小学校の情報がないのは、残念である。ちなみに、エッセルの五男が有名な画家エッシャーだったことから、三国はトリックアートのコンペを実施しており、最上階に展示されていた入選作品はおもしろかった。


《みくに龍翔館》

さて、ずっと訪れる機会がなかった黒川紀章の《福井県立恐竜博物館》をついに見学した。内藤廣が設計したえちぜん鉄道の福井駅から電車とバスを乗り継ぎ、約1時間。遠くからも恐竜の卵のような銀色のヴォリュームが目立ち、さらに黒川のサインというべきガラスの円錐形も付随する。ただし、館に近づくと形態は見えなくなり、内部に入ると、むしろ過去にさかのぼるかのように、エスカレーターによって一気に地下の空間へと導く。なるほど、これだけ多くの恐竜の骨が展示された施設は見たことがない。子供連れの家族が遠くからやってくるのも、うなずける。また一部の恐竜はアニマトロニクスによって動き、『ジュラシック・パーク』さながらのエンターテインメント的な要素も備えていた。


内藤廣《えちぜん鉄道福井駅》


黒川紀章《福井県立恐竜博物館》の外観。銀色のヴォリュームとガラスの円錐形は建物から離れないと確認できない


《福井県立恐竜博物館》の内部


地下空間へと続く《福井県立恐竜博物館》のエスカレーター

福井からの帰りには、久しぶりに長浜に立ち寄り、近代建築の街を散策した。そのひとつの旧銀行をリノベートした《海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館》では思いがけず、再度恐竜や古代の生物群を見ることになった。ここでは会社の歴史や造形師を紹介しつつ、アニメや漫画のキャラクター以外にも、森羅万象のさまざまなモノをフィギュア化した作品が展示されている。ほどんとメタ・ミュージアムとでもいうべき多彩さだった。


《海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館》の入口


《龍遊館》に展示されていた古生物のフィギュア

関連レビュー

福井県年縞博物館、若狭三方縄文博物館|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2020年08月01日号)

2020/08/28(金)(五十嵐太郎)

女川町、石巻、野蒜をまわる

[宮城県]

夜が明けて、午前に女川町を散策すると、かさ上げに加え、道路や街区も変わり、以前の街の痕跡がまったくない。311の被災地で、もっとも激しい建築の破壊が起きたのは女川町であり、鉄筋コンクリートのビルが津波で引っこ抜かれた風景を目撃した者としては、完全に別の街に生まれ変わったことがよくわかる。個人的にはもっと多くの震災遺構を残すべきではないかと思っていたが、結局、ひとつだけ選ばれたのは、転倒した《旧女川交番》(2020)だ。遺跡のように、現在の地盤から低い位置に壊れた交番は存在するが、ピカピカになったまわりの街とのギャップは激しい。また植物で覆われており、『天空の城ラピュタ』で描かれた廃墟を想起させる。


植物で覆われてきた《旧女川交番》

石巻では、《震災伝承スペース つなぐ館》《東日本大震災メモリアル 南浜つなぐ館》(2015)を訪れた。前者はARのアプリをダウンロードすることによって、来場者が街中でも津波の高さを確認したり、被災の情報を得られるシステムを導入している。後者は、被災直後から注目されていた、コンビニに設置された「がんばろう石巻」の看板を置く。ただし、そのコンビニの地盤はもう足の下であり、しかも看板は2代目であり、その場所も移動している。したがって、場所やモノとしてのオーセンティシティはもうない。だが、それでもこの看板が残されたのは、シンボルとしての求心力が強かったのだろう。なお、住宅地だった南浜のエリアは《津波復興祈念公園》として整備中だった。また焼け跡が痛々しかった《門脇小学校》は、震災遺構として残される。


《震災伝承スペース つなぐ館》の展示風景


《南浜つなぐ館》の屋外に展示されている「がんばろう石巻」の看板(2代目)


