artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

存本彌生『わたしの獣たち』

発行所:青幻舎

発行日:2015/11/25

ヒオス島(ギリシャ)、セビリア(スペイン)、神戸(日本)、ミュンヘン(ドイツ)、サンクトペテルブルク(ロシア)、シェトランド(スコットランド)、ゴーダ(オランダ)、コチコル(キルギス)……。在本彌生の写真集『わたしの獣たち』の写真の撮影場所を、掲載順に記すとこんな具合になる。彼女が旅の写真家であることは一目瞭然だろう。ジェット機の時代の写真家の中でも、在本の移動距離の大きさは突出している。そういえば、彼女の最初の写真集『MAGICAL TRANSIT DAYS』(アートビートパブリッシャーズ、2006)も旅と移動の産物だった。それから9年ぶりになる、この新作写真集を見ていると、在本の「世界に潜む美を探し求める」アンテナの精度が、より研ぎ澄まされてきているのを感じる。
とはいえ、その探索の旅は、けっして肩肘を張って狙いをつけるようなものではない。むしろ被写体の幅を大きくとり、目に飛び込むものを片端から撮影しているように見える。だがそれらの雑多なイメージの流れに身を委ねていると、何か柔らかく、大きな塊のようなものが浮かび上がっているように感じる。例えば、何度か登場する「馬」のイメージもそのひとつだろう。在本にとって、「馬」は好きな被写体という以上に、生命力そのものの在処をさし示す、神話的、根源的な生きものなのではないだろうか。「馬」だけではなく、彼女の写真には出会うべくして出会ったという確信がみなぎっているものが多い。こういう写真集のページを繰っていると、自分も旅に出たいという、ひりつくような渇望の思いに駆られてしまう。

2015/12/07(月)(飯沢耕太郎)

森山大道『犬と網タイツ』

発行所:月曜社

発行日:2015/10/10

『犬と網タイツ』というタイトルは、森山大道の記述によれば「つい先日、ふと池袋の路上でぼくの口をついて出てきたフレーズ」だという。たしかに写真集に限らず、本のタイトルなどがふと「口をついて出て」くることがある。考えに考えた末にひねり出したタイトルよりも、逆にそんな風にふっと降りてきたもののほうが、ぴったりと決まるというのもよくあることだ。
『犬と網タイツ』の「犬」というのは、いうまでもなく、森山の代名詞というべき名作「三沢の犬」(1971)のことだろう。そして「網タイツ」は彼が『写真時代』1987年5月号に掲載した、「下高井戸のタイツ」を踏まえているに違いない。そういえば森山には、のちに『続にっぽん劇場写真帖』(朝日ソノラマ、1978)として刊行された「東京・網目の世界」(銀座ニコンサロン、1977)という個展もあった。つまり『犬と網タイツ』というのは、森山が写真家として固執し続けているオブセッションの対象を、これ以上ないほど的確にさし示す言葉といえるのではないだろうか。
「昨年7月終わりから今年の3月末までの8カ月間、集中的に撮影したカット」から編集された写真集の内容も、最近の森山の仕事の中でも出色のものといえる。「全てタテ位置の写真(モノクローム)」のページ構成は、まさに森山の写真作法の総ざらいというべきもので、同時に「原点回帰」といいたくなるような初々しい緊張感を感じることができた。見ることと撮ることの歓びがシンクロし、弾むようなリズムで全編を一気に貫き通しているのだ。編集と装丁は月曜社を主宰する神林豊。それほど大判ではない、掌からはみ出るくらいの写真集の大きさもちょうどよかった。

2015/12/06(日)(飯沢耕太郎)

アントワン・ダガタ「Aithō」

会期:2015/11/28~2016/12/27

MEM[東京都]

写真家は多くの場合、外界へと伸び広がっていく志向と内面に深く沈みこむ志向とに引き裂かれている。だが、フランス・マルセイユ出身のアントワン・ダガタの場合、その振幅が極端に大きいのではないかと思う。ダガタはこれまで、娼婦やドラッグ中毒者を被写体として、快楽と痛みに引き裂かれる人間の存在を凝視する作品を発表し続けてきた。だが、今回東京・恵比寿のMEMで発表された新作「Aithō」では、一転して瞑想的な趣のあるセルフポートレートを試みている。
タイトルの「Aithō」は、イタリア・シチリア島の活火山、エトナ山のギリシャ名である。そこはダガタの一族の故郷であり、彼自身の出自にも深いかかわりを持つ土地だ。そこの古城で撮影したのが今回の49点のシリーズで、剥落し、染みや汚れのついた鏡の表面にぼんやりと彼の横顔が浮かび上がっている。やや下を向いて、目を閉じたその顔は、亡霊のように見えなくもないが、同時に奇妙に生々しい触感も備えている。「AIthō」という言葉は、元々「私は燃えている」という意味だという。冷ややかな鏡の中の像は、手が触れれば火傷するような熱を発しているのだろうか。
それにしても、ダガタが2004年以来マグナム・フォトスの正会員として活動しているというのは驚くべきことだ。マグナムは本来、報道写真やドキュメンタリーの写真家たちの団体だったはずなのだが、いつのまにかダガタのような、強烈に主観的な表現の写真家をも取り込みはじめている。時代が変わりつつあるということだろう。

