artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

森下大輔「名前のかたち」

会期:2012/10/29~2012/11/04

Gallery RAVEN[東京都]

森下大輔は1977年生まれ。2003年に東京綜合写真専門学校を卒業し、2005年からニコンサロン、コニカミノルタプラザなどでコンスタントに作品を発表してきた。だが初期の頃の、画面にパターン化された明快なフォルムの被写体を配置していく作品と比べると、今回の「名前のかたち」シリーズの印象は相当に変わってきている。
以前はブロイラー・スペースという名前で活動していたGallery RAVENの1階のスペースに11点、2階に12点展示された写真群は、白茶けたセピアがかった色調でプリントされており、その多くはピンぼけだったり、あまりにも断片的だったりして、何が写っているのか、何を写したいのかも判然としない。「名前のかたち」というタイトルにもかかわらず、それらは「名づけられたもの」を「名づけられないもの」あるいは「名づけようがないもの」へと転換し、再配置しようとする試みにも思える。
いくつかの写真には、彼自身のものらしい手の一部が写り込んでいる。だが、それがどこを、どのように指し示しているのかも曖昧模糊としている。それでも、逆に以前のきちんと整えられた画面構成にはなかった、写真によって世界を再構築しようという、止むに止まれぬ衝動が、より生々しく感じられるようになってきているのもたしかだ。今のところ、まだ中間報告的な段階に思えるが、この方向をさらに遠くまで推し進めていってもらいたいものだ。

2012/11/04(日)(飯沢耕太郎)

笹岡啓子「VOLCANO」

会期:2012/10/23~2012/11/04

photographers’ gallery/ KULA PHOTO GALLERY[東京都]

今回の笹岡啓子「VOLCANO」の被写体は北海道・大雪山の旭岳と三宅島。その広々とした火山地帯の風景を、90×70.5�Bの大判プリントに引き伸ばした写真が二つのギャラリーにゆったりと並んでいた。笹岡は一貫して風景の中に小さく人の姿を配した写真を発表してきたが、今回もその例に洩れない。このテーマは、たしかに自然対人間の関係を問うものといえる。だが、普通よく取りあげられるように、自然と人間とを対立・拮抗して捉えるものではない。笹岡の写真では、なぜか両者とも、どこかはかなく消えてしまいかねない脆さ(弱さ)を抱え込んでいるように見えてくるのだ。その寄る辺のない印象をより強めているのが、霧、靄、水といった要素なのではないだろうか。それらをいわば自然と人間を包み込み、その中に浸透していく媒体として、繊細に、注意深く画面に写し込んでいくことによって、彼女の風景写真に特有の、肌理の細かい肌触りが生じてきている。霧に巻かれるようにして旭岳の稜線を行軍する自衛隊の兵士たちが、まるで道に迷った頑是無い子どもの集団のように見えるのがとても印象深かった。
なお、展覧会にあわせて小冊子の写真集『Remembrance12──旭岳』『同13──旭岳』『同14──三宅島』の3冊が刊行された。東日本大震災の被災地を撮影することから開始された『Remembrance』のシリーズが、このように大きく広がりつつあるのはいいことだと思う。刊行はさらに続いていくということなので、今後どんなふうに展開していくのかが楽しみだ。

2012/11/04(日)(飯沢耕太郎)

大久保潤「でかける!」

会期:2012/10/29~2012/11/03

blanClass[神奈川県]

大久保潤は知的障害者で、福祉施設で仕事をしながら主に絵画作品を発表してきた。写真にも強い関心を示し、1994年頃からコンスタントに撮影を続けている。カメラにフィルムが入っていると、あっという間に全部撮ってしまうので、母親が毎週24枚撮りを1本、日曜日に教会に行く前に渡すようにしているのだそうだ。教会のベンチや上着をかけるハンガー、行き帰りに乗る電車などに、必ずカメラを向けている。ほかにも、家族や障害者施設の仲間たちと国内外に旅したり、展覧会のオープニングに出かけたりしたときにも写真を撮る。こちらはそこで出会った人たちの、親密な雰囲気を感じさせるポートレートが多い。
こうして撮りためたなかから、2010年のカンボジア旅行の写真を選んで、2011年4月に個展を開催した(「大久保潤写真展 ちょっと訪ねたカンボジア」グリーンカフェ西郷山)。僕はたまたまその展示を見て衝撃を受けた。そこにはまぎれもなく、撮ることの純粋な歓びにあふれる、素晴らしい写真が並んでいたからだ。もっとたくさん彼の写真を見たい、見せたいと強く思った。それで、彼の写真活動をフォローしている姫崎由美さんと一緒に会場を探して実現したのが、今回の「でかける!」展である。
blanClassのアトリエの壁、三面にぎっしりと貼り付けた写真の数は1,000枚弱。これだけの数の写真を見ても、まったく見飽きず、もっと見たいと思わせる力が彼の写真にはある。同じ被写体、たとえばハワイのホテルのベッドの枕、カンボジアの石畳、自宅のカーテンなどを何枚も撮っているのだが、いつも初めてそれらを見つけだしたような新鮮さでシャッターを切っているのがわかる。被写体に体ごと飛びかかっていくような生々しさ、躍動感が、すべての写真にみなぎっており、つい顔がほころんでしまうような気持のよいエネルギーの波動が伝わってくる。写真を見ることの愉しさを心ゆくまで味わうことができた。
大久保の写真を「アウトサイダー・アート」の文脈で語ることはできる。これまで、写真の分野ではそのことについてほとんど言及されてこなかったので、もしかすると大きな可能性を秘めた領域となるかもしれない。だがそれ以上に、彼の写真を見ていると、何度でも立ち返るべき写真撮影の行為の原点が、そこにあるのではないかと言いたくなってくる。「普通の」写真家には、彼のように撮ることは逆立ちしても無理かもしれない。だが、誰でも最初にカメラを持って被写体に向き合ったときには、こんなふうにシャッターを切ったのではないだろうか。そのときの気持ちと体のあり方を、もう一度思い出すことくらいはできそうだ。

