artscapeレビュー
福住廉のレビュー/プレビュー
梁煕 展
会期:2011/05/30~2011/06/11
Gallery Q[東京都]
ソウル出身のYANG HEEによる個展。キャンバスにアクリルで描いた少女像の上にオーガンジーという薄いメッシュを覆い被せた絵画作品を発表した。シンプルな描線と淡い色彩で描かれた少女たちはいずれも無邪気な素振りを見せているが、その上に重ねられた白いヴェイルのような皮膜にはあらかじめ細かい網の目や花柄などが織り込まれているため、「あちら側」にいる彼女たちと「こちら側」にいる私たちのあいだの断絶を感じざるをえない。この薄い皮膜は平面を装飾する形式的な工夫ではなく、彼女たちの無垢な純粋性ないしは処女性を強調するための装置なのだろう。誘引力があるにもかかわらず手の届かない不可能性。このもどかしさがエロティシズムを駆り立てる一方で、不純な進路を進みつつある現代絵画を生粋の原点にリセットしようとする試みにも思えるところが、興味深い。
2011/06/02(木)(福住廉)
五百羅漢──増上寺秘蔵の仏画 幕末の絵師 狩野一信
会期:2011/04/29~2011/07/03
江戸東京博物館[東京都]
幕末の絵師、狩野一信が10年にわたって描いた「五百羅漢図」。この展覧会は増上寺が秘蔵するその全100幅を一挙に公開したもの。172×85cmという画面と、その画面の下部に前景を、上部に後景を描くという構図がそれぞれ定型化されているため、ともすると単調な鑑賞になりがちだが、抑揚をつけた展示構成と何より描かれた羅漢たちの面妖な容姿のおかげで、いちいちおもしろい。羅漢の特徴は、坊主頭を取り巻く光輪と、何か曰くありげないやらしい目つき。世俗を達観した仏僧というより、生活の俗塵にまみれながらも悟りを開いた修行僧として描かれていたわけだ。じっさい百幅のうちの前半は羅漢たちの暮らしや修行の模様を描いているが、そこには浮世離れしたというより等身大の暮らしがあるだけだし、雲に乗って浮遊する羅漢たちを見てみると、庶民や動物を救済する聖なる一面と、下々を見下ろす卑しい一面を同時に感じ取れる。それは仏の清濁併せ呑む度量の大きさを示すというより、人間の生々しい実像を提示することによって見る者への訴求力を高めようとする戦術の現われのように思われた。平たく言えば、一信は十分に「ウケ」を狙っていたのではないか。いくら歴史上の人物だとはいえ、絵描きとしての素直な欲望が垣間見えるところがおもしろい。
2011/06/02(木)(福住廉)
戦争と日本近代美術
会期:2011/05/14~2011/06/19
板橋区立美術館[東京都]
太平洋戦争前後の近代美術を同館所蔵作品から振り返る企画展。柳瀬正夢や山下菊二、新海覚雄、太田三郎などによる絵画を中心に、戦時中の画材の配給票などの資料もあわせて展示が構成された。戦争というと、おのずと「戦争画」を連想しがちだが、戦意高揚のために交戦の場面を直接的に描いた戦争画は一切含まれず、原爆投下をモチーフにした古沢岩美の《憑曲》や、池田龍雄の《僕らを傷つけたもの 1945年の記憶》などが辛うじて戦争のイメージを呼び起こしていた。もちろん日本近代美術と戦争というテーマについて真摯に検討するのであれば、戦争画を公開したほうがよいに決まっているが、本展における戦争画の不在はあるいは現代社会における戦争と図らずも通底しているようにも考えられた。原爆と同じ原子力の「平和利用」によって現代社会の繁栄が築かれてきたように、かつて外側に対象化することのできた敵は、いまや内側に反転してこびりついてしまったからだ。しかも戦争による世界の崩壊は、ある種のスペクタクルを伴いながら一気に殲滅する核戦争の類いに限られたわけではなく、晩発性の放射性物質のように知らず知らずのうちにゆっくりと破滅に向かって進行するのかもしれない。従来の戦争画が描写しているのは20世紀までの戦争だから、現在の戦争はまったく新しいイメージでとらえなおさなければならない。本展における戦争画の不在は、新たな戦争画の必要を告げていた。
2011/06/01(水)(福住廉)
浅倉伸 Maniacushionoid
会期:2011/05/07~2011/05/29
湘南くじら館スペースkujira[神奈川県]
岩手県在住で、今年の「VOCA2011」展に出品した浅倉伸の個展。色とりどりのフェルトに黒いサインペンだけで細かい模様を描き込むシリーズを発表した。その絵は内臓的というかゴシック的というか、いずれにせよ鬼気迫る迫力を伴っているが、内部に詰め物をしてクッションのように膨らませているせいか、ゆるやかに湾曲した表面がある種の触覚性や肉体性を強く醸し出している。たとえていえば、女性の丸みを帯びた臀部に彫りこまれたタトゥーに近いのかもしれない。けれども、浅倉の絵がおもしろいのは、そうしたエロティシズムに加えて、それが表面に描かれているにもかかわらず、その裏面を連想させるからだ。肉体のフォルムを再現しながらも、その内部を透視させるといってもいい。身体的で触覚的な表面に内臓的なイメージが現われているという二重性が見る者の視覚に訴えかけてくるのだ。そのようにしてイメージが重なり合いながら広がっていく経験こそ、絵画の魅力ではなかったか。
2011/05/29(日)(福住廉)
石川雷太 展 ノイズ・テロル・サブリミナル
会期:2011/05/20~2011/05/30
少なくとも東日本の人間にとって、いまもっとも注目している数字が放射線の線量であることは間違いない。「シーベルト」という単位はすっかり社会に定着してしまった。石川雷太は、いくつかの放射性鉱石を並べ、ガイガーカウンターでそれらの線量を計測させる作品などを展示した。暗闇の中で鈍く輝く鉱石そのものは美しいが、ガイガーカウンターを近づけると計測針がゆるやかに振れ動き、目に見えない放射線の存在を目の当たりにさせられる。試しに自分の身体に向けてみても針はわずかに振れたから、東京に暮らす者であっても、多かれ少なかれ放射線を浴びているということなのだろう。容易には知覚しがたい放射線を知覚させるだけであれば、ガイガーカウンターというテクノロジーで十分事足りる。けれども、それが紛れもなく「自然」の一部であり、しかも「美」の背後に潜んでいることを知覚するにはアートという技術を動員するほかない。得体の知れない「アートの力」を社会にむけて無闇に喧伝するのではなく、あくまでも美学の内側から現実を突き抜けようとする石川雷太の作品は、現代アートの正統である。
2011/05/26(木)(福住廉)