artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
KIM Yongsuk Keep?
会期:2009/07/05~2009/08/02
Party[福島県]
「Party」とは、おそらく日本でもっとも最寄り駅に近いオルタナティヴ・スペース。常磐線のいわき駅から徒歩3分。呑み屋が立ち並ぶ一角に立つ雑居ビルの中にあり、同じビルには映画館やバーが入居している。天井はそれほど高くはないが、床面積はかなりの広さで、図書コーナーやバーカウンターも併設しており、今後の活動が楽しみなスペースだ。今回催されたのは、地元福島で活動している金暎淑(キム・ヨンス)の個展。真っ白いゼロ戦とタンポポの綿毛をモチーフとした幻想的な映像作品などを発表した。強い風に吹き飛ばされる白い砂を映し出したスロー映像は、まるで原爆が炸裂するシーンのようでもあり、戦争と死を強く励起する作品である。
2009/07/31(金)(福住廉)
山本直彰 展
会期:2009/07/11~2009/09/06
平塚市美術館[神奈川県]
80年代以来、現代美術としての日本画を一貫して追求してきた山本直彰の回顧展。若かりし70年代に描かれた初期の作品からプラハ滞在を契機にはじめられた《Door》のシリーズ、そして最新作である《帰還》シリーズまで、ドローイングも含めて、あわせて60点あまりが発表された。《IKAROS》や《PIETA》といった題名からも想像されるように、山本の作品は神話的・宗教的なイメージにもとづいているものが多いように思われるが、画面に描き出されたイメージは、炸裂、瞬発、墜落、阻止などの言葉によってとらえられ、その点では、むしろサブカル的想像力と大きく重なっているようにも見えた。もちろんサブカル的想像力が神話的なイメージを流用しているのであって、決してその逆ではないのだが、しかし、村上隆の台頭より以前に、じつは日本画とサブカルチャーは出会っていたのではないだろうか。それが「ネオ・ポップ」というムーブメントを新たに捏造することによってではなく、日本画というジャンルの内部で、しかも具象性より抽象性を優先するかたちでなされていたことに、重大な意味があると思う。
2009/07/30(木)(福住廉)
山下耕平 展─ケルン・現在位置─
会期:2009/07/16~2009/08/22
INAXギャラリー2[東京都]
アウトドアとアートを融合させるという山下耕平の個展。登山をモチーフとした平面作品や立体作品を発表した。黒い背景にカラフルな図像が置かれた絵はひと目で山登りの場面が描かれていることがわかるが、よく見ると、それらは色とりどりの丸い円で構成されており、さらによく見ると、大半が既存のイメージを寄せ集めたコラージュであることに気づかされる。巨視的に見れば、セル状に集合した円は、黒を背景にしているせいか、宇宙論的なイメージを強く感じさせるが、微視的に見れば、既成の図像が醸し出す世俗的なイメージが喚起される。神話的に語られるか、もしくはレジャーとして楽しまれる登山のステレオタイプにたいして、両者がせめぎあう現場として山を描いているのだろう。
2009/07/29(水)(福住廉)
新世代への視点2009──画廊からの発言
会期:2009/07/27~2009/08/08
ギャラリーなつか他[東京都]
東京の銀座・京橋近辺の画廊でつくられた「東京現代美術画廊会議」が企画する連続展覧会の10回目。12の画廊によって推薦されたアーティストの個展をそれぞれの画廊で同時期に開催した。加藤崇(ギャラリイK)は、顔面をテープでぐるぐるに巻いた写真や、コップの水を口に出し入れするたびに水が変色していく様子を映した映像を発表して、着実に新たな展開を見せていた。また、和紙の上に描かれた動植物にビーズをあしらうことで蟻の群れを表わした柳井信乃(ギャラリーQ)や、方解末による結晶のような模様を内部に仕込んだ透明のアクリル板を鋭角上に組み上げた市川裕司(コバヤシ画廊)などが際立っていた。
2009/07/29(水)(福住廉)
ゴーギャン展
会期:2009/07/03~2009/09/23
東京国立近代美術館[東京都]
ポール・ゴーギャンの展覧会。油彩をはじめ版画や彫刻など、およそ50点が展示されたが、なかでも注目されたのが、本邦初公開となる《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897-1898)。ワイド画面にタヒチの風景と図像を描いた絵はたしかに見応えがあったけれど、気になったのはその脇に絵を図解する解説ボードが設置されていたこと。図像学よろしく、さまざまなイメージを懇切丁寧に解説することを、専門家による親切なサービスととらえるか、あるいは大きなお世話ととるべきかは客の自由だが、こうした善意の取り計らいが期せずして日本人の「定説文化」(針生一郎)を再生産しているように思えてならない。定説を拝聴して、確認して、納得して、安心して帰っていくプロセスからいかにして脱却することができるのか。近代をいまだに内面化しえないまま、いびつなポストモダン社会を生きる私たちにとっての課題は、そこにある。おそらくそのヒントは、ごくごくありていにいってしまえば、学芸の研究と鑑賞教育を有機的に統合した展覧会のありようにこそ、求められるのではないだろうか。
2009/07/29(水)(福住廉)