artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

渡辺篤「修復のモニュメント」

会期:2020/06/01~2020/07/26

BankART SILK[神奈川県]

コロナ禍の影響によって見ることができなくなった展覧会は多いが、逆のパターンもある。てっきり、もう見逃したと思っていたら、会期が変更されたおかげで、BankART SILKにおいて渡辺篤「修復のモニュメント」展を鑑賞することができた。これは社会から孤立した人間の声を発信していく彼の「アイムヒア プロジェクト」の一環であり、今回はひきこもりの人たちと対話しながら、その原因を探りつつ、コンクリートの記念碑をつくっている。が、展示されていたのは、それをハンマーで破壊した後、金継ぎの技法によって修復した作品だった。つまり、完全に傷が消えるわけではない。かたちは元に戻るが、金継ぎのラインは目立つ傷跡となる。ゆえに、鑑賞者は破壊と再生のさまざまな痕跡に出会う。入口の壊れたドア、卒業式の記憶を思い返す文章、傷を負った脳や心臓の作品など、現代の震える精神が、会場のあちこちで痛々しい実体を伴う造形物になっている。また展示の手法として印象に残ったのは、仮設壁に穴をあけ、その内部に設置された作品もあったこと。


「修復のモニュメント」展、展示風景より。入口の壊れたドア


「修復のモニュメント」展、展示風景より。破壊された卒業アルバム


「修復のモニュメント」展、展示風景より。卒業式の記憶を思い返す文章

実は昨年、ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展2020の日本館のキュレーターを決定する指名コンペにおいて、日建設計の山梨知彦によるプランは、社会からの切断という現代都市の問題をテーマに掲げ、アーティストの参加を提案していた。そして「ひきこもり」は渡辺、「幼児虐待」は見里朝希、「孤独死」は小島美羽の作品が対応していた。

結局、山梨案は選ばれなかったが、彼の著作『切るか、つなぐか? 建築にまつわる僕の悩み』(TOTO出版、2020)でも、このプランを紹介していた。山梨は、渡辺へのヒアリングから、「ドア一枚で社会との接続を切ることができる現代の住まいは、ある意味ひきこもりが必要としている空間」であること、「現代の都市住居が、社会との距離をうまく取り切れていないことに問題がある」という知見を得て、マンションのドア、バルコニー、掃き出し窓などのデザインに疑問を投げかけていた。

ところで、パンデミックによって世界で発生したのは、感染を恐れて、皆が外出しなくなる、総ひきこもりの現象ではなかったか。もし、山梨案が選ばれていたら、社会との切断は、当初、想定していたものと異なる、新しい意味を獲得していたかもしれない。


「修復のモニュメント」展、展示風景より。仮設壁の穴をのぞくと、そこにも作品がある



「修復のモニュメント」展、展示風景より


「修復のモニュメント」展、展示風景より。傷を負った脳の作品

2020/06/10(水) (五十嵐太郎)

江本弘 オンライン・レクチャー

会期:2020/06/04

東日本大震災で東北大の建築棟が大破し、しばらく教室や研究室がまったく使えなくなったとき、教員と学生さえいれば教育は維持できると考え、漂流教室と銘打って、建築家が設計した住宅やシェアハウスなど、さまざまな場所で実験的にゼミを開催した。しかし、今回のコロナ禍は建物に被害を与えない代わりに、人が集まることを困難にしている。その結果、大学では講義、ゼミ、委員会など、あらゆる活動がオンライン化した。

奇妙なのは、近くの学生とはリアルで会えないが、海外滞在中の在学生や日本に戻れない留学生など、遠くにいる学生は参加しやすくなったこと。そこで今回は東京や海外で働いているOB、OGに声がけし、毎週のゼミの後、ミニ・レクチャーのシリーズを始めた。また助教の市川紘司が主宰する五十嵐研のサブ・ゼミでも、「建築概念の受容と変質」、「表象と建築」、「都市の読み方」といったテーマを設定し、それぞれの内容にあわせて、江本弘、本田晃子、石榑督和らの若手の研究者によるオンライン・レクチャーを企画している。

