2022年07月01日号
次回7月15日更新予定

artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

水の駅

会期:2021/12/19~2021/12/26

彩の国さいたま芸術劇場[埼玉]

この演目のシンプルな設定の話を聞いて以来、一度は太田省吾の名作「水の駅」を見たいと思い、彩の国さいたま芸術劇場に足を運んだ。始まる前から舞台の上にある蛇口から、水が流れ続け、劇中はさまざまな人々が次々とゆっくりやってきては、手前に通り過ぎていく。水を飲んだり、汲んだりするときだけは、下に落下しないため、水の音は変化する。なるほど、会話も独白もない。考えてみると、まったく発話しない沈黙劇は、コロナ禍というタイミングにふさわしい。また台詞を暗記する必要がないことは、平均年齢が81.7歳に到達した役者陣の負担も減らすだろう。どういうことか。「水の駅」は、芸術監督だった蜷川幸雄が2006年に創設した55歳以上の高齢者から構成される演劇集団、さいたまゴールド・シアター(以下、ゴールド・シアター)が活動終了することになり、その最終公演だった。冒頭までは、幾つかのバトンなどの機構がだいぶ下まで降り、機材が乱雑に置かれていたが、それらがすぐに片付けられると、舞台の後方に「GOLD」という大きな文字が立体の工作物として立っている。これまでのゴールド・シアターの活動を讃えるかのように。



彩の国さいたま芸術劇場ガレリア



さいたまゴールド・シアターの活動展示



蜷川幸雄のメモリープレート


意表を突いて感動的だったのが、カーテンコールだった。高い位置に吊られた蜷川の写真の前に出演したメンバーが一列に並び、右から順番に名前と年齢を大きな声で宣言する。なかには90代半ばの俳優もいて、会場から拍手が起きていた。芸術劇場のガレリアでは、ケラリーノ・サンドロヴィッチや松井周らの書き下ろし作品への挑戦など、ゴールド・シアターの歩みを紹介する展示も行なわれていた。これを見て思い出したのが、2015年に同劇場で観劇した蜷川演出の「リチャード二世」である。ゴールド・シアターが若手のさいたまネクスト・シアターとコラボレーションした演目で、ホールの座席を使わず、舞台上に三方から囲む場をつくり、長大な奥行きも確保する面白い空間の使い方だった。さらに車椅子、タンゴ、和装+洋靴、若手と高齢の男女俳優の組み合わせなど、台詞は流麗なシェイクスピアのままだが、古典劇を徹底的に異化し、強烈な印象を受けたものである。おそらく今後も移民を積極的に受け入れないであろう日本は、さらなる高齢化社会に突入していくが、ゴールド・シアターの試みはパフォーミング・アーツの分野において新しい活動の可能性を開拓したと言えるだろう。

2021/12/24(金)(五十嵐太郎)

山口情報芸術センター[YCAM]

[山口]

新山口駅の周辺にて、アプルデザインワークショップによる《はあと保育園新山口》(2014)や《医療型児童発達支援センター新山口》(2020)、竹原義二が手がけた縦ログを使用しつつ、集落のような相貌をもつ《山のようちえん 小郡幼稚園》(2020)など、グッドデザイン賞の受賞作を見学してから、《山口情報芸術センター[YCAM]》(2003)を訪問した。そしてアーティスティック・ディレクターの会田大也氏ほか2名の職員から、施設の企画立案から運営状況まで詳しい説明を受けたのち、館内を案内してもらう。改めて、YCAMが、オリジナルのメディア・アート的な作品を世界初で制作し、発表するという活動を主軸とし、そのための十分な専門スタッフをそろえ、設備や機材なども充実していることがよくわかった。しかも、これに類する施設は、いまだに日本の国内では登場していない。また地元の応援団を増やしたり、地域の学校との連携プログラムなどを、一方的な教育普及というよりも、ラーニング的な手法で試みてきたことも特筆されるだろう。そしてコロナ禍においては、得意とするデジタル・テクノロジーを用いて、新しい表現や創作の場を提供した。さらに図書館や地域のミニシアター的な機能の併設によって(実は現在、山口市には映画館がない)、常時、人の賑わいを維持している。



医療型児童発達支援センター新山口



小郡幼稚園



YCAMと山並み




YCAMのバイオラボ


今回、《奈義町現代美術館》(1994)(これも図書館を併設)、《秋吉台国際芸術村》(1998)、《山口情報芸術センター[YCAM]》を続けて見学したが、いずれも磯崎新による1990年代から2000年代前半の公共建築であり、彼の芸術関係の交友関係も生かしつつ、新しい複合施設に挑戦したものだ。なるほど、1990年代はプログラム論が注目された時代である。当時、彼は『GA JAPAN』においてビルディングタイプの歴史を振り返る連載を行なっていたが(後に『造物主義論 : デミウルゴモルフィスム』[鹿島出版会、1996]に収録)、これらの作品はいち早く実現した特殊なプログラムをもつ文化施設の三部作かもしれない。ちなみに、《山口情報芸術センター[YCAM]》では、坂本龍一+高谷史郎らの「ART–ENVIRONMENT–LIFE 2021」展を開催しており(無料!)、闇の部屋となったスタジオAで、20世紀の大量の歴史的な情報を流しつつ、頭上に浮かぶ9つの水槽を使い、音と光と霧が幻想的な映像の空間をつくりあげる。そのほかにホワイエでは、インドネシアのアーティスト・コレクティブ、セラムによる「クリクラボ─移動する教室」や、その階段の上ではALTEMY(津川恵理)の「Incomplete Niwa Archives─終らない庭のアーカイヴ」のインスタレーションが展示されていた。



