artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

カレル・ゼマン展 トリック映画の前衛

会期:2011/06/14~2011/07/24

渋谷区立松濤美術館[東京都]

イジー・トゥルンカと並び、チェコ・アニメを代表するカレル・ゼマンの展覧会。人形や切り絵、ガラスなどを駆使して制作されたアニメーション映像をはじめ、それらの絵コンテや資料などが展示された。1940年代から50年代にかけてのアニメーションだから、その技術はきわめてローテクであり、CGや3Gがデフォルトになりつつある現在の基準からすれば、たしかに稚拙に見えるのかもしれない。けれども、重ね撮りによってイメージを合成したり、ガラスの湾曲面によって海中のゆらぎを表現するなど、画面の随所に見られる工夫の痕跡が、なんともほほえましい。技術や制度が確立されていなかったからこそ、知恵を絞ってなんとかしようと努めたのであり、それだけ表現の意欲が掻き立てられたのだろう。技術的には成熟期を迎え、産業的には逆に斜陽の時代に入りつつある現在のアニメーションを顧みると、はたしてゼマンの時代とどちらが幸福なのかと考えざるをえない。今後は表現の意欲という原点がますます問われるのではないか。

2011/06/24(金)(福住廉)

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増山士郎

会期:2011/05/21~2011/06/25

ギャラリーαM[東京都]

増山士郎の新作展。北アイルランドのベルファストで滞在制作した作品などを発表した。会場の中央に広がるベルファストの街を再現したジオラマで、建物に記されたマーキングを見ると、カトリックとプロテスタントによって分断された街の様子が手に取るように分かる。イギリスからの分離独立を目指すナショナリストとイギリスとの連合を唱えるユニオニストの対立も読み込むことができる。この容易には解きほぐし難い対立関係を前に、基本的にアートはなす術もない。けれども増山がおもしろいのは、そのことを十分に承知しつつも、あくまでも個人的な視点から社会的な文脈に到達すべく、パフォーマティヴに行動しているからだ。そのことを示す象徴的な作品が、住まいの庭に転がる犬の糞を白い防護服に身を包んで処理する映像作品である。スローモーションを多用した映像は、いかにも深刻な報道番組を連想させるが、そのあまりにも馬鹿馬鹿しい行為とのギャップが見る者の笑いを誘う。しかし、このジオラマに囲まれた空間でこの映像を見ていると、この撤去する行為が、ちょうどテロリストによって仕掛けられた爆弾を処理する様子と重なって見えることに気づかされる。卑俗な日常生活と、果てしないテロとの闘いが重ねられているわけだ。これは、一見すると「日常と非日常」という古くからの対立項にもとづいているように見えるかもしれない。けれども、少なくともアイルランドにおいては、犬の糞を撤去する行為と爆弾を処理する行為が同じ水準にあることを想像的に思い巡らすと、この単純な図式がもはや失効していることに驚きを禁じえない。爆弾闘争というかたちはとらずとも、虚構をはるかに凌駕する現実の圧倒的な力を前にした今となっては、アイルランドであろうと日本であろうと根本的にちがいはないのかもしれない。増山のアートは、非日常が日常と化してしまったことを告げるリアリズムであり、それでもなおアートを試みる愚直なアートなのだ。

2011/06/23(木)(福住廉)

