artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

ゼロ・グラビティ

会期:2013/12/13

丸の内ルーブル[東京都]

映画『ゼロ・グラビティ』がおもしろいのは、その物語が宇宙の無重力空間を舞台にしながらも、重力との拮抗関係をありありと実感させるからだ。むろん、すぐれた映像技術による無重力空間の描写は注目に値する。けれども原題がgravityであるように、この映画の醍醐味はそのような無重力空間をとおして、逆説的に重力の働きを私たちに想像させることにある。体感し得ない無重力を視覚化することによって、重力を視覚化しないまま体感させると言ってもいい。
果てしない宇宙に投げ出された主人公の孤独と恐怖は計り知れない。しかし私たちがほんとうに身震いするのは、彼女の背後に映る美しい地球を目の当たりにした時である。これほど地球の近くを漂流してしまったら、もしかしたら大気圏内に引きこまれてしまうのではないか。眼前にどこまでも広がる闇に慄きながらも、眼に見えない地球の重力にも空恐ろしさを感じるのである。この二重の恐怖がたまらない。
映画を見ていて気づかされるのは、人間の存在自体が重力に大きく規定されているという事実である。身体運動が重力に依存しているだけではない。ものの見方そのものが重力に左右されているのだ。
たとえば無重力空間では身体の動作はままならない。じっさいこの映画でたびたび表わされているように、ひとたび回転してしまった身体を安定させるには並々ならぬ労力と時間が必要とされる。しかし、よくよく考えてみれば、こうした不自由な身ぶりの描写は地球の重力を前提とした視点に基づいている。どんな身体運動にも重力が等しく作用しているからこそ、身体の「安定」や「自由」という見方が可能になるからだ。
確かに宇宙を漂流する身体は不安定で不自由極まりない。ただ、そのように認識するのは、私たちの視線にも重力が働きかけているからだろう。画面の背後にたびたび映り込む地球は、帰還すべき目標であると同時に、認識の根底に重力が隠れていることの象徴にほかならない。
重力という枠組みを取り払った視線を想像してみると、あるいはこうも言えるかもしれない。宇宙空間で回転しているのは身体ではなく、むしろ宇宙ではないのか。身体が宇宙で回転するのではなく、身体のまわりの宇宙が回転する。事実、この映画のなかでもそのようなシーンは、部分的とはいえ、表現されていた。そのようにして私たちの世界観を想像的に転倒させるところにこそ、この映画の芸術性があるのだ。

2013/12/15(日)(福住廉)

Chim↑Pom展「広島!!!!!」

会期:2013/12/08~2013/12/17

旧日本銀行広島支店[広島県]

2008年に広島の上空に飛行機雲で「ピカッ」と描き、予定されていた美術館での展覧会の中止を余儀なくされたChim↑Pomが、ついに念願をかなえた。銀行の支店だった会場に、《ヒロシマの空をピカッとさせる》のほか、《リアル千羽鶴》や《Red Card》《気合100連発》《Black of Death》《Super Rat》など、新旧の代表的な作品を網羅的に展示した。広島市民からの支援や援助を受けながら、あの社会騒動にきっちり「落とし前」をつけた意義は大きい。
展示の主要なモチーフとなっていたのは、言うまでもなく広島の原爆と福島の原発の連続性である。展示された作品は、vacantでの「広島!」(2009)や原爆の図丸木美術館での「Level7 feat.広島!!!!」(2011)、岡本太郎記念館での「PAVILION」(2013)と同じものが多かったが、本展では「核」のテーマ性がいつにも増して強力に伝わってきた。それは、おそらく会場の旧日本銀行広島支店が被爆した建造物であり、内部に残された傷跡が当時の破壊的暴力をありありと想像させるからだろう。だが、むろん建築的要因だけに由来しているわけではない。
《平和の日》は、原爆の残り火である「平和の火」によって描写される絵画シリーズ。制作過程を記録した映像作品を見ると、それらが広島平和記念資料館から伸びる直線上にある公園で着火されたことがわかる。よく知られているように、丹下健三は広島平和記念資料館と原爆死没者慰霊碑を原爆ドームと直線で結ぶかたちで設計した。原爆ドームより北に位置する広島県立総合体育館の大屋根の向きがこの直線に沿っているように、戦後の広島はこの直線をもとに復興したと言われている。Chim↑Pomはこの直線を炎でなぞりつつ、直線を受け止めるように《平和の日》を横に立ち並べた。
平和都市・広島を貫く直線。そのはじまりにある広島平和記念資料館が横長のフォルムであることを思い起こすと、Chim↑Pomの《平和の日》はそれと対称性の関係に置かれているように見えた。正確には測定しえないが、あるいはその対称軸は原爆ドームを中心点にして折り返されていたのかもしれない。つまり、想像的に俯瞰してみるとアルファベットの“I”という形になるように、原爆ドームから広島平和記念資料館へ至る直線を、ちょうど正反対の方向に引き伸ばしたのではないか。いずれにせよ都市の構造を正確に読み取ったうえで、過去から未来へ伸びていく時間軸を更新した手並みは、例えば渋谷駅に設置された岡本太郎の壁画《明日の神話》に《LEVEL7 feat.明日の神話》を付け足したように、近年のChim↑Pomの大きな特徴と言えよう。
だがその一方で、一抹の不安を覚えないでもない。それは、展示された作品にボルタンスキーや蔡國強といった先行するアーティストたちの匂いが強く立ち込めていたからだけではない。Chim↑Pomの初期衝動は、非合法のグラフィティや突発的なパフォーマンスのように、都市の論理を撹乱する側にあったはずだが、今回の《平和の日》は、ややもすると都市の既存の論理に回収されかねないからだ。あの「ピカッ」や大空を乱舞するカラスの大群が私たちの眼を鮮やかに奪ったのは、それらが都市を構成する直線や対称性という人為的な秩序を大きく揺るがしたからではなかったか。おびただしい炎を使用しているとはいえ、《平和の日》は広島の平和都市に寄り添いすぎるあまり、Chim↑Pomならではの「刺激」が、直線と対称性に吸収されてしまっているように思えてならないのである。
広島の原爆と福島の原発を接続する「核」を表現する道のりを歩むのであれば、広島が戦後社会のなかで育んできた「平和都市」という人為的な構成物と、いずれどこかの時点で抵触せざるをえないのではないか。

