artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
宮崎学 となりのツキノワグマ
会期:2011/05/25~2011/06/07
銀座ニコンサロン[東京都]
定点観測によってツキノワグマの生態をとらえた写真展。山道の傍らに設置したカメラは、その道をゆく登山客や犬、猫、そして数多くの熊を映し出したが、ツキノワグマの生態が人間のそれと近しいことに驚きを禁じえない。それは動物を擬人化して撮影する写真家の作為にもとづくというより、むしろツキノワグマと人間の行動原理が根本的にはどこかで通底していることに由来しているように思われる。カメラを収めた木箱を覗きこむ熊の顔は、好奇心にかられるあまりドッキリカメラに易々とひっかかる私たち自身と重なって見えた。私たちが思っている以上に、じつは「立つ」ことができる哺乳類が少なくないように、人間と動物の境界はそれほど明確ではないのかもしれない。
2011/05/26(木)(福住廉)
100,000年後の安全
会期:2011/04/02
渋谷アップリンク[東京都]
放射性廃棄物をどのように処分するのか。原子力発電に依存する現代社会がいままさに直面している、この宿命的な問題について、フィンランドの事例から考えさせるドキュメンタリー映画。ほとんど地下都市といってよいほど巨大な地層処分施設に高レベルの放射性廃棄物を次々と埋蔵してゆき、一定の容量に達すると永久に封鎖するという計画の全体像を、じっさいの施設の様子と関係者の証言によって浮き彫りにした。機械的で人工的な映像美が放射性廃棄物の非人間的な一面を象徴していたが、それより際立っていたのは、それらが安全に保全されるために必要な10万年という時間についてあれこれ思考する専門家たちの想像力のありようだ。絶対的な危険に近寄らせないためには、将来の人類にどのような手段で伝えるべきなのか。言語なのかイラストなのか。いや、伝えるというより、むしろその存在じたいを完全に封印してしまうべきなのか。そのとき人類は地球上に生存しているのか。人類の文明社会の歴史をはるかに凌ぐほどの途方もないスケールで安全性について検討する専門的な想像力は、逡巡やためらいを露にすることも含めて、たしかに傾聴に値する。しかしその一方で、それが人類の生存の根幹を明らかに脅かす「負の遺産」であることを思えば、そもそも放射性廃棄物を後世に残すことのない世界を想像する必要があるのではないかと思えてならない。容易には解決し難い難問を、空間的には「地下」や「地方」へ押しつけ、時間的には「未来」へ先送りしたうえで成立する都市文明とはいったい何なのか? 豊かな想像力は、「正の遺産」を構想することに駆使したい。
2011/05/25(水)(福住廉)
TOKYO STORY 2010
会期:2011/04/28~2011/05/28
トーキョーワンダーサイト本郷[東京都]
トーキョーワンダーサイトが主催するクリエイター・イン・レジデンス・プログラムで招聘または派遣したアーティストの活動を紹介する展覧会。国内外11人による作品が展示された。抜群だったのが、台湾に滞在して作品を制作した岩井優。現地の日本式住宅を舞台にした映像作品を空間インスタレーションとして発表した。壁に大胆に穿たれた大きな丸い穴をくぐりぬけると、赤く塗り上げられた室内に映像作品が置かれている。その映像は男女2人が丁寧に折り畳んだ布で家屋の床や柱をふくというものだが、これは近年の岩井が熱心に取り組んできた「クリーニング」の延長線上にあることは一目瞭然だった。ただ、これまでと比べて明らかに異なっていたのは、過剰と思えるほど耽美的な映像美。白い泡にまみれた手先の動きはエロティックですらあり、どうにも違和感を拭えない。ところが映像の終盤で、その布が広げられると日の丸と台湾の国旗であることが判明したから、この美とエロスが充溢した映像は日本と台湾双方における耽美的な愛国主義を暗示していたとも考えられる。だとすれば、ここで岩井が洗い出しているのは、台湾の土地に建造された日本式住宅に眠る植民地主義の痕跡と同時に、国民国家という人工的なフレームにいまも呪縛されている私たち自身なのかもしれない。このたび岩井優が到達したのは、美しさを耽溺する審美主義などではなく、台湾と日本に通ずる政治的社会的文脈だったわけだ。それを巧みに表現して見せたところに、現代社会が抱える同時代の問題に真摯に向き合うアーティストの誠実な態度が現われている。赤い室内から出て振り返ると、白い壁の中央に開けられた赤い丸は日の丸そのものに見えた。
