artscapeレビュー

福住廉のレビュー/プレビュー

田口行弘

会期:2011/03/26~2011/08/28

森美術館[東京都]

床板や椅子などありきたりの日用品を少しずつ動かすことでストップモーション・アニメーションを制作するアーティスト、田口行弘の個展。森美術館のバックヤードや六本木近辺で制作した映像作品を、角材などで空間を構築した会場で発表した。どちらかといえば表現に対して規制が強く働くほうの美術館にしては、映像のロケーションから会場の構成まで、空間を巧みに使いこなした作品に仕上がっていたように思う。このある種の「受け入れられやすさ」こそ、田口の作品の真骨頂なのだろうが、その一方で、「受け入れられにくさ」の段階まで飛躍することを期待しないではいられない。田口のストップモーション・アニメーションは、凡庸な日常を前提にしているが、その日常そのものに大きな亀裂が生じてしまったいま、日常にちょっぴり手を加えて無邪気に楽しむ類いの作品を、以前と同じように受け入れることが難しくなってしまったからだ。これは、おそらく田口にかぎらず、多くのアーティストがいま直面している壁ではないか。

2011/07/23(土)(福住廉)

山下菊二 展

会期:2011/06/27~2011/07/22

日本画廊[東京都]

毎夏恒例の山下菊二展。今回は顔を描いた絵画作品18点が展示された。一口に顔といっても、人間と人間が合体していたり、人間と動物が融合していたり、山下ならではのシュルレアリスム的想像力が発揮された複雑怪奇なものばかりでおもしろい。だからといって土着的な怨念が込められたおどろおどろしさはまったくなく、全体的に明るい色彩が多かったせいだろうか、むしろ軽妙なユーモアすら感じさせるところに大きな特徴がある。山下菊二というと、社会的政治的な主題に取り組んだ硬派な印象が強いが、じっさいの絵をよく見てみると、柔軟で伸びやかな感性によって貫かれていることがよくわかる。後者によって前者に挑むという点では、山下菊二の絵は、じつは昨今の脱原発運動に見られる新しい表現形式と通底しているのである。

2011/07/16(土)(福住廉)

吉村芳生 展

会期:2011/07/08~2011/07/16

ギャラリー川船[東京都]

山口在住の美術家、吉村芳生の新作展。東日本大震災の後、未曾有の被害を報じる新聞紙の上にみずからの顔の図像を転写した版画作品などを発表した。壁一面に貼り出された国内外の新聞各紙を見ると、その文字と写真が当時の衝撃をありありと甦らせ、いたたまれない気持ちにさせられるが、それらの上に重ねられた吉村の顔を見ると、それが鑑賞する私たちの顔の表情とも重ねられていることに気づかされる。つまり、この作品における吉村の顔は、新聞が伝える悲惨な現実と、それを受け止める私たち自身の心情を媒介するメディアであり、同時に、その媒介の作用そのものを自覚させる、ある種の鏡なのだ。この2点は、複数性と間接性によって特徴づけられることの多い一般的な版画には見られない、吉村独自の「版画」である。さらに、吉村の「版画」には他に類例を見ない大きな特質がある。それを体現していたのが、会場の中央に置かれた紙の立体作品だ。これは、新聞紙の作品のひとつをオフセット印刷で23,000枚も印刷し、その一枚一枚に吉村が手書きでサインとナンバリングを書き入れたもの。積み上げられた紙片の物体としての迫力が凄まじい。来場者はその一枚を持ち帰るように促されるが、23,000という数字は東日本大震災で亡くなったり、行方不明になった人たちのおおむねの数だという。つまり、これは救済を必要とする魂を想像的に引き受けさせるということであり、吉村の「版画」は鎮魂のためのメディアとしても考えられているわけだ。かつて中原佑介は「版画へのカンフル剤は、過去に積重ねられた版画のエキスによってではなく、むしろ非芸術とみられる要素によってであろう」(「第三回国際版画ビエンナーレ展」『三彩』1962年11月号)と指摘したが、吉村の「版画」は非芸術というより、むしろ前芸術というべき要素によって構成されているのではないだろうか。それは、少なくとも近代的な意味における芸術の条件から外されてきた「メディア=媒介=霊媒」の機能を再び回復させようとしているからだ。

2011/07/08(金)(福住廉)

プレビュー:ミラル

会期:2011/08/06

ユーロスペース[東京都]

ジュリアン・シュナーベルがパレスティナの歴史を綴った映画。1948年から1994年までの46年間にわたる激動の歴史を、孤児院を中心にして叙事詩のように物語る。殺戮の応酬という血塗られた歴史であることはたしかだが、この映画の特徴は、それを男性の視点からではなく、すべて女性の視点から描いていることだ。闘争する男性を尻目に戦災孤児を受け入れる活動に邁進する女性、逆に止むにやまれずインティファーダへ身を投じてゆく女性、あるいは継父からの性的虐待から逃れるも、その傷が癒えぬまま死を選ぶ女性。時系列に沿いながらも、それぞれの時代を4人の女性の人生から物語る構成だから、抽象的で一般的な歴史としてではなく、あくまでも個人が介在した具体的な歴史としてパレスティナの歴史を理解することができるわけだ。だからこそ、他者を傷つけ、あるいは傷つけられながら、歴史に翻弄され、あるいは歴史をつくり上げていく人びとの痛みや怒り、苦しみが深く伝わってくるのである。歴史とは、切れば血が出る生身の肉体にもとづいた物語であることを、この映画はみごとに体現している。

2011/07/08(金)(福住廉)

BIUTIFUL ビューティフル

会期:2011/06/25

ヒューマントラストシネマ渋谷[東京都]

残された人生の時間をいかに生きるのか。あるいは生きようと努めるのか。若者であれ老人であれ、人生が有限であるかぎり、これは誰にとっても妥当する普遍的な問いである。本作は、末期がんに侵された男が、この自問自答を繰り返しながら、やがて死を迎え入れるまでを描いた物語。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督にとっては十八番ともいえる「生と死」をテーマとした映画だ。バルセロナの下町を舞台に、闇の仕事によって2人の子どもを養う男が次第に追い詰められてゆく様子は痛々しく、とてもやり切れない。離婚した妻やアフリカ系・中国系移民との神経をすり減らすようなやりとりも、その切迫感を倍増させている。ただその一方で、この映画は「死」に向かう恐怖より、むしろ「死」を受け入れる受動性に重点が置かれているせいか、圧迫されるにしても、その先に抜ける道が用意されることも事実だ。たとえば主人公の男は霊媒師として死者の霊の声を代弁したり、死者の魂を目撃することができたりと、ある種の霊能力に恵まれているという設定で描かれているが、この仕掛けによって、死に向かって残酷に進む「生」の時間を描きながらも、目に見えない「死」の空間を巧みに視覚化しているのである。それゆえ、主人公の男にとって、死はわが子との別れであると同時に、かつて若くして亡くなった父との再会でもあった。この世とあの世の境界がさほど明確ではなく、双方が互いに入り組んだ世界観。それが、現実の重い足かせをひとまず外してくれるように思わせるところに、今日的なリアリティーがあるような気がした。

2011/07/06(水)(福住廉)