2013/12/13(金)(福住廉)

山田はるか個展「私はあなたに命をあずけた」

会期:2013/12/06~2013/12/10

素人の乱12号店「ナオナカムラ」[東京都]

セクシュアリティーやジェンダーをテーマとするアーティスト、山田はるかの個展。4人のメンバーを自ら演じ分けたヴイジュアル系バンド「華妖.viju」のミュージックビデオ《愛の水中花》および《人形の家》のほか、岡崎京子のマンガ「ヘルタースケルター」を引用した《helter-skelter》、さまざまな女性が理想の男性像になりきる写真シリーズ《男想》など、これまでの作品を網羅的に展示した。
山田の真骨頂は、作品はもちろん空間の細部まで徹底的につくり込む精度にある。「華妖.viju」のミュージックビデオは音楽や映像の質が非常に高いばかりか、会場には数々の関連グッズも併せて販売されていた。暗い空間にミラーボールが回転するなかで映像を視聴していると、まるで「華妖.viju」のオフィシャルショップを訪れたかのように錯覚するほどだ。一切の妥協を許さず、完膚無きまで仕上げる気骨が清々しい。
異装によるセルフポートレイトという点では、森村泰昌はもちろん、澤田知子や浅田政志など類例は多い。けれども山田が秀逸なのは、それを大衆文化と動画によって見事に表現したからだ。《愛の水中花》と《人形の家》を見ると、山田がそれぞれのキャラクターや内面を的確に演じ分けていることがよくわかる。
なかでも《男想》は、一般女性を被写体にしながら彼女たちの妄想を写真と文章によって視覚化した、他に類例を見ない傑作である。社会的に抑圧されがちなさまざまな欲望が肯定的に引き出されているばかりか、アーティスト個人の内面や欲望というより、一般女性のそれらを探究している点で、考現学的な要素も含まれているところが素晴らしい。
大衆文化や動画、そして考現学。山田がこれらを手がかりにしてセクシュアリティーやジェンダーを探求しているのは、これらの今日的な問題がそうした水平軸に顕現していることを見抜いているからではないか。

2013/12/09(月)(福住廉)

キャリー

会期:2013/11/08~2013/12/12

丸の内ピカデリー[東京都]