南浜で整備中の《津波復興祈念公園》


焼け跡が痛々しい《門脇小学校》

《東松島市震災復興伝承館》(2017)は、旧野蒜駅である。建築そのものはあまり被害を受けておらず、内部に被災前後を比較できる写真などの展示空間を設け、プラットフォームの向こうに追悼の広場がつくられた。もちろん、レールは途切れ、もう電車は走らない。新しい野蒜駅は高台に登場し、その周辺に復興住宅や移転した《宮野森小学校》(2016、設計はシーラカンスK&H)がある。これも木造であり、傾斜した屋根をもつ分棟の形式をとり、全体としては集落のイメージを感じさせるものだった。地域コミュニティの核にするというコンセプトも、空間のあり方から伝わってくる。だが、セキュリティがうるさい大都市の小学校では、逆にこれは難しいかもしれない。


旧野蒜駅が《東松島市震災復興伝承館》になっている


シーラカンスK&H《宮野森小学校》

2020/08/14(金)(五十嵐太郎)

気仙沼、南三陸、女川をまわる

気仙沼では、トレーラーハウスを活用した飲食店街《みしおね横丁》が登場していた。ここは銭湯、イスラム教の礼拝所、インドネシア料理店なども入り、想像以上にプログラムはヴァラエティに富む。地元で働く外国人を意識したものだという。また女川では駅の横にカラフルなトレーラーハウスが並ぶ《ホテル・エルファロ》(2017)で宿泊した。これは津波で旅館を流された女将たちが始めたものだが、室内はとても快適である。ともあれ、建築よりも時間をかけずに設置できるトレーラーハウスの出番があるのは、被災地ゆえの状況だろう。


《みしおね横丁》の礼拝所


《ホテル・エルファロ》

毎回、気仙沼では《リアス・アーク美術館》に立ち寄っていたが(同館にて学芸員の山内宏泰からうかがった2011年3月11日当日の話は、個人的にあいちトリエンナーレ2013のコンセプトにもつながった)、今回は時間の関係で飛ばし、《シャークミュージアム》(2014、リニューアルオープン)を初めて訪れた。本来はサメに特化した展示施設だが、ここも被災しており、導入部にメッセージ・テーブルがある「絆」ゾーンや、映像や写真による「震災の記憶」ゾーンが設けられていたからだ。すなわち、新規につくられた施設でなくとも、既存の施設も震災の後、プログラムが書き換えられているのだ。


《シャークミュージアム》内の「絆」ゾーン

さて、続く南三陸のエリアは、隈研吾の建築だらけだった。まず、《ハマーレ歌津》(2017)と《さんさん商店街》(2017)は、いずれも被災地における仮設的な木造店舗群である。そして有名な震災遺構となった《旧防災対策庁舎》は、かさ上げによって現在の地表面からだいぶ下になったが、これをとりまく壮大なランドスケープや伝承施設が、隈によって整備されていた。すでに《旧防災対策庁舎》の前には、古墳のような丘がそびえたっている。2021年のオープン予定らしい。


隈研吾《ハマーレ歌津》


隈研吾《さんさん商店街》


震災遺構となった《旧防災対策庁舎》


南三陸のもうひとつの震災遺構《旧ホテル観洋》、建物の左上にある青いサインで、当時の津波の高さが示されている

夜に到着した女川は、坂茂が設計した駅舎から、まっすぐ海に向かって軸線が走り、東利恵が手がけた《シーパルピア女川》の商店街がそれを挟む。坂は、女川の避難所になった体育館におけるパーティション、野球場に設置されたコンテナを三層に積んだ仮設住宅、そして復興の要となる駅を担当しており、これは被災後から同じ建築家がひとつの街にずっと関わった、希有な例だろう。


坂茂《女川駅駅舎》

2020/08/13(木)(五十嵐太郎)

大船渡、陸前高田、気仙沼をまわる

[岩手県、宮城県]

BRTの大船渡駅に隣接する《おおふなぽーと(大船渡市防災観光交流センター)》(2018)は、2階に震災関係の写真展示はあったが、わずかなものだった。また外部の大階段から屋上の広場に登ると、そこが街の復興の様子を眺めることができる展望デッキにもなっている。これは非常時において、津波避難にも使えるわけだが、こうした空間の形式は、被災地における復興建築のプロトタイプになりえるだろう。


《おおふなぽーと(大船渡市防災観光交流センター)》の屋上広場に続く階段からの眺望

陸前高田に入ると、前回は建設現場を見学したSALHAUSの《陸前高田市立高田東中学校》(2016)が完成した姿を確認してから、盛り土された被災エリアに向かった。巨大な駐車場に面して、いずれも新しいショッピング・センター、図書館、ホール、飲食店などが並び、もはや過去の風景を想起させる要素は何もない。完全に別世界だった。隈研吾の《陸前高田アムウェイハウス まちの縁側》(2020)は木造であり、やはり外周部のスロープを登ると、屋根の上から展望できる。また伊東豊雄による宇都宮のパヴィリオンが移設され、《交流施設 ほんまるの家》(2017)として活躍していた。


