artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜
会期:2014/02/08~2014/04/06
世田谷美術館[東京都]
岸田劉生と、その父吟香および娘麗子、3代をまとめて紹介した展覧会。緻密な研究に基づいた非常に充実した展観で、幕末から明治にかけて文明開化の一翼を担った吟香と、画家そして演劇人としても活躍した麗子の軌跡を、劉生の画業にそれぞれ接続した意義も大きい。
とりわけ注目したのが、吟香。尊皇攘夷の志士にはじまり、左官や泥工の助手、八百屋の荷担、湯屋の三助、芸者の箱丁、妓楼の主人、茶飯屋の主人から、初の和英辞書『和英語林集成』の編纂、液体目薬「精 水」の製造販売および「楽善堂」の開設、『東京日日新聞』の主筆、台湾への従軍記者、訓盲院の設立、中国と朝鮮の地図編集まで、その活動は町人文化とジャーナリズム、そして社会福祉事業を貫くほど多岐にわたる。美作国から江戸、そして上海まで闊歩した行動範囲の広さも考え合わせれば、吟香に明治の文明開化を体現する近代人の典型を見出すことは決して難しくない。
美術との関わりで言えば、書画を嗜み、新聞の挿図も自ら手がけた。また落合芳幾や下岡蓮杖らによって自身が描写されてもいる。さらに高橋由一や五姓田一家と親交を深めたほか、新聞記者としては第一回内国勧業博覧会の記事を29回にわたって連載し、これは本邦初の展覧会批評とされている。また浅草寺で催された下岡蓮杖の興行を「油絵茶屋」と紹介したのも吟香である。美術の近代化に一役も二役も買っていた吟香のバイタリティが伝わってくるのだ。
本展が美術史に果たした功績は大きい。だが、それを踏まえたうえで指摘したいのは、美術史を同時代に解き放つ視点の必要性である。美術に限らずどんな歴史学も自らの研究対象を限定しがちだが、とりわけ美術史はその傾向が強い。けれども、そうした分野の壁を自明視していては、その時代を解き明かすことにはならないし、そもそもいかなる時代にあっても、美術という特定の分野だけに人びとのリアリティが収まるはずもない。
たとえば吟香の活動は美術を含みながらも、大衆文化や政治、地政学、社会福祉、ジャーナリズム、衛生学など広範囲に及んでいた。あるいは吟香という名前にしても、これはもともと深川界隈で名乗っていた銀次が銀公に転じ、さらに吟香と改めた経緯がある。吟香というとなにやら知的な雰囲気があるが、本来的にはいかにも庶民的な名前だったのだ。だとすれば吟香の輪郭が上流社会に属する美術という概念を大きくはみ出すことは明らかだ。
吟香や劉生が歩いていた銀座や築地の街並みを、美術だけではなく、他の文化論や都市論、あるいは庶民のまなざしによってとらえ返すこと。具体的に言えば、それらの街並みを牛耳っていた博徒や侠客などの活動を浮き彫りにすることで、これまでにはない角度から吟香や劉生の身体を照らし出すことができるのではないか。重箱の隅を突くような美術史研究に飽き足らない者は、ぜひこうした視点からの研究を深めてほしい。
2014/04/03(木)(福住廉)
黒部と槍 冠松次郎と穂苅三寿雄
会期:2014/03/04~2014/05/06
東京都写真美術館[東京都]
日本山岳写真のパイオニアである冠松次郎と穂苅三寿雄の展覧会。写真を中心に自筆文献などの資料もあわせて130点あまりが展示された。
両者がいくども足を踏み入れていたのが、現在の北アルプス。大正時代、冠松次郎は黒部渓谷を踏破し、穂苅三寿雄は槍ヶ岳の麓に槍沢小屋を開設した。現在はいずれも登山道が整備され、多くの登山客で賑わっているが、彼らの写真を見ると、当時の登山が文字どおり秘境探検に近かったことがわかる。それは彼らが道なき道を歩んでいたからというより、むしろ彼らが歩いた黒部と槍に人間の気配がまったく感じられないからだ。現在の登山道で他人とすれ違うことは珍しくないが、この時代の場合、そうした交差は皆無であったことは想像に難くない。写真には、人間不在の世界を突き進む胸騒ぎと昂揚感があぶり出されていたのである。
そのような心情は、類稀な文章家でもあった冠の次の一文に凝縮されている。「黒部のような原始的な渓は、ひとたびその奥へ入ると、それからそれへと魔術の紐でたぐられるように、日を忘れてその神秘の奥を探りたくなる。黒部川がその懐に私たちを抱きしめて、はなさいのだ」。
いま、日本の山岳に未開の地を切り開くフロンティアを望むことは難しい。だが、冠が言う「魔術の紐」は、山岳に限らずとも、あらゆる領域で出会うことができるだろう。芸術の神秘もまた、この見えない紐にたぐられるような経験の先にあるに違いない。
2014/04/02(水)(福住廉)
銀座地下街ラジオくん 声のアーカイブ展
会期:2014/03/19~2014/03/26
KANDADA 3331[東京都]
「銀座地下街ラジオくん」とは、取り壊しが決定している銀座4丁目の三原橋地下街を取材したラジオ番組。本展は、学生放送局「ざぎんWAVE」が同地下街の店主や常連客、周辺の画廊主らにインタビューして採集したさまざまな「声」を紹介したもの。
展示は、しかし、実際に音声が再生されていたわけではない。その点は惜しまれるが、それでも文字や写真、記事、図面などによって語られた地下街への思いを読むと、そこが多くの人びとにとっての憩いの場であったことがよくわかる。三原橋地下街は、次々と資本が投入される銀座の街中にあって、例外的にかつての時代の空気を吸える安息の場所だったのだ。