高畑勲監督の『かぐや姫の物語』で欲求不満だったのは、都から脱走したかぐや姫が着物を脱ぎながら山中を疾走する、あの胸騒ぎを覚えずにはいられないシーンが、結局のところかぐや姫の見果てぬ夢だったことだ。これまでにないアニメーションによってこれまでにないかぐや姫の物語が語られるのかと思いきや、あくまでも原作に忠実なまま物語は終わってしまった。荒々しい線が力強く躍動する画に眼が釘づけにされただけに、期待が外れたショックは大きい。
その萎えた気持ちを再び漲らせたのが、本作だ。スティーブン・キングの原作と、1976年にブライアン・デ・パルマ監督によって制作された映画を踏襲してはいる。しかし『かぐや姫の物語』と決定的に異なるのは、主人公の人間像である。
陰湿なやり方で同級生にいじめられている高校生のキャリーは、家庭でも狂信的な母親から虐待され、八方塞がりのなか幸いにも恵まれた超能力を研ぎ澄ますことで、大逆襲をはかる。物語の終盤で一気に爆発する暴力は、思わず拍手喝采を送りたくるほど痛快である。同じく悲劇的なヒロインとはいえ、ひたすら耐え忍ぶかぐや姫とは対照的に、キャリーは少なくとも反撃したのだ。
堅忍不抜の内向性と窮鼠噛猫の外向性。前者の精神性が現代の日本社会にいまだに残存する美学であることは否定できないにしても、注目したいのは双方の悲劇の背景にはいずれも親が介在しているという事実である。信仰を重んじるあまりキャリーの行動を束縛する母親が常軌を逸していることは言うまでもない。ただ、かぐや姫の上洛に狂喜乱舞する翁もまた、その真意とは裏腹に、かぐや姫の自由と人生を縛りつけている点で、キャリーの母親と同じ狂気を共有している。2人の対照的な娘は、ともに狂った親に翻弄されるという面で、表裏一体の関係にあるのだ。
双方の悲劇に通底する現代性があるとすれば、それはこの親子のあいだの支配関係に表わされていると言えるだろう。

2013/11/21(木)(福住廉)

田中正造をめぐる美術

会期:2013/10/12~2013/11/24

佐野市立吉澤記念美術館[栃木県]

田中正造の没後百年を記念した展覧会。田中正造の肖像画をはじめ、丸木位里・俊による《足尾鉱毒の図》、小口一郎による連作版画《野に叫ぶ人々》、さらに田中正造自身による墨竹図や、田中正造が奮闘した渡良瀬川流域で現在制作している下川勝と光山明の作品も併せて展示された。小規模とはいえ、非常に充実した展覧会だった。
なかでも特筆したいのは、小口一郎の版画である。画面の大半が黒い版画は、必然的に主題に暗鬱とした空気感を添えているが、それだけではない。小口の版画の画面構成には、おそらくルポルタージュ絵画の中村宏にも通底する映画的な感性が大きく作用しているように思われる。《直訴》は、官憲による制止を振り払って直訴状を届けようとする田中正造の姿を描いた作品。動く被写体にカメラが寄っているような臨場感がある。しかも中央に握りしめた直訴状、右側に押し寄せる官憲、左側にムシロを掲げて行進する農民たちを置いているため、画面には左方向へ突き進む力と右方向に引き戻す力が拮抗しているようにすら感じられる。また、《川俣事件その2》は、請願に向かう被害農民たちと彼らを弾圧する官憲たちの乱闘を描いた作品だが、これは中村宏の《砂川五番》と同じように、画面の両端に奥行きをもたせた魚眼レンズで見たような構図を採用しているため、黒澤映画のような迫力があるのだ。
小口一郎の黒い版画が表現しているのが、止むに止まれず直訴という直接行動を実行した田中正造の緊迫した心情であることは間違いない。それが、東日本大震災以後の私たちの暗い心情と大きく共鳴することも疑いない。会場には鉱毒によって毒された土を除去する農民を写した写真が展示されていたが、これを見た誰もが放射性物質によって毒された土地を除染する今日の現代人を重ねざるをえないだろう。「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という箴言も、今となってはこれまで以上に広く行き渡るに違いない。
ただ、田中正造にそうした今日的なアクチュアリティが認められることは確かだとしても、その一方でアクティヴィストという定型的なイメージには収まりきらない田中正造を見ることができたのも事実である。
たとえば、官吏として東北に赴任した頃に描かれた《田中正造御用雑記公私日記》。小さな紙面に微細な文字と図で農具や用水についての記録が丁寧に取られていて、田中正造の律儀な仕事ぶりが伺える。今日で言うところの民俗学者のような身ぶりを体現していたのだ。あるいは、自筆による《墨竹図》が展示されていたように、田中正造は少年時代に同館の由来である吉澤松堂に画を学んでいた。ところがうまく習得できなかったというから、いわば絵に関しては劣等生だったのだ。
絵描きになり損なった者が、絵描きに描かれるほど、絵以外の領域で大成する。つまり絵描きは民俗学者になりうるし政治家にもなりうる。本展で照らし出されていた田中正造のイメージが示しているのは、言ってみれば敗北の歴史である。しかしそれは必ずしも屈辱的なものではない。田中正造は敗北の先を切り開き、後続の者がさらにその先を目指しているからだ。

2013/11/19(火)(福住廉)

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