artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

有田泰而「First Born」

会期:2012/11/22~2012/12/28

916[東京都]

有田泰而の名前を知る人もだいぶ少なくなっているのではないかと思う。1941年、福岡県生まれの彼は1960~80年代に、主に広告やファッションの領域で活動した写真家だ。だが、それ以上に純粋な表現者としての志向が強く、80年代以降は写真とともに絵画作品を発表し、91年に渡米してからは木工や彫刻の作品を中心に制作した。そのまま日本に帰ることなく、2011年にカリフォルニア州、フォートブラッグで逝去する。
今回の個展は、1980年代に一年ほど有田のアシスタントを務めたことがあるという上田義彦の手で実現したものだ。展示されたのは代表作である『カメラ毎日』連載作「First Born」(1973~74)を中心とした75点。このシリーズは当時結婚していたカナダ人女性、ジェシカと、72年に生まれたばかりの長男のコーエンをモデルとして撮影されている。写真家自身の妻子をテーマとする作品は、植田正治の戦後すぐの家族写真をはじめとしてかなりたくさんある。同時代にも、荒木経惟や深瀬昌久が傑作を発表している。だが、有田の「First Born」は、その徹底した演出的、遊戯的空間の創出という点で特筆すべきものがある。妻と子どもの身体をあたかも玩具のように扱って、次から次へとなんとも危なっかしいパフォーマンスを繰り広げていくのだ。それは、ジェシカ自身が「お互いのコミュニケーションがよくいっているときには、ほんとにいい写真ができる」(『カメラ毎日』1974年5月号)と述べているように、有田と家族との共同作業=ジャム・セッションの産物だったといえる。それがあまり長く続かず、2年あまりで終わってしまうのは、パフォーマンスのテンションを高く保ち続けるのが難しかったためだろう。だが、逆にそれゆえにこそ、「First Born」は現時点で見ても希有な輝きを発しているのではないだろうか。
あらためて、いま有田のこの「幻の傑作」の全貌が明らかになったのは素晴らしいことだと思う。暗室に2カ月近くこもって、プリントを全部焼き直したという上田義彦の献身的な努力が充分に報われたのではないか。なお、赤々舎から展覧会にあわせて同名の写真集(端正なデザインは葛西薫、増田豊)が刊行されている。

2012/11/22(木)(飯沢耕太郎)

赤鹿麻耶『風を食べる』

発行日:2012/11/01(木)

赤鹿麻耶は2011年にキヤノン写真新世紀でグランプリを受賞し、その出品作「風を食べる」を、今度は写真集出版を副賞にするビジュアルアーツアワード2012に応募して最優秀賞に選ばれた。本書はその受賞を期に編集・刊行された写真集(発売:赤々舎)である。
僕は森山大道、瀬戸正人、上田義彦、百々俊二とともにビジュアルアーツアワード2012の審査をしたのだが、他の出品者からは力が頭ひとつ抜けていて、ほぼ満場一致の選考結果だった。その審査評に以下のように書いた。
「『赤鹿麻耶』という名前には強烈なインパクトがある。血の色の夕陽を浴びて立ち尽くす鹿のイメージは、彼女がシャーマン的な体質であることを暗示しているように思えてならない。実際に彼女の写真を見ていると、そこで繰り広げられている、異様にテンションの高いパフォーマンスが、何か超越的な存在に捧げられた儀式のように見えてくる。写真家も、それを演じるモデルたちも、夢うつつのトランス状態のなかを漂っているのだ。危険な写真だ。そのうちに、写真を見ているわれわれも、そのシャーマニズム的な時空のなかに取り込まれてしまいそうになる」。
できあがった写真集を手に取って、この印象が基本的に間違っていなかったことを確認できた。というより、鈴木一誌・大河原哲によるゆったりとした造本によって、個々の写真に秘められていたパワーが、よりのびやかに開放されているように感じた。
大いに期待できる才能の持ち主と思っていたのだが、ちょうど東京都写真美術館で開催されていた「写真新世紀2012 東京展」(2012年10月27日~11月18日)に展示されていた赤鹿の新作「電!光!石!火!」を見て、いささかがっかりさせられた。大阪っぽい乗りの日常スナップの集積という方向性は、まったく間違っていると思う。いまは『風を食べる』の個々の写真に孕まれていた可能性を、より集中し、緊張感を保って追求していくべき時期だろう。テンションの高さを維持できないようでは困ったものだ。

