artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
第14回岡本太郎現代芸術賞展
会期:2011/02/05~2011/04/03
川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]
毎春恒例の岡本太郎現代芸術賞展。生誕100年にあたる今回は、818点の応募作のなかから入選した27組のアーティストによる作品が展示された。昨年よりは全体的に作品の出来がよいように見えたが、それにしても毎回思うのは、予定調和的な会場構成だ。広い会場に作品が満遍なく設置されているため、たしかに鑑賞する側にとっては非常に都合がよい。しかし、その空間を埋めるために作品が選出されている印象が否めないのも事実だ。美術館が企画したグループ展ならまだしも、新人を発掘する公募展の場合、こうした会場ありきの選出は本末転倒というほかない。何より、このような予定調和こそ、岡本太郎が徹底して侮蔑していたことを思えば、いっそ会場に奇妙な隙間が生まれたとしても、受賞に値する少数精鋭の作品だけで展示を構成することも考えるべきではないか。「展覧会」という制度をいつまでも自明視していては、岡本太郎に追従することはできても、批判的に乗り越えることなど到底かなわないだろう。
2011/03/30(水)(福住廉)
ソーシャルダイブ 探検する想像
会期:2011/03/18~2011/04/11
3331 Arts Chiyoda[東京都]
あえて言うが、昨今の若いアーティストにとって、自らの作品に社会性を帯びさせることが、ある種の強迫観念となっているのではないだろうか。それが、不幸にも、結果として作品の魅力を著しく損なっているように思われる。本展で発表された作品の多くも、そうした論理に巻き込まれているように見えてならなかった。プロジェクトの成果を披露するのはよい。しかし、その行為なり運動なりを展覧会という場で発表する以上、必要なのは、その装置をインスタレーションとして見せることや、その過程を要約した映像をダラダラと見せることなどではなく、それらを凝縮した「作品」を見る者に突きつけることである。なぜなら、彼らが勝負しなければならないのは、そのプロジェクトの体験を共有していない、見ず知らずの鑑賞者だからだ。この当たり前の事実をないがしろにしてしまうところに、「社会性」という免罪符を手に入れさえすればよいと考えるアーティストの大きな甘えがある。「プロジェクト」と「作品」をそれぞれ自立的に分けて考えてこそ、ほんとうの意味で「社会的」になりうるはずだ。
2011/03/27(日)(福住廉)
Girlfriends Forever!
会期:2011/02/26~2011/03/27
トーキョーワンダーサイト本郷[東京都]
アーティストの松井えり菜と村上華子が共同で企画したグループ展。参加したのは、松井と村上のほかに、辰野登恵子、今津景、中村友紀など11組の女性アーティストで、女性の私室に見立てた空間にそれぞれ作品を展示した。全体的に見ると、少女性を過剰に充満させた空間に仕上げられていたが、個別的に見ると、壁に掛けた絵画や写真をはじめ、家具や寝具に仕込んだ映像インスタレーションなど、それほど大きくはない空間を巧みに使いこなしているのがわかる。ひときわ際立っていたのは、村上の作品。かつての恋人の印象やエピソードを記した言葉からモンタージュさせた似顔絵を、紗幕で囲んだベッドに吊るして見せた。ガーリーで柔らかい空気感と、いかにも容疑者の風体で描かれた男性の硬質なイメージの対比が著しい。
2011/03/23(水)(福住廉)
鴻池朋子 隠れマウンテン 逆登り
会期:2011/03/09~2011/04/09
MIZUMA ART GALLERY[東京都]
〈3.11〉の衝撃。そのひとつは、どんなアートも、地震と津波、そして原発のイメージと重なって見えてしまうことだ。とりわけ黒々とした波が次々と押し寄せ、街を一気に呑みこんでいく、あの恐ろしい映像は、当分私たちの脳裏から離れることはないだろう。このことは、おそらくアーティストにとっても同じで、突如として現われた強烈な現実を前に、いったいどんな豊かな想像の世界を創り出すことができるのか、それぞれ自問自答を繰り返しているに違いない。なにしろシュルレアリスムでしか見られなかった光景が、被災地では半ば現実となってしまっているのだから、そんじょそこらの想像力ではとても太刀打ちできないことは誰の眼にも明らかだ。鴻池朋子の新作は、もちろん震災以前に制作されたものだが、以前にも増して画面に強く立ち現われた自然性と神話性、すなわちアニミズムが、大震災で疲弊した私たちの心に深く滲みこんでくる。人間と動物が融合した神話的な生物は、もしかしたら自然の脅威を目の当たりにした太古の人間が、魂の救済を求めて止むにやまれず創り出したものではないか。そのように考えてしまうのも、あるいは少なからず大震災の影響なのかもしれないが、文字どおり言語を絶する被害の大きさには、それ相応の言語を超越した視覚的イメージが必要不可欠であることは間違いない。
2011/03/23(水)(福住廉)
新宿中村屋に咲いた文化芸術
会期:2011/02/19~2011/04/10
新宿区立新宿歴史博物館[東京都]
明治末から大正期にかけて新宿中村屋を舞台に交友していた芸術家や文化人による作品を集めた展覧会。小規模とはいえ、見応えのある展示だった。中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻のもとに集っていたのは、荻原碌山(守衛)をはじめ、戸張孤雁、柳敬助、中原悌二郎、社会運動家の木下尚江、演劇の松井須磨子、秋田雨雀、そしてインドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースやロシアの盲目詩人エロシェンコなど。展示された絵画や彫刻などは、それぞれ単体として見れば、いかにも古色蒼然とした近代美術の典型にしか見えない。ただ、それらが「中村屋サロン」という物語のなかに位置づけられることで、絵だけからは決して見えてこない一面が浮上するところがおもしろい。例えばフランスでロダンから学んだ荻原碌山は、彫刻の本質を外形の写実から内的な表現へと転回させたことで知られているが、会場のはじめに展示された《女》は黒光夫人をモデルにした彫像だという。すると、この両膝で立って天を仰ぐ彫像には黒光夫人に寄せる碌山の叶わぬ想いが凝縮されていることになり、その湿度を帯びたあまりにも重たい想いが鑑賞者にじわじわと迫ってくるのである。さらに中村屋裏のアトリエを借りて夫妻の娘俊子をモデルにして絵を描いていた中村彝は、二度にわたって俊子にプロポーズするが、夫妻の猛烈な反対にあって二度とも失敗に帰している。ところが会場に展示された新聞記事を読むと、当の俊子はその後中村屋で亡命生活を送っていたボースと結婚してインドへ渡るが、不慣れな海外生活が祟って若くして亡くなってしまったのだという。同胞の絵描きより異国の亡命活動家を選んだ相馬夫妻の真意は知るよしもないが、この物語をとおして中村彝の絵を見てみると、俊子への募る想いが透けて見えるようで、なんとも痛々しい。彝は「欲望に囚われず、感傷に堕せず、神経に乱されず、人生を貫く宿命の中に神の真意を洞察すること」(「洞察」)を芸術的な信条としていたようだが、それは裏返して言えば、彝自身がことほどかように「欲望に囚われ、感傷に堕し、神経に乱され」ていたということなのだろう。そこに「芸術家」というより、ひとりの人間の生々しいリアリティがある。時を越えて、それが私たちのもとにたしかに届くからこそ、芸術はおもしろいのだ。
2011/03/20(日)(福住廉)