artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

イメージの力──国立民族学博物館コレクションにさぐる

会期:2014/02/19~2014/06/09

国立新美術館[東京都]

国立民族学博物館が所蔵する34万点の資料から選び出した約600点を見せる展覧会。博物館における「器物」や美術館における「作品」という制度的な分類を突き抜けた、人類による造形の力をまざまざと感じることができる。
会場に一歩踏み入れた瞬間、そこはまったくの異世界。壁一面に並べられた世界各国の仮面はすさまじい妖力を放っているし、垂直に高くそびえ立つ葬送のための柱「ビス」を見上げていると魂が吸い上げられるかのように錯覚する。いかにも漫画的なトコベイ人形やフーダ人形に笑い、観音開きの箱の内側に人形を凝縮させたリマの箱型祭壇におののく。文字どおり一つひとつの造形に「釘づけ」になるほど、それぞれの求心力が並外れているのだ。
けれども、その求心力とは、おそらく現代人の視線から見た異形に由来するだけではない。それらの造形の大半が宗教的な儀礼や物語、すなわち神や精霊、死と分かちがたく結びつけられていることを思えば、それらの底には見えないものをなんとかして見ようとする並々ならぬ意欲と粘着性の視線が隠されていることに気づかされる。そのような「イメージの力」にこそ、私たちは圧倒されるのだ。
興味深いのは、人類史にもとづいた造形の豊かさをこれだけ目の当たりにすると、美術史を背景にしたアートがいかに貧しいかを実感できる点である。アーティストたちの着想の源を見通せるだけではない。通常美術館で鑑賞する作品を脳裏に思い浮かべたとしても、目前の造形にとても太刀打ちできないことは想像に難くない。事実、後半に展示されていた、銃器を分解して彫像に再構成したアート作品や、あたかも美術展におけるインスタレーションのように展示された器物などは、器物の豊かさを逆説的に強調する材料にはなりうるにしても、基本的には美術の貧弱さを再確認するものでしかない。
思えば、現代アートの現場にもっとも欠落しているのは、こうした人類史の水準ではなかったか。人類が創り出してきたイメージの歴史と比べれば、モダニズム絵画論やアートマーケット、美術館、芸術祭などをめぐる昨今の議論のなんとせせこましいことだろう。「美術」ですら明治に輸入された概念にすぎないことを私たちはすでに知っているのだから、もうそろそろ、ものをつくる身ぶりと思考を人類史の地平に投げ出すべきではないか。

2014/03/12(水)(福住廉)

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誰もみたことのない内海信彦 展

会期:2014/03/03~2014/03/08

Gallery K[東京都]

1953年生まれの美術家・内海信彦が20代に描いた絵画作品を見せた個展。いずれも1970年代前半、美学校の中村宏油彩画工房でフランドル技法を学んでいた頃の作品だという。
絵画のモチーフは天変地異。大空を縦横無尽に走る雷やこちらに押し寄せる大津波、山頂から溢れ出る灼熱の溶岩。大地の裂け目は地震だろうか。赤いマントを羽織って佇む人物の顔が隠されているところも、よりいっそう不安を煽る。
しかし、そうした予言的な主題より何より注目したのは、画面の保存状態がきわめて良好だった点である。ひび割れはほとんど見当たらず、発色も当時と変わらないという。中村宏による堅実な指導のおかげで、これらの絵は40年という時の流れに逆らい続けているのだ。
はたして昨今の絵画は、同じように時間に抵抗する堅牢さを持ちえているのだろうか。

2014/03/07(金)(福住廉)

山下陽光のアトム書房調査とミョウガの空き箱がiPhoneケースになる展覧会

会期:2014/01/18~2014/03/23

鞆の津ミュージアム[広島県]

広島に原爆が落とされたあと、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の前に「アトム書房」という古本屋が開かれた。店主は、当時21歳の復員学徒兵、杉本豊。店内に自分と姉の蔵書1,500冊を並べ、店頭には「広島で最初に開いた店」と英文のハリガミを貼り出した。そのねらいを杉本は「これほど破壊されても、日本人はすぐ立ち上がるぞと、気概を進駐軍に示したかった。満州大連育ちで、外国人に臆することはなかったが、被爆の惨状を目の当たりにして複雑な気持ちだった」と回想している(『毎日新聞』2005年6月4日、夕刊、5頁/『にっぽん60年前』毎日新聞社、2005、p.14)。
アトム書房の存在は長らく忘れられていたが、それを改めて発見した山下陽光が調査を開始。その背景に、再び核の脅威にさらされた東日本大震災の経験があることは言うまでもない。およそ3年におよぶ持続的な調査の成果を、彼のこれまでの活動と併せて、本展で発表した。
興味深いのは、山下による粘り強い調査が、アトム書房にとどまらず、当時の広島の美術界にもおよんでいることだ。比治山で画材屋を営んでいたダダイストの山路商や、その周りに集っていた靉光、船田玉樹、丸木位里、末川凡夫人、浜崎左髪子。そうした画家たちと杉本豊のあいだに何かしらの接点があったのではないかというのが、山下の仮説である。
残念ながら、その仮説はいまのところ完全に立証されているわけではない。だが、山下の調査が優れているのは、その調査対象をあらかじめ限定することなく水平軸で歴史を見ようとしている点である。現行のアカデミズムによれば、美術史は美術、文学史は文学、映画史は映画というように、それぞれの対象を棲み分けて考えている。しかし現在の私たちの現実が特定のジャンルに収まるわけではないように、歴史の実像はそうした垂直軸によって明確に分類できるはずもない。本展の雑然としながらも濃密な展示は、専門化された歴史研究の暗黙の前提に大いなる反省を迫っているのである。
アトム書房という入口から敗戦前後の広島に降り立った山下は、当時の街の風景や人間模様を重ねながら現在の広島の街を歩くことができるという。そこまで徹底してはじめて、杉本豊をはじめとした当時の人びとの心情や内面に思いを馳せることができるのだろう。山下陽光によって切り開かれた歴史と想像力が両立する地平は、まだまだ先に延びてゆくに違いない。