坂本龍一+高谷史郎+YCAM「ART–ENVIRONMENT–LIFE 2021」展《LIFE—fluid, invisible, inaudible...》展示風景



セラム「クリクラボ─移動する教室」 展示風景



ALTEMY「Incomplete Niwa Archives─終らない庭のアーカイヴ」 展示風景


坂本龍一+高谷史郎+YCAM「ART–ENVIRONMENT–LIFE 2021」

会期:2021年10月8日(金)〜2022年1月30日(日)

セラム「クリクラボ─移動する教室」

会期:2021年10月30日(土)〜2022年2月27日(日)

原瑠璃彦+YCAM共同研究成果展示「Incomplete Niwa Archives─終らない庭のアーカイヴ」

会期:2021年10月8日(金)〜2022年1月30日(日)

2021/12/19(日)(五十嵐太郎)

山陽の磯崎建築をめぐる

[岡山、山口]

仙台を早朝6時台に出発し、新幹線を乗り継ぎ、11時台に岡山駅、そこからレンタカーを使い(途中で久しぶりに磯崎新の《岡山西警察署》(1997)に立ち寄ったが)、13時過ぎに奈義町現代美術館に到着した。企画展「花房紗也香展─窓枠を超えて─」のカタログに論考「どこまでが外部で、どこまでが内部か」を寄稿したこともあり、2年連続での同館の訪問となった。これまでに見た作品も勢揃いしつつ、子どもたちとのワークショップの作品も加わり、絵画によって白い展示空間にさまざまな「窓」をあけていた。展覧会にあわせ、彼女が企画した国際アートイベント「Nagi Contemporary Arts Project」はすでに終了していたが、山陰と山陽をまたぐYin-Yang (イェンヤン)Art Projectや(実際、奈義町は岡山よりも鳥取から行く方が近い)、今年、革細工作家が新設したギャラリースペースのStudio Moimを案内してもらう。またGallery FIXAの横には宿泊棟も開設したほか、今後はMOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIOによるこども園や、畝森泰行の中学校も建設されるらしい。人口5,500人台の奈義町において、いろいろな動きが起きている。



岡山西警察署



花房紗也香展 展示風景


翌日は 秋芳洞で建築にはつくれない凄まじい自然の地下空間を体験してから、 《秋吉台国際芸術村》(1998)の磯崎建築群をまわった。力作である。ピアノの発表会が終わるのを待ってから見学した、ルイジ・ノーノ作曲の「プロメテオ」に対応する特殊な群島型のホールは、やはりほかに類例がない空間である。その造形は秋芳洞も想起させるが、ここで「プロメテオ」を聴いてみたい。

現在、芸術監督が不在であるため、本来のスペックを生かした実験的な取り組みはあまりされていないようだが、ポテンシャルをもつ施設だ。例えば、高山明に依頼したら、独特の空間を生かした興味深い作品ができるのではないか。本館棟の背後にあって、おそらくアンドレア・パラディオのテアトロ・オリンピコを意識した野外劇場も、草が生え、長く未使用になっている。展示ギャラリーでは、ポストカードのコンテストを開催中だった。とんでもなく天井が高いレストランは、ウェディング業者が運営に入り、一連の施設が結婚式などで活用されている。宿泊棟では、実際に一泊することで、付設された中山邸(再現バージョン)をラウンジとして利用することもでき、これは大変に良かった。3,000円台という良心的な値段であり、テレワークにも使えそうだが、星野リゾートあたりがリニューアルをして、食事付きのプランを設定すれば、高価格のデザインホテルに変えられるのではないか。



秋芳洞



秋吉台国際芸術村ホール



秋吉台国際芸術村野外劇場



左は宿泊棟 中央が中山邸 右がレストラン



秋吉台国際芸術村宿泊棟



中山邸のサロンから秋吉台国際芸術村本館を望む

関連記事

「プロメテオ ──聴く悲劇(トラジェディア・デル・アスコルト)」日本初演|阿部一直:アートトピックス(1998年11月16日号)

2021/12/18(土)(五十嵐太郎)

八戸市美術館

[青森]

2021年1月にすでに完成した躯体は見ていたが、開館後は初めてとなる《八戸市美術館》(2021)を訪問した。西澤徹夫・浅子佳英・森純平の設計による空間は、ジャイアントルームの吹き抜けが最大の特徴であり、廊下を介することなく、ホワイトキューブを含む、それぞれの専門的な部屋と直接につながっている。何もないときは工業地帯の景観が有名な八戸らしく(例えば、「八戸工場大学」の活動がある)、工場のような大空間だったが、市民がいる状況では、安東陽子がデザインしたカーテンによる空間の分節が効いており、ヒューマンスケールの調整を行なう。



