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イデビアン・クルー『ハウリング』

2016年04月01日号

会期:2016/03/18~2016/03/20

世田谷パブリックシアター[東京都]

始まって早々「なるほど!」と思った。タイトルのことだ。草原に男が一人。歩く手に白い紙袋。「キーン」と耳鳴りのような不快音がし、立ち止まる。それで男は歩く進路を切り替える。また、少し歩くと不快音がする……こんな冒頭。「ハウリング」とは、マイクから出た音を同じマイクが拾うことでスピーカーからノイズが出る状況のこと。誰だってハウリングが嫌いだ。でも、誰だってハウリングを出してしまう、他人にとって不快な存在になりうる。なんとイデビアン・クルーにふさわしいタイトルだろうと思っているとサックス奏者5人組が登場。今作の白眉はなによりも音楽だった。ブラジル音楽ならばサウダーヂと呼びそうな多層の感情が重なるような音楽。でも、ジャズがベースなので、ブラジル音楽よりも乾いていて、もっとひっちゃかめっちゃかだ。拍子の異なるリズムとリズムが折り合わさる。その感じは、イデビアン・クルーのダンスにじつにピッタリ合う。60分のコンパクトな作品のテーマは、お見合いと結婚。二重の円を描いて向かい合う人と人。息を合わせているが、そうは簡単には合わない。気持ちを押しつけたり、気持ちに応えようとしたり、それで独りよがりになったり。そんな気持ちのズレやズレへの恐れやズレがどうでもよくなって衝動に任せるところなど、すべてがダンスの要素となる。むしろそれこそがダンスというものなのではないかとさえ思えてくる。けれども、同時にこんな気持ちも湧く。じつに井手茂太らしいダンスだと。もはやそれは一種の芸だ。井手が一代で築き上げた独自の芸能だ。その変わらぬクオリティを愛でつつ、笑ったり、ぐっときたりしているぼくは、多くの観客たちと同様、井手ダンスに魅了されているファンの一人に相違ない。でも同時に、このハイ・クオリティな舞台が透明な天井に突き当たっているようにも見える。結局、〈井手の思う/感じるところ〉にこの舞台は支配されている。〈井手の思う/感じるところ〉はじつに豊かだが、とはいえ、その豊かさには限界がある。そこには外部へと通じるほつれが意外と見当たらないのだ。ラストには、バブル期の結婚式のパロディか、ゴンドラ(?)から新婦(のみ)がスモークとともに降りてくる。彼女は文金高島田を頭に被り、しかし衣装は迷彩服。これが外部へのほつれを生むかと思いきや、戦争のモチーフは、文金高島田によるブーケトスへとズラされる。このズッコケはおかしいが、戦争にリアリティがもてない自分たちを露呈させはすれど、そこに留まる以外の道筋が描かれることはない。別に戦争を描けと言いたいわけではない。ウェルメイドな構成に、ピナ・バウシュのタンツテアターを連想させられたけれども、バウシュならば60分ではなく、その2倍かそれ以上のヴォリュームにしただろう。もしそうするならば、バウシュはどんな場面を付加しただろう。物質的な自然を用いた場面か? そんな想像をしながら、本作の外部に思いを寄せてしまう(だからといって、バウシュらしくせよ、などと思っているわけではない)。

2016/03/18(金)(木村覚)

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