SALHAUS《陸前高田市立高田東中学校》


隈研吾《陸前高田アムウェイハウス まちの縁側》


伊東豊雄《交流施設 ほんまるの家》

最大の目玉は、内藤廣による《東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)》を含む《高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設》(2019)だろう。ランドスケープや震災遺構はまだ整備されていたが、一帯がすべて完成すれば、間違いなく彼の代表作になるはずだ。建築と公園の強い中心軸はややクラシックであり、丹下健三の《広島平和記念資料館》と比較したくなるが、一方で土木的なスケールのランドスケープや、防潮堤を効果的に組み込むデザインなどは現代的だ。また道の駅を併設しているのも、今風である。


内藤廣、《東日本大震災津波伝承館(いわてTSUNAMIメモリアル)》


《いわてTSUNAMIメモリアル》の正面玄関に向かう通路

今回、津波伝承館など、311の記憶に関する施設をいくつかまわったが、予算や規模にばらつきがあり、内容やクオリティもばらばらだった。中国の四川地震の記念館はどれも同じ内容と形式だったり、ニューヨークの《911メモリアル》は記録への執念を感じたが、そうしたしつこさがなく、統一感のなさが逆に日本らしいのかもしれない。ただ、やはり震災遺構を空間ごと残したものは、圧倒的な体験と情報密度をもつ。とくに津波の被害を受けた《旧向洋高校校舎》をまるごと残し、その内外を歩くことができる気仙沼市の《東日本大震災遺構・伝承館》(2019)は印象的だった。


《旧向洋高校校舎》突っ込んだ自動車が3階に残る《東日本大震災遺構・伝承館》

2020/08/12(水)(五十嵐太郎)

釜石市、住田町、大船渡をまわる

[岩手県]

おそらく釜石市は建築家の復興プロジェクトがもっとも多いエリアだろう。前日に訪れた鵜住居のほか、都市部ではヨコミゾマコトによる《釜石市民ホールTETTO》(2017)、千葉学の復興住宅群、これに隣接する平田晃久の《かまいしこども園》(2015)などがあり、南下すると、小さい湾に面した唐丹地区に乾久美子の《唐丹小学校・中学校》(2018)がある。釜石市の復興ディレクターに伊東豊雄や小野田泰明らが入っていることが大きいだろう。


ヨコミゾマコト《釜石市民ホールTETTO》


千葉学の復興住宅群



平田晃久《かまいしこども園》


乾久美子《唐丹小学校・中学校》

大屋根をもつ広場が印象的な《TETTO》(鉄の都とイタリア語の屋根の意味をかけたネーミング)をのぞくと、シーラカンス、千葉、平田、乾らの建築は、いずれも新築だが、集落のような空間のイメージを志向している。なるべく、大きなワンヴォリュームとはせず、分棟とし、風景になじませながら、配置していく。東北の地域性を意識した復興建築のパターンといえる。なお、移動する途中で、平田地区の仮設住宅と、山本理顕の《みんなの家》を思い出し、再訪したところ、もちろんもう使われてはおらず、建築はまだ残されていたが、解体工事に着手するようだった。


平田地区の仮設住宅


山本理顕《みんなの家》

住田町は、2011年3月末、盛岡から岩手の被災地をまわったとき、最初に訪れたところである。当時、いち早く木造の仮設住宅に着工するというので立ち寄ったが、震災後に登場した2つの注目すべき公共施設も、やはり林業の町として、木造を売りだしていた。前田建設工業の《住田町役場》(2014)と、SALHAUS による《大船渡消防署住田分署》(2018)である。前者はトラス梁とラチス耐力壁、後者はCLTを使いつつ、耐震壁をとらない、貫式木造ラーメンの構造をもつ。それぞれ異なる設計思想だが、いずれも木造で大型の建築をつくれることを示す、ショーケースとしての意味ももつ。



前田建設工業《住田町役場》

2020/08/11(火)(五十嵐太郎)