こうした問題はいまに始まったことではない。銀座のみならず、全国の都市は、かつてもいまも、スクラップ・アンド・ビルドの論理によって急速に塗り替えられている。むろん、その速度に相乗りする類のアートがあってもいい。だがその一方で、その奔流に打ち込まれる楔こそアートとして評価しなければならない。なぜならアートとは支配的な見方とは異なる別の視点を提供するものであり、その視角から見たもうひとつの世界のありようを私たちに垣間見せることができるからだ。きらびやかな銀座だけではない、庶民的な銀座の街並みが実在しており、しかも多くの人びとに求められているという声を紹介した本展は、そうしたアートの働きを存分に示した。
2014/03/26(水)(福住廉)
光山明 写真展 消えたこと/現れること
会期:2014/03/18~2014/03/29
gallery 福果[東京都]
「ニッポン顔出し看板紀行」シリーズを手がけている光山明の個展。これは観光地によくある顔出し看板を歴史的な事件の現場に設置して撮影した写真のシリーズで、今回は光山がもっとも関心を注いでいる足尾鉱毒事件を主題にした作品を発表した。
撮影地は事件の源となった足尾銅山をはじめ、そこから排出された鉱毒を沈殿させるために廃村にさせられた谷中村の跡地につくられた渡良瀬遊水地と谷中湖、そして請願のために上京しようとした農民を警察が弾圧した川俣事件の出発地である雲龍寺など。看板には、「強制破壊」や「谷中村廃村100年」、「鉱毒除外」という言葉とともに当時の事件が描かれており、いずれにも部分的に顔出しのための穴が開けられている。事件の痕跡を見出すことが難しい現在の風景に、光山は「顔出し看板」というキッチュな文化装置によって歴史を召喚しているのである。
なかでも今回とりわけ注目したのが、《川俣事件逮捕の図》である。副題に「小口一郎へのオマージュ」とあるように、この作品は同事件を主題にした小口一郎の版画を引用したもの。ただ、これまでの作品と異なっているのは、顔出しのための穴を開けるのではなく、画中で逮捕され連行される農民が被っている深編笠を半分に割り画面上に貼りつけている点だ。つまり画面の中の顔を見ることも、自分の顔を画面にはめ込むこともできないのである。
顔のはめ込みが現在に召喚した歴史を我有化することを意味しているとすれば、この《川俣事件逮捕の図》は、そうした歴史と現在の接点が失われているように見えなくもない。しかし別の見方をすれば、顔の入る余地がないがゆえに、逆説的に私たちの想像力が喚起されるとも言える。逮捕された農民たちは深編笠の下でどんな表情だったのだろうか。私たちはどうすれば苦難の歴史を分かち合うことができるのだろうか。むろん完全に同一化することはできないにせよ、光山が示しているのは、想像力によって歴史と向き合う姿勢や構えにほかならない。私たちにとって必要なのは、その身ぶりである。
2014/03/26(水)(福住廉)
大きいゴジラ 小さいゴジラ
会期:2014/02/25~2014/03/30
川越市立美術館[埼玉県]
映画『ゴジラ』が公開された1954年は、アメリカによる水爆実験「キャッスル作戦」がマーシャル諸島のビキニ環礁で行なわれ、第五福竜丸を巻き込んで被爆させた年である。その一方、同年は当時中曽根康弘らによって原子力研究開発予算が国会に提出され、読売新聞社主催の「誰でもわかる原子力展」が新宿伊勢丹で催されたように、日本の原子力政策の原点が刻まれた年でもある。ゴジラは被爆と原子力の平和利用という矛盾が凝縮した時代に誕生したのである。
それから60年後。ゴジラをめぐる社会状況が激変したことは言うまでもない。美術家の長沢秀之は映画のゴジラを「大きいゴジラ」としたうえで、東日本大震災によって「小さいゴジラ」が生まれたと設定した。本展は、その「小さいゴジラ」という未見のイメージを、美術家や美大生、小学生らが想像的に造形化した作品を一挙に展示したもの。市民参加やワークショップの体裁を採用しながら、そうした限界芸術の地平から現在進行形の同時代性を獲得した、非常に画期的な展覧会である。
窪田夏穂による《デモンストレーション・ゴジラ》は、9枚の短編マンガ。ゴジラの救出を訴える街頭デモをめぐる人間模様を筆ペンで簡潔に描いた。作画には黒田硫黄の影響が少なからず見受けられるものの、熱を帯びたデモ参加者と、彼らに注がれる冷ややかな視線のギャップの描写が生々しい。ここでのゴジラに「脱原発」が重ねられていることは明らかだが、ゴジラの被り物に身を入れることで初めてデモに参加することができた主人公の身ぶりには、正面切って脱原発を訴えることの難しさと、脱原発運動がゴジラのような求心力のある明確な象徴を依然として持ちえていない難しさという、二重の困難が投影されているように思われた。
《日常のゴジラ(2012年の夏)》で野間祥子と藤田遼子が描いたのは、都市の日常的な光景。一見するとなんの変哲もない街並みだが、よく見ると画面の奥のビル群はいずれも奇妙に歪み、傾いている。大きいゴジラは街を滅茶苦茶に破壊したが、まさしく東日本大震災に端を発する放射能汚染がそうであるように、小さいゴジラの脅威は見えにくいということなのだろう。逃げ出してくる人びとを尻目にスマホをいじる人物像は、知覚しえない脅威に想像力を働かすことのない現代人の肖像なのだ。
小さいゴジラを創出する道筋をつけた本展の意義は大きい。時代を正視することを避けるアーティストが多いなか、この経験はひとつの光明である。
2014/03/18(火)(福住廉)