八戸市美術館




ジャイアントルーム




安藤陽子のカーテン


開館記念の「ギフト、ギフト、」展は、ほぼ全室を使い、美術館のさまざまな空間を市民に向けてのお披露目を兼ねていた。八戸三社大祭やデコトラなど、地元の固有性をモチーフにした作品、桝本佳子の超絶技巧、KOSUGE1-16のユーモアなどを組み合わせる。そして建築チームは会場構成のみならず、作家としても参加し、リサーチをもとに、設計のヒントにもなった八戸の諸事象のネットワークを立体的に可視化した。近年の弘前れんが倉庫美術館、アーツ前橋、太田市美術館・図書館と同様、海外の巨匠を展示するのではなく、ここも地域資源に注目している。ただし、ラーニングというプログラムを積極的に打ち出したのが、新機軸だろう。



桝本佳子




KOSUGE1-16のインバウンド




ギフト展の建築チーム展示


青森アートミュージアム5館連携協議会連携事業「建築にみるこれからの美術館 ~八戸市美術館の可能性~」のトークイベントにて、筆者はモデレーターを担当したが、閉じられた部屋での議論ではなく、上下左右のあちこちで人々が行き交うなかでのトークは、せんだいメディアテークのオープンスクエアよりも、さらに進んだ空間の体験だった。そして登壇者の発言、来場者の質問、視聴者の書き込みによって、今後この美術館をどう使ったらいいかという建築の可能性を考えるいい機会になった。実はトーク終了後の懇親会でも、同じテーマでさらに議論が続き、みんなで使い方をあれこれ提案したくなる、美術館の幸せな誕生に立ち会うことができた。市民からノルディック・ウォーク(!)に使いたいという要望があり、11月末に実現しているらしいが、この日も壁に何か描きたいとか、ジャイアントルームと諸室のアクティビティを逆転させるなどのアイデアが生まれている。



トーク会場


関連記事

続 コロナ禍のなかでの青森県立美術館──企画展再開と青森アートミュージアム5館連携協議会の始動|工藤健志:キュレーターズノート(2021年03月15日号)

2021/12/12(日)(五十嵐太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00059113.json s 10173428

登呂遺跡

[静岡]

久しぶりに静岡の登呂遺跡を訪れた。本来ならば、敷地から富士山が見えるはずで、おそらく、当時そこで暮らしていた人にとって大きな意味をもっていたと思われるが、現在はすぐ近くまで住宅地が迫っており、まったく視界に入らない。こうした関係性を確認するためには、隣接する登呂博物館に入り、その屋上テラスから周囲を見渡す必要がある。



登呂遺跡



登呂博物館の屋上から富士山を見る


ところで、復元された遺跡は、当初の復元と少し違う。博物館の順路の最後にある発掘の歴史を紹介する部屋において、建築史家の関野克の設計によって、1951、52年に復元された竪穴住居と高床倉庫の模型が展示されているが、これらの棟の先にはっきりとV字型に交差した材が張りだす。実は屋外でも、静岡市立芹沢銈介美術館の前の木陰に隠れて、旧復元建物を移築保存しており、そこがメモリアル広場と命名されている。現在の復元には存在しない細部のデザインは、おそらく、神社建築に特有な千木のイメージだろう。ちなみに、復元された現在の祭殿には、堂々とこのモチーフが使われている。日本建築の起源として登呂遺跡を位置づけたい欲望が、かつての住居や倉庫の復元案に千木をもたらしたと考えると興味深い。



関野の復元案



左が登呂博物館、右が芹沢圭介美術館



メモリアル広場 関野が復元した登呂遺跡



祭殿



登呂博物館の展示 祭殿


もうひとつ登呂遺跡をめぐる欲望として個人的に大きな発見だったのは、当時の日本人がこれをどう考えていたかという社会背景を教えてくれる展示だった。最後の部屋における発掘に参加した人たちのインタビューをいくつか視聴したり、新聞報道などを読むと、敗戦後の日本にとって平和国家を歩む新しいシンボルとして、登呂遺跡の発掘に過剰な期待が寄せられていたことがわかる。なるほど、まだ食糧難が続く時代だった。しかも、サンフランシスコ講和条約の前だから、日本の主権が回復する前である。もともと戦時下の1943年に軍需工場を建設しようとしていたときに、遺跡が発見されたことを踏まえると、まさに同じ場所が戦争のための施設ではなくなり、稲作を行ない、平和に暮らす弥生人という日本の原点にシフトしたわけだ。インタビューでは、こうした熱気を受けて、発掘作業に従事していた高揚感が語られるとともに、現在ではそれがほとんど忘れ去られていることを嘆いていた。今では歴史の教科書の1ページでしかない。しかし、これは日本全国が注目した発掘プロジェクトだったのである。

2021/12/10(金)(五十嵐太郎)

文字の大きさ