artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

新宿・昭和40年代 熱き時代の新宿風景

会期:2014/02/08~2014/04/13

新宿歴史博物館[東京都]

新宿副都心の歴史を写真によって振り返る展覧会。同館が所蔵する資料から、主に昭和40年代の新宿を撮影した写真およそ130点を展示した。
よく知られているように、東京オリンピックの前後から東京は大規模な都市改造を行なった。景観論争の的となっている首都高速が整備されたのも、新宿西口の淀橋浄水場の跡地に高層ビル群が建設されたのも、この頃である。昭和40年代に現在の「東京」の輪郭が定まったと言ってよいだろう。
車道を走る都電や東口の植え込み「グリーンハウス」にたむろするフーテン、歩行者天国を歩く家族連れ、ジャズ喫茶や新宿風月堂に集まる若者たちなどの写真を見ると、都市と人間の生態が手に取るようにわかる。そこには都市に生きる人びとの暮らしや身ぶり、思想が表現されていたのだ。言い換えれば、そのような生態があらわになる都市構造だったのかもしれない。
だが現在、そうした都市の表現主義は急速に後景化しつつある。ストリートは監視カメラによって隈なく管理されているため、わずかでも逸脱した表現はたちまち排除されてしまうし、都市を構成する建造物も、ショッピングモールのような内向性やネットカフェのような個室化に依拠しているため、そもそも表現としての強度が著しく弱い。端的に言えば、街としての面白さが一気に損なわれつつあるのだ。これは新宿に限らず、例えば駅前の猥雑なエリアを再開発によって一掃しつつある府中のように、国内の都市圏に通底する今日的な傾向だと言ってよい。
そのような都市構造の変容を如実に物語っているのが、本展に展示されている「新宿西口広場」が「西口地下通路」に変更された瞬間をとらえた写真である。当時、新宿駅西口はヴェトナム戦争に反対するフォークゲリラの現場で、多くの人びとが集まって賑わっていたが、その管理に手を焼いた行政当局は、この「広場」を「通路」として呼称を変更することによって彼らの排除を法的に正当化した。いわく、ここは人が集まる「広場」ではなく、人が通過する「通路」である。よって、人が滞留してはならず、すみやかに解散せよ。本展では、行政が公共空間の質を強制的に歪める決定的瞬間を目撃することができるのだ。
2020年の東京オリンピックに向けて、都市の再編成が進行することは間違いない。しかし、そのときいままで以上に表現を抑圧するとすれば、都市はますます求心力を失ってしまうのではないだろうか。

2014/02/11(火)(福住廉)

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ダレン・アーモンド 追考

会期:2013/11/16~2014/02/02

水戸芸術館現代美術センター[茨城県]


「時の旅人、ダレン・アーモンドが光と音で紡ぎ出す人類の叙事詩」。いかにも大仰な、本展の宣伝文句である。しかし、実際に展覧会を見ると、ダレン・アーモンドの真骨頂は「叙事詩」というより、むしろ「叙情詩」なのではないかと思わずにはいられない。
展示されたのは、写真や映像、インスタレーションなどさまざまであり、その内容も一貫性があるとは思えないほど多様である。けれども、少なくとも通底しているのは、それぞれのメディウムにおける形式的な美しさを最大限に洗練させながら、それぞれ鑑賞者の情動に強く働きかけている点である。
例えば、京都の比叡山で行なわれている千日回峰行を主題とした《Sometimes Still》(2010)は、複数のスクリーンを設置した映像インスタレーション。暗闇の中、斜面を駆け上がる修行僧を追尾したカメラの映像は、音響効果も手伝って、得も言われぬ緊張感が漂っている。シベリアで撮影したという《Less Than Zero》(2013)も、粗いモノクロ映像によって荒々しい風土や溶鉱炉の灼熱を映し出し、来場者の皮膚感覚を強く刺激していた。
一方、自分の父親に身体の負傷についてインタビューした《Traction》(1999)は、生々しい体験談に身体の内奥に眠っている痛覚が呼び覚まされる。肉体労働者の父はチェーンソーで指先を切り落とし、工事現場の高所から落下して骨を折り、フットボールの試合で歯がごっそり抜けた。文字どおり頭のてっぺんから足先まで全身傷だらけなのだ。その痛々しい歴史を淡々と口にする父親の語り口には思わず笑ってしまうほどだが、傍らで黙って話に耳を傾ける母親の眼を見ると、そこに家族の歴史が凝縮していることに気づかされる。痛みは記憶の糸口であり、それゆえ歴史を紡ぎ出す結節点となる。
肉体的な感覚と社会的な文脈の縫合。前者に傾きすぎると情緒的なだけになるが、後者に偏りすぎるとたちまち芸術性が失われてしまう。ダレン・アーモンドの妙技は、さまざまなメディウムを駆使しながら、双方のあいだで調和をはかる絶妙なバランス感覚なのだろう。

2014/02/01(土)(福住廉)

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ガタロ絵画展 ヒロシマ 美しき清掃の具

会期:2014/01/14~2014/01/27

ギャラリー古藤[東京都]

