2023年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

五十嵐太郎のレビュー/プレビュー

題名のない展覧会─栃木県立美術館 50年のキセキ

会期:2022/04/16~2022/06/26

栃木県立美術館[栃木]

学生のとき以来だから、宇都宮の《栃木県立美術館》を訪問したのは20年以上ぶりになる。確か、初めてこの建築の存在を知ったのは、世田谷美術館の「日本の美術館建築」展(1987)で紹介されていたときである。《栃木県立美術館》は、大阪万博の《万国博美術館》(旧国立国際美術館、1970)も手がけた川崎清が設計し、1972年に開館したから、日本において早い時期に登場した県立美術館だろう。樹木を象徴的に残し、それを映しだすハーフミラーの外観が特徴である。塔状のヴォリュームでありながら、存在感を消すようなデザインは、近年の建築の動向と共振するだろう。意外に古びれていない。もっとも、段状の広場を囲むガラス面は、作品への日射の影響から後に不透明になり、当初の外部と内部が連続するような空間ではなくなっていた。またセキュリティのためとはいえ、屋外彫刻を展示する広場が、隣接する公園に対し、閉ざしているのももったいない。ここはアクティビティをもたらす、効果的な場として活用できるはずだ。ちなみに、直交座標系で完結させず、壁の角度を振った内部の空間体験は今も楽しい。



栃木県立美術館


研究員の案内で、常設展示のエリアも含む(1981年にオープン)、全館をフルに用いた50周年記念の「題名のない展覧会─栃木県立美術館50年のキセキ」をじっくりと鑑賞した。プロローグとしてコレクション無しの状態から発足した美術館誕生の経緯(模型や図面、建築雑誌において紹介されたページなど)、基金を活用した購入作品(コロー、モネ、ターナーなど)、調査研究をもとに企画した展覧会群、美術館が所有する名品、女性アーティストへのフォーカス(福島秀子ら)、西洋の挿絵本、「美術館と同級生」として1972年に制作された作品、21世紀の栃木の現代美術、栃木の建築や風景を表現した作品群など、さまざまな角度のテーマが続く。全展覧会のポスターを年譜として並べたり、カタログや鑑賞ガイドなど、「印刷物でたどる美術館のあゆみ」も興味深い。なお、いくつかの企画展については、ポスターの撮影者やデザイナーも明記し、さらに担当した研究員のコメントも交え、活動を振り返る。そもそも美術館とはどういう場であるのか、また展覧会を実現する背景をていねいに教える内容だった。なお、建築のここを見て、といったキャプションも館内に用意され、建築も作品として再発見してもらう試みも良かった。



「題名のたくさんある展覧会」セクション




模型




石井幹子の《シャンデリア》(1972)




奥に全ポスターによる年譜




ポスターの展示にもキャプション




壁の素材を説明する


2022/06/04(土)(五十嵐太郎)

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沿岸部の被災地をめぐる

[宮城県]

せんだいメディアテークが推進する「アートノード」は、決して派手ではないが、ゆっくりと着実に動いている。アドバイザー会議にあわせて、川俣正による「仙台インプログレス」の状況を見学した。今年の春には、貞山堀の運河沿いに松林を一望できる小さな木造の《新浜タワー》(定員は5名まで)が完成している。構造材とは別にややランダムに斜めに配されたルーバーや、張り出した部材などのデザインによって、しっかりと川俣の作品になっていた。またその脇からは、2020年につくられた全長120mの《みんなの木道》が続く。もともとは運河にみんなの橋をつくる計画として始まったものだが、その前に木造やタワーができるというのも、いかにも川俣らしい展開だろう。

なお、こうしたプロジェクトのミーティングでは、《新浜のみんなの家》が使われている。公園の仮設住宅地において伊東豊雄が最初に設計した《みんなの家》(2011)を移設したものだ。このあたりは、東日本大震災後に指定された可住地域と非可住地域の境界に近い。アーティストの佐々瞬が、半壊になった住宅の傷ついた部分を残しながら改修しているのも、このエリアである。また貞山堀の運河に近い宮城野区岡田の新浜地区では、建築ダウナーズの《風手土農園の小屋》や、佐々による《盆谷地の小屋》なども制作され、2021年にみんなの家を拠点として小屋めぐりのイベントが開催された。