2014/02/25(火)(福住廉)

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第6回恵比寿映像祭 トゥルーカラーズ

会期:2014/02/07~2014/02/23

東京都写真美術館[東京都]

注目したのは、カミーユ・アンロによる《偉大なる疲労》(2013)。インターネット上から博物学的ないしは宇宙論的なイメージを渉猟し、それらを再構成することで創世記の神話を物語った。
複数のウィンドウが重なるディスプレイを画面に導入したり、ヒップホップのラッパーに神話を唄わせたり、いかにも今日的な映像の質が興味深い。いかなる物語であれメディアが時代にそぐわなくなれば伝達力を急速に失ってしまうことを思うと、おそらく神話の最適化を図ったのだろう。
ただ、問題なのはその内容の大半をすでに覚えていないことだ。確かに映像というメディアにリアリティはある。けれども、その一方で氾濫する映像はたちまち忘却の彼方に消え去ってしまう。イメージは辛うじて残るかもしれないが、言葉や意味はほとんど残らない。
おそらく作者はそのことを重々承知しているのだろう。皮肉に富んだ作品のタイトルは、編集作業に費やした膨大な時間と労力に加えて、報われにくい映像の特性をも暗示しているように思われた。

2014/02/21(金)(福住廉)

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会田誠 展「もう俺には何も期待するな」

会期:2014/01/29~2014/03/08

MIZUMA ART GALLERY[東京都]

「土人」とは、その土地に生まれ住む人。辺境や未開の地に住む土着民を、軽侮の意味を含めて指すことが多い。そのため公共の現場においては差別用語として使用が自粛されている。
本展で発表された会田誠の初監督作品《土人@男木島》は、そのものずばり、土人を主題とした48分の映像作品。瀬戸内海の男木島で暮らす4人の土人を、女性リポーターが取材し、それをテレビのクイズ番組で紹介していくという設定だ。会場の広い壁面にプロジェクターで投影していたが、手ブレが激しく、とても大画面での鑑賞には耐えられないという難点はあるものの、内容としてはきわめて現代性の高い傑作である。
その現代性には、いくつかの補助線がある。例えば、「土人」という差別用語をあえて前面化している点で言えば、異民族を公然と侮蔑するヘイト・スピーチのような今日的な現象を暗示しているのかもしれないし、「土人」があくまでも見られる存在であるという点で言えば、瀬戸内国際芸術祭のようなアート・ツーリズムにおいて現地の住民をそのような一方的な視線で見がちな私たち自身への痛烈な批評性が込められているのかもしれない。だが、もっとも大きな現代性は、土人の文化や文明と現代社会のそれらとを対置したうえで、前者によって後者を相対化している点である。
映像の最後で、女性リポーターは土人とともに筏に乗り込み、海へと旅立ってゆく。いわば、ミイラ取りがミイラになったわけだが、これが「茶番劇」を終わらせるための痛快なユーモアであることは間違いないにしても、同時に、現代の文明社会を打ち棄て、ある種の理想郷を求める欲望の体現であることも事実である。
以前であれば、そうしたユートピアは非現実的な夢物語として一蹴されるか、現実逃避のロマンティシズムとして嘲笑されたにちがいない。けれども、現在、土人とともに原始生活へ回帰するという物語を笑うことができる者は、はたしてどれだけいるだろうか。むろんアートであるから極端な表現ではあるが、理想郷へ脱出する欲望に共鳴した者は少なくないはずだ。会田誠は、現代社会のありようを忌避する一方、それに代わる理想郷を求める願望が以前にも増して高まっている現在の趨勢を、じつに正確に読み取っているのである。アート・ツーリズムに依拠した地域型の芸術祭の隆盛も、こうした文脈で理解することができるだろう。
むろん理想郷の実現可能性は問題ではない。重要なのは、こうした欲望の顕在化が「近代」や「現代」といった価値概念を根本的に再考させる点である。3.11で顕わになったように、現代社会が「近代」の矛盾に直面しているとすれば、それを解決する糸口は「近代」の延長線上で「現代」を先延ばしすることにではなく、むしろ「前近代」にあるのではないか。平たく言えば、私たちは「土人」から「近代人」に成り上がろうと苦心してきたが、どうやら無理があることが昨今明らかになってきた。であれば必要なのは、近代化の徹底を虚空に向かって叫ぶことではなく、近代的な価値基準から排除されてきた「土着性」「封建制」「村社会」などを改めて見直す作業だろう。西洋追従の奴隷根性に貫かれた現代アートも、いま一度そうした視点で組み立て直す理論的な手続きが求められているのではないか。

2014/02/13(木)(福住廉)