第1回目は、江本弘のレクチャーだった。彼は立原道造の卒業論文から出発し、そこからジョン・ラスキンの受容をめぐる研究に展開し、アメリカなどの海外で調査した経緯を語ってくれた。興味深いのは、対象そのものへの価値判断をせず、ひたすらその受容を追いかけていくこと。もちろん、井上章一も1980年代以降、桂離宮や法隆寺に対し、こうした手法のメタ建築史を試み、ポストモダン的、もしくは構造主義風とでもいうべき相対化を行なったが、井上の場合、つむじ曲がりの性格をベースにしていたのに対し、江本はそういう感じではない。

筆者は彼の著作『歴史の建設:アメリカ近代建築論壇とラスキン受容』(東京大学出版会、2019)の書評を『東京人』に寄稿した際、江本がどうやって膨大な資料を収集したのかと不思議に思っていたが、謎が解けた。データベース化された文献資料を徹底的に活用し、きわめて効率的に調査していた。まさに現代の情報環境が可能にした研究だった。現在は建築における「シブイ」や「ジャポニカ」などの概念に注目しているという。日本国内の言説に閉じず、国際的な流通を調査している点も、新しい世代の建築史家として高く評価できるだろう。


江本弘によるオンライン・レクチャーの模様

2020/06/04(木) (五十嵐太郎)

『囚われた国家』『ライト・オブ・マイ・ライフ』『CURED/キュアード』

営業を再開したばかりのキノシネマ横浜(みなとみらい)にて、立て続けに3本の映画を鑑賞した。いずれもコロナ禍の現状を連想させるもので、偶然ではなく、三部作とでもいうべき見事な上映セレクションのように思えた。

ルパート・ワイアット監督の『囚われた国家』は、地球外生命体に統治されるシカゴを舞台としている。これはSFの外形を借りているが、いわゆる「人vsエイリアン」が戦う典型的な構図ではなく、エイリアンに隷従する人間が営むハイテク超監視社会に抵抗するレジスタンスの物語だった。あまり派手なシーンはなく、ハイライトはスタジアムでのテロ計画だろう。しかし、そこで終わらない、どんでん返しも用意されている。コロナ禍において明るい管理社会が要望される今にふさわしい作品だ。

1000円という特別料金が設定された映画『ライト・オブ・マイ・ライフ』は、もっとストレートに疫病が設定に使われていた。これは女性のみがほとんど死んでいくパンデミックの後、女性狩りから逃れるため、娘を息子と偽りながら、人が多い都市を避けて、親子がサバイバルを続けるという作品である。人類は絶滅こそしないが、倫理観を失い、荒廃した世界が描かれる。もっとも、疫病そのものがテーマではなく、特殊状況における父と娘の成長物語だった。ゆっくりとしたテンポの映画だが、最大の危機を迎えた後の二人の表情が印象深かった。

3本目の映画『CURED/キュアード』は特に傑作だった。凶暴化するウイルスへの特効薬が完成し、75%の感染者を治癒するものの、人を襲っていた記憶は残り(それゆえに、主人公は兄を殺したという罪の意識から悩み、苦しむ)、25%は回復しないままとなるポスト・パンデミックの世界である。出尽くしたようなゾンビ映画のジャンルにおいて、こういう鮮やかな切口があるのかと感心させられた。興味深いのは、非感染者と社会復帰する治癒者のあいだに、残酷な差別が生じること。さらに非治癒者に関しては、人間として扱うべきか、殺すべきか、という議論が巻き起こる。新型コロナウイルスも、医療従事者、治癒者、感染が多い地域の人間に対する差別や偏見をもたらした。すなわち、『CURED』の形式はゾンビものだが、今に通じる人間性を問うている。


『囚われた国家』公式サイト:https://www.captive-state.jp/

『ライト・オブ・マイ・ライフ』公式サイト:https://kinocinema.jp/minatomirai/movie/movie-detail/140

『CURED/キュアード』公式サイト:http://cured-movie.jp/

2020/06/04(木)(五十嵐太郎)

ウィリアム・モリス 原風景でたどるデザインの軌跡

会期:2020/05/18~2020/06/28

宮城県美術館[宮城県]

久しぶりの美術館への訪問は、やはり関東圏よりもいち早く再開となった仙台の宮城県美術館となった。興味深いのは、新型コロナウイルスの対策のために、いつもと違うモードだったこと。例えば、行列はなかったが、吹き抜けのアトリウムから外構にまで続く、床に記された2m間隔のライン、受付の透明なシールド、チラシや作品リストなど手で触るモノの配布をしない(QRコードによってデータのダウンロードは可能)、講演などのトークイヴェントの中止ほか、会場内でも鑑賞者が立ち止まって密になりやすい映像による展示は止めていた。

