artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

吉野辰海 展

会期:2009/06/15~2009/06/27

Gallery58[東京都]

美術家・吉野辰海の個展。近年はブロンズなどの硬質な素材によって捩れた犬などを表現していたが、今回の作品で作風が一転した。「SCREW」と名づけられた新作は、犬の頭部にはちがいないものの、正面はむしろ象の頭部で、両者が融合した特異な形態になっている。巨大な頭部を支えているのは少女のような華奢な裸体だが、これもわき腹や性器を見ると、少女というよりむしろ老婆のような印象すら覚える。そして何よりもこれまでの吉野の作品に見られなかった特徴が、けばけばしいほどの色彩だ。象=犬の頭部はピンクや青に塗られ、大きく開けられた犬の口は真っ赤に彩られている。円熟期を迎えてのポップへの転向宣言というべきか、あるいはモードこそちがえど、そもそも最初からポップだったというべきか。次回の展開が待ち遠しい。

2009/06/25(木)(福住廉)

足立智美による「新国誠一」パフォーマンス

会期:2009/06/22

武蔵野美術大学12号館1階ビデオアトリエ[東京都]

パフォーマー/作曲家の足立智美によるパフォーマンス公演。同大学で催されていた「新国誠一の《具体詩》」展の関連企画として催された。新国の視覚詩と音声詩をそのまま忠実に再現するのではなく、それらをベースにしながらも、積極的に読み替え、エレクトロニクスを多用しながら、詩と音楽のあいだを切り開こうとした。そのため、新国の音読といえば、囁くようなウィスパーヴォイスと、耽美的かつエロティックな声質が特徴的だが、足立は声の抑揚からスピードの高低、ヴォリュームの大小まで大胆にメリハリを利かせ、新国の詩の攻撃的・暴力的な一面を引き出そうとしていたようだ。新国の代表作「雨」(1966)では、雨の中の点点をいちいち一つずつ音読して、「え、あれを全部読むつもり?」と観客を一時的に不安にさせたが、中盤になっておもむろにシャツを脱ぎ捨て、白いTシャツの正面にプリントされた「雨」の文字を指差しながら「あめ」と口にして、観客を唸らせた。

2009/06/22(月)(福住廉)

村山知義と三匹の小熊さん

会期:2009/06/06~2009/07/12

ギャラリーTOM[東京都]

大正期の前衛美術集団「マヴォ」で知られる村山知義と、その伴侶となる岡内籌子による絵本「三匹の小熊さん」の展覧会。同作の原画や紙芝居、そして1931(昭和6)年に制作されたというアニメーションなどが発表された。壁面には村山による原画、かつて『子ども之友』誌に掲載された童画、近年の絵本が三段に並べて展示されていたため、村山の原画がほぼ忠実になぞられていることがわかるようになっていた。

2009/06/20(土)(福住廉)

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岸田劉生 肖像画をこえて

会期:2009/04/25~2009/07/05

損保ジャパン東郷青児美術館[東京都]

没後80年を記念した岸田劉生の回顧展。自画像や肖像画、およそ80点を展示した。要点を簡潔におさえた解説文のおかげで、劉生のいう「内なる美」が、「装飾の美」「写実の美」「想像の美」という三段階を経ながら徐々に変化していく過程が、的確に理解できるようになっていた。後期印象派から北方ルネサンスの影響を受けた自画像は、外来の技法を取り入れることで近代的な自己意識を開発していった当時の日本人の精神構造を反映していたようだったが、それが関東大震災を契機に、今度は岩佐又兵衛や顔輝を参照しながら、いわゆる「デロリ」の美へと反転していく様子がおもしろい。狭い肩幅に大きな頭の肖像画はまるで「ガンケシ」のようで、それと大胆にデフォルメされた麗子像が劉生にとっての大きな到達点であることを考えると、劉生による近代的な自我の探究は、ついに日本的な「キャラ」に帰着したといえるように思う。

2009/06/20(土)(福住廉)

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市川建治 展 花と夢

会期:2009/06/17~2009/06/28

Art Center Ongoing[東京都]

会場に足を踏み入れると、そこにはおっぱいがいっぱい。エロ本の写真を正方形に切り抜き、それらをもとに花々のかたちにコラージュした平面作品や立体作品が展示されていた。とくに平面作品は全体的な視点と個別的な視点によって見分けるとおもしろい。距離をとって全体を見渡してみると、膨大なピクセルの集合によって成り立つデジタル画像を無理やり拡大した図像のような味気なさを感じるが、ひとたび近づいて凝視してみると、女体の集合が醸し出す匂いにむせ返るほどだ。といっても、それらの個別的な図像は唇や下着、腋など、あくまでもパーツに限られているから、いずれも匿名性を帯びており、だからエロティシズムというより、むしろフェティシズムを強く感じさせている。同じように作られた立体作品には、植物の芽が植えられ、再生のイメージが強調されていたが、「エロ本」というメディアがすでに瀕死の状況にあることを考えると、むしろ死のイメージのほうが際立っており、その「生」と「死」の両極を丸ごと画面に定着させようとするフェティッシュな視線が力強くも頼もしい。

2009/06/19(金)(福住廉)