チェルノブイリから見えるもの

会期:2011/05/03~2011/06/25

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

1986年のチェルノブイリ原発事故の後、いわゆる「死の灰」に汚染された地域に立ち入り、そこで生活を送ることを決意した人びとを撮影した広河隆一と本橋成一の写真、そして彼らを描いた貝原浩のスケッチ画を見せる展覧会。福島第一原発による放射能汚染の実態が徐々に明らかになりつつある今、その脅威のもとで私たちはいかに生きるのかという問題を、チェルノブイリという前例から考えさせる、まさしく時宜を得た企画展だ。震災以後、「被災者の心情への配慮」を理由に「原爆を視る 1945-1970」展の開催をとりやめた目黒区美術館とはじつに対照的だが、丸木位里・俊夫妻による《原爆の図》シリーズを常設展示している同館は、やるべき仕事をきっちり果たしたという点で、高く評価されるべきである。三者のなかでも、とりわけ印象深かったのが貝原浩のスケッチ画。現地の風物や人びとの日常、そして文化を和紙に水彩と墨で丹念に描いた絵がなんとも味わい深い。しかも、それらの余白に詳細な解説文が書きこまれているため、時間性を伴った絵本や絵巻物のように、見ているうちにぐいぐいと画面に惹きこまれてゆく。画と文が有機的に一体化しているという意味では、先ごろ世界記憶遺産に認定された山本作兵衛の炭鉱画に近いといってもいい。貝原が目撃したのは、放射能に汚染されたことを知りながら、それでも故郷で生きることを決意した人びとの、たくましくも哀しい心持ちだ。それが彼らの郷土愛に由来していることはまちがいない。けれども、貝原の画文を見ていると、究極的にはそれが人間の「生」が本来的に自然と密着しているという厳然たる事実にも起因していることに気づかされる。大地と空間と水なくして生命が成り立たないことを身体的に知っているからこそ、たとえ汚れてしまったとしても、彼らはその土地で生きることを選んだのではなかったか。色とりどりのスカーフを頭に巻いた老女たちを指して、「あの太い足にはきっと大地の精気を吸い上げる力があるのだと思う」と記した貝原の視線は、そのことを鋭く見抜いていたのだ。貝原浩のスケッチ画は、『風しもの村から──チェルノブイリ・スケッチ』(平原社、1992年)で見ることができる。

2011/06/22(水)(福住廉)

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ジパング展

会期:2011/06/01~2011/06/20

日本橋高島屋 8階ホール[東京都]

東京のミヅマアートギャラリーの三潴末雄がキュレイションを、京都のイムラアートギャラリーの井村優三がプロデュースを手がけたグループ展。両ギャラリー所属のアーティストを中心に31人による作品が一挙に展示された。会田誠や鴻池朋子、三瀬夏之介、山口晃といった、いわゆる「エース級」の美術家による作品が続く前半は、旧作が大半だったとはいえ、さすがに力量のある作品ばかりで、たしかに見応えがある。ただその反面、比較的若いアーティストをまとめた後半になると、とたんに尻すぼみになってしまい、落胆させられた。その要因は一人ひとりの美術家の力量不足にあるというより、むしろ作品の選定と空間の使い方にある気がした。「もっとよい作品があるのに、なぜこれなのか?」と思わずにはいられない絵画を壁面に並べただけの構成がきわめて単調だったからだ。空間の条件に違いがあるとはいえ、展示の構成に限っていえば、ほぼ同時期に東京は青山のスパイラルで催された「手錬~巧術其之貳」展のほうがすぐれていたように思う。「手錬」展と本展に共通している点があるとすれば、それはギャラリストが中心となって文化的アイデンティティを対外的にアピールしようとする戦略性。前者は超絶技巧系の現代アートによって、後者は「黄金の国」という他者からの呼称をわざわざ自称することによって、危機に瀕した自己同一性を再起動させようとしているわけだ。そこにさまざまな必要とメリットがあることは否定しない。しかし、たとえば本展ですでに金箔を貼りつけた作品がやたらと目についたように、表現上の類型化や脆弱さをもたらしかねないことも指摘しておかなければならない。

2011/06/17(金)(福住廉)

石川美奈子 展 LINE_blue

会期:2011/05/14~2011/06/19

GALLERY HIRAWATA[神奈川県]

岩手県出身の石川美奈子による個展。幅2.4メートル、長さ10メートルにも及ぶ白いロールキャンバスに青いアクリルで水平線を一本ずつ延々と描き続けた作品などを発表した。大半を腰の高さの台の上に寝かせているが、一部を壁にかけるほど、長大な絵の迫力が凄まじい。しかも青の色合いを一本ごとに微妙に変えているため、全体として見れば大きな青空を見上げたような鮮やかなグラデーションが楽しめる。内側に向かう粘り強い執着心によって、抜けるような解放感を生み出す逆説が石川の絵画の魅力だ。

2011/06/17(金)(福住廉)