2012/11/03(土)(飯沢耕太郎)

糸崎公朗「盆栽×写真 VOL.02」

会期:2012/10/05~2012/11/28

さいたま市大宮盆栽美術館[埼玉県]

昨年の大和田良に続いて、今年もさいたま市の大宮盆栽美術館で「盆栽×写真」の展覧会が開催された。大和田の展示も面白かったが、糸崎もいかにも彼らしい作品を発表している。やはり盆栽と写真とは、相性がいいのではないだろうか。
糸崎が用いているのは、お馴染みの「ツギラマ」の手法。複数の視点から撮影した画像をつなぎあわせ、パノラマ的な視覚空間をつくり上げている。伸び縮みする「ツギラマ」の視点で、盆栽のディテールをかなり極端なクローズアップで撮影し、それらをグリッド状に配置していく。画像の一部だけにピントが合っていて、あとはボケているカットもあり、まさに継ぎはぎだらけの面白い視覚的効果が生じていた。糸崎の試みがうまくいっているのは、やはり盆栽という素材だからこそとも言えるだろう。盆栽はひとつの鉢の中で、完結した小宇宙を形成しており、自然に育っている樹木と違って、近距離から、どんなアングルでも自由に撮影することができる。一方で「ツギラマ」の手法で撮影された盆栽は、それほど大きなものではないはずなのに、あたかも巨大な森のようにも見えることもある。そのあたりの、融通無碍な視点の変化が、大小19点の作品をリズミカルに壁面に配置した展示効果と相まって、とてもうまく使いこなされていた。
この「盆栽×写真」の企画、まだいろいろな形で展開していく可能性がありそうだ。大和田、糸崎に続く第三の写真家がいったい誰なのか、そのあたりも楽しみになってきた。

2012/10/29(月)(飯沢耕太郎)

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大竹昭子「Gaze+Wonder NY1980」

会期:2012/10/19~2012/10/27

ギャラリーときの忘れもの[東京都]

実は今回展示された大竹昭子のニューヨークの写真には、個人的な思い出がある。1981年に彼女が帰国した直後に、共通の知り合いの家でプリントをまとめて見せてもらったことがあるのだ。今となっては記憶もかなり薄れてしまったが、冬のニューヨークの寒々とした、ざらついた空気感が、モノクロームのプリントに刻みつけられていたことを覚えている。その後の大竹のエッセイ、紀行文、小説、評論などさまざまな領域にわたる活躍ぶりはよく知られている通りだ。写真評論の分野でも『彼らが写真を手にした切実さ──《日本写真》の50年』(平凡社、2011)など、いい仕事がたくさんある。そんな大竹が、満を持して1980~81年のニューヨーク滞在時の写真を出してきたということには、やはり表現者としての自分自身の原点を確認したいという思いがあったのではないだろうか。
今回展示されたのは、41×50.8cmのサイズの大判プリントが15点と、すでにポートフォリオとして刊行されている20.3×25.4cmサイズのプリントが12点である。両者に共通しているのは、人影がほとんどない路上の光景が多いことで、被写体との距離のとり方に、当時の大竹のあえて孤独を身に纏うような姿勢が投影されているように感じる。被写体に媚びることなく、カメラを正対させて風景の「面」を正確に写しとろうとする、そのやり方はその後の大竹の文章の仕事にも踏襲されていくものだ。どこか禍々しい気配が漂う犬の姿が目立つのも特徴のひとつで、路上で犬を見かけると本能的にシャッターを切っている様子がうかがえる。人よりも犬に親しみを覚えるような風情も、ニューヨークのダウンタウンのソリッドな光景によく似あっている。いい展示だった。なお、展覧会にあわせて、写真とエッセイをおさめた『NY1980』(赤々舎、2012)も刊行されている。

2012/10/19(金)(飯沢耕太郎)