2011/05/25(水)(福住廉)
Chim↑Pom展 「REAL TIMES」
会期:2011/05/20~2011/05/25
無人島プロダクション[東京都]
今回の個展でChim↑Pomは大きな達成を成し遂げたように思う。このたびの東日本大震災にアーティストとしていちはやく反応して個展を実現させたからではない。そこで発表された作品に、これまで社会的・政治的な問題に果敢に取り組んできた彼らの表現活動がある一定の成熟を迎えたことが明らかに伺えたからだ。たとえば《気合い100連発》。被災地でボランティア活動に従事するなかで知り合った現地の若者たちとともに円陣を組み、さまざまなメッセージをひとりずつ大声で連呼してゆく映像作品だが、あくまでも明るく元気でノリのよい雰囲気はこれまでのChim↑Pomと同様でありながら、これが瓦礫の山に漁船が転がる荒涼とした光景のなかで繰り広げられることによって、その裏面がこれまで以上に浮き彫りになっていた。「放射能最高!」という言葉と「放射能最高なんかじゃないぞ!」という言葉のあいだには、心の底にたちこめた哀しみを乗り越えることを願う、Chim↑Pomならではの「溌剌とした祈り」が垣間見えた。こうした作品には、突発的に生じた悲劇的な出来事を作品の主題として貪欲に回収しただけだという批判が想定されるが、本展で発表された作品は明らかにChim↑Pomがかねてから持続的に追究してきた問題の延長線上にある。被爆者団体の代表である坪井直氏の題字を被災地で拾った額縁に収めた《Never Give Up》は一連の「ピカッ騒動」を、福島第一原発近辺の植物を除染したうえで生け花とした《被曝花ハーモニー》は《クルクルパーティー》や《SHOW CAKE XXXX!!》を、意味的にも形式的にも引き継いだうえでそれぞれ発展させていることがわかる。なかでも、もっとも鮮やかに展開したのが、《Without Say Good Bye》だ。福島第一原発にもっとも近い農地に案山子を設置しにゆく、この映像作品の源にあるのは、《BLACK OF DEATH》だろう。双方はともに「自然」を相手にした映像作品という共通点があるが、後者がカラスの大群とともに街を疾走するのに対し、前者はそのカラスから畑を守る案山子を抱えながら道を歩き続けるという違いがある。後者がけたたましい鳴き声で満ち溢れていた反面、前者はほとんど乾いた足跡と息づかいしか聴こえないほど静寂に支配されている。この動から静への転換が、放射能汚染というかたちで自然から拒絶されてしまった、いやより正確に言い換えれば、私たち自身が自然を退けてしまったことに由来していることは間違いない。《Without Say Good Bye》は、3.11以後の日本社会を象徴する新しい記念碑である。新しいというのは、それを直接見に行くことができず、できるのは放射能から畑を守る案山子がいったい何を見ているのかを想像することだけだからだ。イマジネーションをたくましく鍛え上げなければ、いよいよ生き抜いていけない時代に入ったのだ。
2011/05/25(水)(福住廉)
内海信彦・1985-2011・27周年記念展
会期:2011/05/09~2011/05/21
Gallery K[東京都]
美術家・内海信彦の個展。過去の展覧会やそこで発表した作品の数々を、ミニチュア模型のかたちにして展示した。基本的には一枚一枚の絵を写真に撮影し、それらを縮尺したうえで模型に組み込んでいるようだが、なかにはその上に絵の具の飛沫を直接加えている作品もあり、手が込んでいる。壁や床に立ち並んだマケットを見ていくと、世界各地を渡り歩いてきた画業の軌跡がよくわかるが、サイズが縮減されているがゆえに、逆により大きな空間を求める美術家の欲望が拡大して見えた。
2011/05/19(木)(福住廉)