artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
Chim↑Pom REAL TIMES
会期:2011/05/20~2011/05/25
無人島プロダクション[東京都]
時は1970年4月26日、場所は大阪万博の会場にそびえ立つ太陽の塔。その「金色の顔」に「万博粉砕」を訴えるひとりの男がよじ登り、その後8日間にわたって占拠した。のちに「目玉男」として知られるようになるこの男について、作者である岡本太郎は現場を訪れたうえで次のようなコメントを残している。「イカスね。ダンスでも踊ったらよかろうに」。「自分の作品がこういう形で汚されてもかまわない。聖なるものは常に汚されるという前提を持っているからね。金色の顔もその下の太陽の顔も無邪気な顔で怒っているよ」(『毎日新聞』大阪版1970年4月27日夕刊3面および11面)。太陽の塔が聖なるものかどうか、そして目玉男が穢れかどうかはさておき、ここで重要なのは岡本太郎が目玉男の篭城を直接的に非難するというより、むしろ楽しむ余裕を見せていることだ。岡本太郎は自分の作品が介入されたことを受け入れたのだ。それから41年後の2011年5月、渋谷駅に設置されている岡本太郎の《明日の神話》にChim↑Pomが福島第一原発の大事故を描いた絵を当てはめた。この件はマスメディアで大々的に報道されたが、その大半が「いたずら」や「落書き」として伝えるものであり、「芸術」として報じるものはほとんどなかった。なかには本展の会場である無人島プロダクションをわざわざ「活動拠点」と言い換えた報道番組もあり、シャッターを閉めた同画廊を映した映像をあわせて見ると、まるで過激派のようだ(JNNニュース、2011年5月18日、11:30~11:55)。だがChim↑Pomによる今回の表現行為は《明日の神話》を傷つけたわけではないのだから「落書き」ではないことは明らかだし、百歩譲って「いたずら」だとしても、実害のない表現行為を「いたずら」として断罪することなどできるはずもない。《明日の神話》の芸術的価値を汚したという見解もなくはないが、それにしても当の岡本太郎が介入を認めていたのだからまったく当てはまらない。むしろ空間の隙間を目ざとく見抜き、岡本太郎の稚拙なタッチを忠実に再現しながら、その欠落を充填することで、被曝をめぐる年代記を適切に更新したことは、リアルタイムの「今日の芸術」として高く評価するべきである。しかも、それが岡本太郎本人はもちろん、他のどんなアーティストにもなしえなかったという点を考えれば、建畠晢のように「これくらい許容される世の中のほうがいい」(『朝日新聞』2011年5月25日25面)とパターナリスティックな姿勢で応じたり、山下裕二のように「岡本太郎が生きていたら面白がるだろう」(同上)などと故人のキャラクターで補うだけではいかにも物足りない。《LEVEL7 feat.『明日の神話』》は放射能の時代を豊かに生きるための、これまでにないほど新しい記念碑である。それが新しいというのは、その完成形をもはや見ることができず、私たち自身の想像力によって再生してはじめて全貌を露にする記念碑だからだ。《明日の神話》の前を通るたびに、この記念碑は何度も甦るにちがいない。
2011/05/18(水)(福住廉)
『ブラックスワン』
会期:2011/05/11
ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]
母を殺せるか? 成し遂げられなかった自己実現を自分に代行させるために、寵愛や庇護を惜しみなく与えてくる母を。「箱入り娘」に限らずとも、現代を生きる女性の多くが直面している、このきわめて現代的なテーマを、プリマバレリーナをめぐるドラマに置き換えて仕上げたのが本作だ。ホワイトスワンとしては申し分ない才能に恵まれながらも色気が乏しいがゆえにブラックスワンになりきれない主人公が、陰気な母や演出家の伊達男、そして妖艶な魅力を放つライバルなどによって精神的に追い詰められてゆき、やがて幻覚に苛まれながらブラックスワンへと変貌を遂げていく物語が、じつにテンポよく進行していく。精神を収縮させるようなサイコホラーの連続から圧倒的なバレエを爆発させるクライマックスへと至る構成もすばらしい。文字どおりカタルシスを存分に味わえる映画だが、この構成そのものがオルガスムスのそれと重なり合っているようにも思われた。つまり性的な自立が母殺しを可能にすることが観客に暗示されていたわけだが、主人公はそれをみずからの死と引き換えにしなければ成就しえなかったところに、やりきれない悲劇がある。