2015/12/02(水)(飯沢耕太郎)

山谷佑介「RAMA LAMA DING DONG」

会期:2015/11/21~2015/12/19

YUKA TSURUNO GALLERY[東京都]

今回、東京・東雲のYUKA TSURUNO GALLERYで開催された山谷佑介の2度目の個展のオープニングトークで、本人が話してくれたことだが、彼は20代前半までパンク・バンドを組んで活動していたのだという。担当の楽器はドラムスだった。むろん音楽と写真とは直接関係がないが、彼の作品には、明らかにリズム感のよさがあらわれている。例えば今回の「RAMA LAMA DING DONG」のシリーズでも、モノクロームプリントの光と影の配分、似かよったイメージの反復、意表をついたずらし方などに、外界の刺激と内的なリズムとが、全身感覚的にシンクロしていることが感じられるのだ。
タイトルの「RAMA LAMA DING DONG」は、1958年にヒットしたエドセルズのドゥワップ・ナンバーだが、その軽快なリズムに乗せて展開するのは、山谷自身の新婚旅行である。2014年の夏に、山谷と江美のカップルは、北海道から九州・長崎まで約1カ月かけて日本を縦断した。新婚旅行というと、どうしても荒木経惟の名作『センチメンタルな旅』(1971)が思い浮かぶが、あの「道行き」を思わせる悲痛な雰囲気とはほど遠い、弾むような歓びが全編にあふれている。それもそのはずで、山谷が写真を編む時に参照していたのは、奈良原一高のアメリカヒッピー旅行のドキュメント『celebration of life(生きる歓び)』(毎日新聞社、1972)だったという。荒木や奈良原だけでなく、このシリーズにはロバート・フランクやラリー・クラークや深瀬昌久の写真を彷彿とさせる所もある。1985年生まれの山谷の世代は、過去の写真たちを自在にサンプリングできる環境で育っており、自然体で写真史の名作のエッセンスを呼吸しているということだろう。

2015/11/21(土)(飯沢耕太郎)

大島成己「Figures」

会期:2015/11/07~2015/12/02

Yumiko Chiba Associates viewing room shinjuku[東京都]

これまで「風景」や「静物」を中心に作品を発表してきた大島成己が、意欲的に新たな領域にチャレンジしている。今回のYumiko Chiba Associates viewing room shinjukuでの個展のテーマは「人体」である。前作の「haptic green」のシリーズでは、被写体となる「風景」のさまざまな部分を撮影した画像を、スティッチングの手法でひとつの画面に統合/再構築することを試みていた。今回の「Figures」でも、その手法は踏襲されているのだが、見かけの統合性がより強まり、一見するとワンショットで撮影されたポートレート作品に見える。だが細部に目を凝らすと、「人体」の各部分のピントが合っている部分と、外れている部分のバランスが微妙にずれていて、通常の「見え」とは異なっているのがわかる。「haptic green」では、それが目くらまし的な視覚的効果を生んでいたのだが、このシリーズでは、クローズアップが多用されていることもあって、むしろ心理的な衝撃力が強まっているように感じた。
大島は展覧会に寄せたコメントで、「人体の触覚的表面を表現」するというこの作品の意図は、「抽象的な、あるいはアノニマスな存在として完結させるのではなく、そこに固有性が浮かび上がるようにしていきたい」と述べている。「固有性」というのは、単純に人種や性別や社会的な属性だけではなく、「その人自体の存在性」を浮かび上がらせるということだ。たしかに今回の「Figures」では、大島と被写体となる人物との個的な関係のあり方が、その「固有性」として生々しく露呈しているように感じた。この「人体」の探究の試みは、ぜひ続けていってほしい。さらに実りの多い成果が期待できそうだ。

2015/11/21(土)(飯沢耕太郎)