《新浜タワー》



《新浜タワー》



《みんなの木道》



みんなの橋と塔の模型


その後、震災遺構 仙台市立荒浜小学校を久しぶりに再訪したが、駐車場のためのアスファルトのエリアが拡張されていた。それなりに来場者がいるのだろうが、今後、近くで新しい施設の開発も予定されているらしい。またその向かいの居住禁止の区域にある自宅跡地をスケートパークに改造した《CDP》(2012)は、健在だった。2019年に公開された震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎は、コンクリートの基礎だけが残り、一帯がかつて住宅地だったことを伝える。ここからは、かつて海水浴場として賑わったエリアはすぐである。昔の状況に戻すことは難しいし、私有地のためか、いまだに瓦礫が除去されていない場所も残っているが、少しずつ新しい風景を獲得しようとしている。



再開発が予定されているほか、駐車場も整備された荒浜小学校の周辺



《CDP》から荒浜小学校を見る



震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎


2022/05/19(金)(五十嵐太郎)

篠田桃紅展

会期:2022/04/16(土)~2022/06/22(水)

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

前衛的な「書」における文字の解体から、MoMAの展覧会への参加を契機とした1950年代におけるアメリカ滞在を経て、現代美術の影響も受けながら、純粋なかたちによる抽象的な表現へと展開していく流れ、あるいは同じモチーフの探求など、単純にカッコ良い。当時、撮影された映像ドキュメント「日本の書」で確認できる、彼女が描く際の身のこなしも、それ自体が洗練されたパフォーマンスのようだ。個人的に特に関心をもったのは、上階のスライド・ショーで紹介されていた建築家とのコラボレーションである。20世紀の半ばは、岡本太郎、猪熊弦一郎、流政之らが、さまざまなモダニズムの空間にパブリック・アートを提供し、建築と美術の協働がうたわれていたことはよく知られているが、基本的に平面の作品によって、篠田も実に多くの建築に関わっていた。同展の年譜によれば、1954年、サンパウロ市400年祭において丹下健三が設計した日本政府館に壁書を制作したのが最初の建築関連の仕事のようである。なお、同年の銀座松屋の個展では、丹下が会場デザインを担当していた。

会場でメモしたので、以下にその事例を列挙しよう。丹下の建築では、《日南市文化センター》(1962)における緞帳やホワイエの作品、《旧電通本社ビル》(1967)のロビー、《国立代々木競技場》(1964)の貴賓室における剣持勇の家具との共同作業。そして大谷幸夫の《京都国際会館》(1966)のロビーにおける壁画やレリーフ、芦原義信の《ホテル日航》(1959)、佐藤武夫の《ホテル・ニュージャパン》(1960)、竹中工務店の《パレスホテル》(1961)、《コンラッド東京》(2005)などである。モダニズム以外では、増上寺の巨大な壁画を手がけていた。コンラッド東京をのぞくと、1960年代の重要な施設にかなり集中していることがよくわかる。なるほど、ポストモダンの時代には、建築そのものがやや装飾的になるので、モダニズムのプレーンな面に囲まれた空間に対して、具象的でもなく、過剰に装飾的でもない篠田の抽象的な作品は、相性が良かったのだろう。そして日本的なるものを現代的に再解釈した姿勢も、同時期の建築と共振している。

2022/05/18(水)(五十嵐太郎)

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三重の街並み

[三重県]

実は昨年、初めて立ち寄ったのだが、その際はあまりにも滞在時間が短く、江戸から明治時代にかけて約200軒の町屋が連なる全体を見たかったので、東海道47番目の宿場町だった三重県の「関宿」を再訪し、約1.8kmの関宿の街道を往復した。もちろん、ここは重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。さわやかな空間の主屋が残る《関の山車会館》、上階において街並みの変化を連続写真で展示する元町屋の《関まちなみ資料館》、大規模な《関宿旅籠玉屋歴史資料館》も、それぞれ良かったが、これだけの長い距離で、古い建築群が続く街並みを保存、もしくは修景しているのは本当に画期的だ。大室佑介が内部のリノベーションを手がけたピザ屋も、外観は一切手を加えられないように、街並みのファサードは厳密にコントロールされている。