現在、延期になっている筆者が関わる展覧会でも、感染防止のために、なるべく什器の間隔をあけること、来場者が不規則に動かないよう動線を誘導し、パーティションやサインによって固定化すること、接触型の展示や配布の中止、入場制限などを検討し、会場デザインの変更も行なわれる。これがニューノーマルとして定着するのかはわからないが、当面は展示の空間にも大きな影響を与えるだろう。


感染対策のために、宮城県美術館の床に記された2m間隔のライン

さて、「ウィリアム・モリス」展では、彼の生涯を振り返りながら、数多くの内装用ファブリックや壁紙のデザインが紹介され、後半では大阪芸術大学の協力を得て、書物の装丁などの活動が取り上げられていた。また織作峰子が撮影したケルムスコット・マナーなど、モリスの過ごした環境や風景の写真も活用されていた。もちろん、中世を理想化しつつ、民衆の芸術をめざし、モダニズムを準備した美術史・デザイン史における重要性は理解しているのだが、どうも動植物をモチーフとしたファブリックや壁紙の意匠は、野暮ったい。むしろ、モリスに影響を受けた小野二郎を軸とした「ある編集者のユートピア」展(世田谷美術館、2019)にも感銘を受けたように、同じ装飾としては、中世風の字体やレイアウトを通じたブック・デザインの方が個人的には好みである。

ちなみに、モリス展の最後となる第6章「アーツ・アンド・クラフト運動とモリスの仲間たち」は、明らかにモダンデザインに変化していた。例えば、ウィリアム・アーサー・スミス・ベンソンの卓上ランプはややアール・ヌーヴォーであり、建築家のチャールズ・フランシス・アンスレー・ヴォイジーによる壁紙のグラフィックは動植物を用いながら抽象度を高め、世紀の変わり目には新しいステージに到達したことが確認できる。


「ウィリアム・モリス」展の展示風景

関連レビュー

ウィリアム・モリス 原風景でたどるデザインの軌跡|SYNK:artscapeレビュー(2017年04月01日号)

2020/05/29(金)(五十嵐太郎)

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ミッドサマー

5月末の段階では、東京の映画館が再開しておらず、やはりTOHOシネマズ仙台で『ミッドサマー』と『ブレードランナー』を鑑賞した。いずれも数名の入りしかなく、まだ映画館に人は戻っていない。後者はファイナル・カット版をスクリーンで初鑑賞したが、CGが当たり前になった現代から見ても、なんの遜色もないノワールなSFである。架空と実物の建築・都市を巧みに組み合わせた実在感が強烈だ。またリドリー・スコットらしい煙や霧、照明も美しい。人間よりも人間らしいレプリカントの設定が、作品を普遍的にしている。

さて、ようやく観ることになった話題の『ミッドサマー』は、様々な象徴を散りばめた美術、独特の建築デザイン(三角形のファサードをもつ黄色い神殿、変わった屋根形状の棟など)、音楽、衣装などを通じて、小さな共同体の世界観が綿密に構築されていた。ネットでも解説や謎解きを試みる多くのサイトが登場しているように、本作はすでにカルト的な人気を獲得している。

以前、新宗教の建築を研究した筆者にとって興味深いと思われたのは、サブカルチャーにおけるカルトの描き方である。通常、映画や漫画などでカルトが登場する場合、「実は教祖がひどい奴で、偽物の宗教が暴かれる」というのが、お決まりのパターンだ。しかし、本作はこの飽きるほど繰り返された物語とは違う。正確に言えば、教祖がいるわけではなく、昔から続く村の風習にもとづく夏至の祝祭なのだが、それがインチキだという構えはとらない。むしろ、あくまでも心を病む主人公の大学生ダニーの、心中で失った家族や、不安定な恋人との関係性を軸に、特殊な共同体を描いている。大きな家族に受け入れられ、傷心のダニーが再生する儀式というべきか。

そして客観的にはおぞましい出来事が起きているにも関わらず、笑顔の村人は明るく、花が咲き乱れる風景なのだ。また白夜のために、太陽が沈んでも完全な闇は訪れない。徹底して明るいのだ。だからこそ、ダニーが見せる最後のあの表情が、いつまでも余韻をもって記憶に残る。


公式サイト:https://www.phantom-film.com/midsommar/

2020/05/29(金)(五十嵐太郎)