2011/05/18(水)(福住廉)
5.7原発やめろデモ!!!!!!! 渋谷・超巨大サウンドデモ
会期:2011/05/07
渋谷一帯[東京都]
2011年4月10日の高円寺に引き続き、素人の乱が中心になって組織した「原発やめろデモ」の第二弾。小雨が降りしきるなか、高円寺と同じ15,000人あまりが参加した。警察によって細分化された結果、高円寺ほどの群集を体感することはできなかったにせよ、それでもサウンドカーが何台も投入され、渋谷の街を大音響で染め上げた迫力は凄まじかった。デモというと、いまだに特殊な人びとが行う迷惑行為という印象が根強いが、今回のデモはふつうの若者が集まる街を歩いたせいか、そうしたステレオタイプを見事に一新したように思う。車道を歩く人びとと歩道から眺める人びとのあいだを区別する境界はほとんど感じられなかった。同じ空気を吸って生きているのだから当たり前といえば当たり前の話だが、デモという集団的な表現形式が社会に定着しつつあることの意義は少なくない。途中からデモに加わってもよいし、ある程度音楽に満足したら別のサウンドカーに移動すればよい。言ってみれば、ステージも客も移動する野外フェスのようなものだ。しかも費用は、被災地への義援金と、デモを組織するために必要な資金へのカンパだけ。これを黙って見過ごすのは、あまりにももったいない。放射能の恐怖に素直に怯えつつ、しかし同時にその中で楽しむ術を共有してこそ、まさしく同時代のアートといえるのではないか。
2011/05/07(土)(福住廉)
モホイ=ナジ/イン・モーション
会期:2011/04/16~2011/07/10
神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]
歴史的な芸術家の展覧会を見ていて常々思うのは、そこで展示されている「作品」がはたしてほんとうに「作品」なのかどうかということだ。とくに芸術家が撮影したプライベートなフィルムなどを見ると、その疑いがますます大きくなる。本展でもモホイ=ナジによる映像が数多く展示されていたが、新たなテクノロジーへの好奇心こそ感じ取れるにせよ、それ以上の意味と価値を見出すことはなかなか難しい。のちのビデオ・アートは好奇心を出発点としながらも、たんなる技術論を越えて、ビデオ・アート独自の表現に到達したが、本展の場合は、ただただ旅先での風景や街の日常をとらえた映像がひたすら続くことに終始しているようにしか見えない。とはいえ趣味的な映像が「作品」に当たらないわけではない。問題なのは当人がそこに「作品」としての価値を認めていたかどうかとは別に、それらを展覧会に「作品」として位置づける学芸員や研究員の言説的な枠組みである。偉大な芸術家が手がけたものを、すべて「作品」として並べるだけであれば、キュレーションなど有名無実の流れ作業にすぎなくなる。なぜ「作品」として展示するのか、その根拠を丁寧に説明してはじめて、学芸員の本領が発揮されるといえるのではないか。
2011/05/01(日)(福住廉)
《豊島美術館》
会期:2010/10/17
豊島美術館[香川県]
美術家・内藤礼と建築家・西沢立衛による美術館。直島の地中美術館や犬島の精錬所と同じように、建築と美術を一体化させたコミッション・ワークを見せる美術館だ。天井の低いシェル状の外観は周囲の棚田の風景と見事に調和し、内側に設えられた内藤礼による水滴の作品とも絶妙な相似形を描いていたことから、美術と建築が有機的に結合していたことはたしかである。ただし、この美術館の核心は都市型の美術館ではなしえない独自の機能にある。それは、来場者に作品を鑑賞させるというより、自然を体感させることだ。来場者は大きく開けられた2つの開口部から差し込む光と風の匂い、その先に広がる空の色、木々のさざめき、そして靴を脱いだ足の裏に冷気を感じ取る。つまり美術館で作品を鑑賞するようでいて、その実、美術館をとおしてそれを取り囲む自然環境を感じているのだ。一体化しているのは美術と建築だけでなく、双方を包み込む自然でもあるわけだ。これが豊かな自然を資源とする美術館ならではの特徴であることはまちがいない。ただし、電力を用いることなく、風雨に晒されるがままを見せるこの美術館は、脱原発の方向に進路を切り換えつつある現代社会の未来像を、期せずして先取りしているともいえるのではないだろうか。
2011/04/29(金)(福住廉)