ガタロは広島生まれの今年65歳。ショッピングセンターを掃除する仕事をしながら雑巾やモップといった清掃用具などの絵を30年にわたって描き続けてきた。これまであまり知られることはなかったが、2013年に放送されたNHKによる番組「ETV特集ガタロさんが描く町」で大きな注目を集め、この度都内と横浜市の2カ所で相次いで個展が催された。本展では絵画やオブジェなど60点あまりが展示された。
ガタロの絵の特徴は、力強く太い描線とていねいで繊細な画面構成。双方は相矛盾するように思われがちだが、ガタロの絵にはそれらがみごとに統合されている。同じ画材で原爆ドームの剥き出しの鉄骨と水に濡れたモップの繊維を描き分けるほど描写力も高い。そのため汚れを落とす道具や廃れたもの、周縁化された人を神々しく描くというコンセプトがありありと伝わってくる。村山槐多やケート・コルヴィッツを連想させる画風だ。
本展の白眉は《豚児の村》(1985)。ベニヤ板を3枚並べた大きな画面に、原爆ドームと平和大橋、福島第一原発から流れ出る汚染水、そして豚が描かれている。豚が人間の強欲を表わしていることは理解できるにしても、80年代からすでに原爆と原発をめぐる核の問題を絵画の主題としていたことには新鮮な驚きを感じた。この絵には、私たちの過去と現在が凝縮しているのである。
かつて美学者の中井正一は、「利潤を求めて技術が、その盲目の発展をするとき、それは鼻の先に肉を下げられた豚が真直ぐに突っ込むように、それは盲目である」と指摘したうえで、「芸術家とは20年も先んじて人びとの憂いに先んじて憂い、人びとの喜びに先んじて微笑むのである」と書いた(「文化のたたかい」)。おのれが豚であることを心の奥底で感じている者は、おそらく少なくない。ガタロの絵には、現代の人間像がはっきりと描き出されているのである。

2014/01/27(木)(福住廉)

ポンピドゥー・センター・コレクション フルーツ・オブ・パッション

会期:2014/01/18~2014/03/23

兵庫県立美術館[兵庫県]

ポンピドゥー・センターにあるパリ国立近代美術館のコレクションを紹介する展覧会。ダニエル・ビュラン、ゲルハルト・リヒター、サイ・トゥオンブリーらの巨匠による作品と、ここ10年のあいだに同館に寄贈された現代アートの作品、あわせて31点が展示された。
会場を一巡して思い至るのは、展示された作品の質の劣悪さ。玉石混交というより、アンリ・サラの優れた映像作品を除いて、ほぼすべての作品が「石」にすぎなかったのではないか。むろんビュランやリヒター、トゥオンブリーらの作品は「玉」ではあるのだろう。だが、そのことすら怪しく見えるほど、本展の「石」はおびただしい。
例えばハンス=ペーター・フェルドマン。回転する日用品の影を壁面に映し出す作品だが、これは言うまでもなくクワクボリョウタの代表作と著しく似通っている。重要なのは、どちらがオリジナルであるかではなく、作品として優れているのは明らかに後者であるということだ。後者には影絵のシルエットが次々とドラマチックに変動する美しさがあるが、前者にはそれが欠落しており、だからといってそれに匹敵する特質も見受けられない。ただただ、浅いのだ。会場の全体に漂っている虚無的な雰囲気に、暗澹たる心持ちにならざるをえない。
こうした極端な偏りが、コレクションを選定する鑑識眼によるのか、コレクションのなかから出品作を選び出すキュレーションのセンスに由来するのか、あるいはそもそもヨーロッパの現代アートに通底する一般性の現われなのか、正確にはわからない。けれども、「ポンピドゥー・センター・コレクション」という冠が色褪せて見えたことは事実である。しかし、もっと豊かで、もっと面白い、つまりもっとおいしいアートが確かに存在することを私たちは知っている。洋の東西を問わず、どれほど華美に装飾された果実であったとしても、不味ければ決して口にはしないものだ。

2014/01/25(土)(福住廉)

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秋山祐徳太子 大博覧会

会期:2014/01/09~2014/01/25

gallery58[東京都]

秋山祐徳太子による回顧展。旧作から新作まで、さらにさまざまな資料も含めて、おびただしい作品が一挙に展示された。小さな会場とはいえ、非常に充実した展覧会だった。
展示されたのは、秋山の代名詞ともいえる《ダリコ》はもちろん、かつて東京都知事選に立候補した際の記録映像やポスター、そして近年精力的に制作しているブリキ彫刻の数々。秋山の多岐に渡る創作活動を一望できる展観だ。受験番号一番を死守し続けた東京藝術大学の受験票や80年代に制作していた絵画など、貴重な作品や資料も多い。
なかでも注目したのは、秋山の身体パフォーマンス。都知事選における記録映像を見ると、秋山の身体運動が極めて軽妙洒脱であることに気づかされる。顔の表情だけではない。全身の所作が、じつに軽やかなのだ。上野公園でタレントのキャシー中島と行なったライブペインティングにしても、ふわふわと飛ぶように舞いながら支持体に何度も突撃する身体運動が映像に映し出されている。思わず「蝶のように舞い蜂のように刺す」というクリシェが脳裏をかすめるが、秋山のポップハプニングが面白いのは、それが必ずしも「刺す」わけではなく、ただひたすら「舞う」ことに終始しているように見えるからだ。
ダンスとしてのポップ・ハプニング。それは、重力に抗う舞踊とも、重力と親しむ舞踏とも異なる、そして儀式的で秘教的なゼロ次元とも、体操的な強靭な身体にもとづく糸井貫二とも一線を画す、秋山祐徳太子ならではの稀有な身体運動である。不意に視界に入ってくる蝶のように、秋山の身体は私たちの目前をひらひらと舞い、やがてどこかへ消えていくのである。

2014/01/20(月)(福住廉)