関宿の街並み



関の山車会館の主屋



旅籠玉屋歴史資料館の2階



大室佑介によるリノベーション


初の松坂市は、有名な現代建築は存在しないが、古い建築がよく残っていた。そこで、まず赤い壁が目立つ「松阪工業高校資料館」(旧三重県立工業学校製図室)(1908)、モダンな《中井珠算簿記学校》、レンガ造の《松阪市文化財センター(旧カネボウ綿糸松阪工場綿糸倉庫)》(1923)などの近代建築をまわった。城跡内にある「松坂市立歴史民俗資料館」は、明治期の旧図書館を改造したものであり、松坂商人と日本橋の関係を学ぶ。二階の《小津安二郎松坂記念館》では、映画『秋刀魚の味』の家屋模型も展示されている。すき焼きで知られる「牛銀本店」は昭和初期の建築であり、ちょうどお昼だったので、横の洋食棟のランチを食べることができた。約1時間待ちになったが、近くの古い街並みを散策していれば、まったく苦にならない。



松坂市立歴史民俗資料館



牛銀本店


特に良かったのは、殿町や魚町である。個別の建築としては、小さい武家屋敷を増築した「原田二郎旧宅」、圧倒的にユニークな近代和風の意匠に感心させられた豪商「旧長谷川治郎兵衛家」、そして現代の公共施設に通じる空間の構成が巧みな《旧小津清左衛門家》などが秀逸だった。これらのパンフレットの解説ではほとんど触れられていなかったが、いずれも建築的な面白さをもっとアピールしたら良いのに、と思う。また城跡に近い、石畳の両側に武家屋敷が並ぶ、江戸時代の「御城番屋敷」は、復元かと思いきや、現存する古建築であり、しかも武士の子孫が今も居住し、実際に暮らしていることに驚かされた。関宿の街並みもそうだったが、まさに生きた文化財である。



旧長谷川治郎兵衛家



旧小津清左衛門家

2022/05/05(木)(五十嵐太郎)

沼津の近現代建築

[静岡県]

静岡県の沼津市を訪れた。ここはアニメ『ラブライブ! サンシャイン!!』の聖地でもあり、街のあちこちでキャラクターに出会うが、想像していた以上に数多くの近現代建築を見ることができた。まず丹下健三の《図書印刷沼津工場》は、1954年に竣工したモダニズムである。ファサードは車道路沿いに凄まじく細長いプロポーションをもち、造形が鋭い。正面が壁で埋められて、透明な構造が、やや見えにくくなったものの、現役で活躍している。その後、長坂常によるリノベーションで人気店の《cafe/day》(2015)で、おいしいパンケーキを食べたが、こちらは丹下の時代とは違う、2010年代のカジュアルな感性を体現していた。すぐ近くには、槇文彦が設計した白い《加藤学園暁秀初等学校》(1972)、長谷川逸子の黄色のアクセントが印象的な《沼津中央高校》(2002)、久米設計の今風のルーバーを並べた《ぬまず健康福祉プラザ》(2007)などもある。また沼津駅の周辺には、やはり長谷川による巨大なコンベンションセンター《ふじのくに千本木フォーラム》(2013)は、ライトコンストラクションと木をハイブリッドした建築がたつ。これは屋上の庭園から、富士山がよく見える。


《図書印刷沼津工場》



《cafe/day》



《ふじのくに千本木フォーラム》


思わぬ伏兵として良かったのが、増沢洵の《沼津市民文化センター》(1982)だった。打ち込みタイルの時代になった前川國男に通じるデザインで、決してラディカルではないし、現代風でもないが、内部空間とその展開がとてもていねいに作られており、もっと再評価されるべき作品だろう。40年過ぎても色あせない造形だった。逆にキレキレなのが、菊竹清訓の《沼津市芹沢光治良記念館》(1979)だった。荒々しいコンクリートの塊が集合した要塞のような建築である。大きな施設ではないが、教会を意識したらしく、異様な存在感を放つ。沖種郎による《きうちファッションカレッジ》(1961)も力強い建築だった。もう使われていないが、解体はされていなかったので、奥の渋いモダン建築とあわせて、60年前の名建築にうまい活用法が見つかるといいのだが。そして歩道上に建物が張りだす、池辺陽らの《沼津市本通防火帯建築》(西側1953、東側1954)、すなわちアーケード商店街も興味深い。都市スケールで展開する1950年代のモダニズムの心意気を感じる。



《沼津市民文化センター》



《沼津市芦沢光治良記念館》



《きうちファッションカレッジ》



《沼津市本通防火帯建築》

2022/05/05(木)(五十嵐太郎)

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