2012/11/22(木)(飯沢耕太郎)

神話のことば ブラジル現代写真展

会期:2012/10/27~2012/12/23

資生堂ギャラリー[神奈川県]

資生堂ギャラリーでは、これまでフィンランドとチェコの写真家たちの作品を紹介する展覧会を、それぞれ2009年と2010年に開催してきた。今回のブラジルの現代写真家、映像作家たちによる展示は、その連続展の第二弾ということになる。サンパウロ在住のインディペンデントキュレーター、エーデル・シオデットの企画によって、クラウディア・アンデュジャール、ルイス・ブラガ、ホドリゴ・ブラガ、ジョアン・カスティーリョ、エウスタキオ・ネヴェス、ケンジ・オオタの6名と、写真家ユニット、シア・デ・フォトの作品が展示された。
ブラジルは歴史的にも多様に引き裂かれた国であり、「ブラジル写真」の輪郭を指し示すのはかなり難しい。菅啓次郎が『花椿』(2012年12月号)に寄せたエッセイ「生きることを呼びかける『混血の国』の神話」で指摘するように、「ブラジルは一つではない。先住民のブラジル、植民者のブラジル、アフリカ系の人々のブラジル、さまざまな移民グループのブラジル。北と南、東と西が対立し、あらゆるレイヤーが重ねられ」ているのだ。それでも、今回の出品作家の作品を見ると、共通の要素として神話的な想像力への親和性があげられるのではないかと思う。たとえばクラウディア・アンデュジャールの矢の真美続の末裔たちを撮影した「見えないもの」「Reahu」といったシリーズや、エウスタキオ・ネヴェスの古写真を使用したコラージュ的な作品に色濃く表われている魔術的な時空間への傾きは、ルイス・ブラガのような都市を撮影する写真家の作品へも浸透してきている。日系二世のケンジ・オオタの岩や植物の表層を薄く引き剥がして重ね合わせていくような作品や、ホドリゴ・ブラガのひたすら地面を掘り続ける男を撮影した映像作品も、どこかシャーマニズム的な行為の痕跡のようだ。
彼らに日本の聖地を撮影してもらうような機会があれば面白いかもしれないと思った。この資生堂ギャラリーの連続企画も、そろそろ相互交流を本気で考えるべき時期にきているのではないだろうか。

2012/11/13(火)(飯沢耕太郎)

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秦雅則/村越としや/渡邊聖子「まれな石および娘の要素」

会期:2012/11/01~2012/11/30

artdish g[東京都]

「ギャラリー+食堂」というユニークなコンセプトで運営している東京・神楽坂のartdishが、新たな企画を立ち上げて動き出した。2012年8月からA PRESSという出版部門が活動を開始したのだ。A PRESSは「写真作品を中心としたart pressであり、私たちの見ている写真に纏わるさまざまな要素を今一度、明確に可視化するための媒体」である。秦雅則が企画を、秦とともに四谷で企画ギャラリー「明るい部屋」を運営していた三木善一が編集を、artdishの沢渡麻知が総括を担当して、8月に秦雅則『鏡と心中』が、今回第二弾として村越しんやの『言葉を探す』が刊行された。さらに2013年の初めに、渡邊聖子の『石の娘』の出版が予定されている。
今回の展覧会は、そのA PRESSの作家たちのお披露目というべき展示である。彼ら自身が認めているように、「三人の作風は、まさに三者三様」だ。秦はカラーフィルムを雨ざらしにして腐敗させ、その染みや傷をそのままむき出しに定着したプリント、村越は故郷の福島県で撮影したモノクロームの風景写真、渡邊は小石や人物を撮影した写真に、ガラスをかぶせたりテキストを付したりしたインスタレーション作品を出品した。たしかに被写体として石や岩が登場するということはあるが、バラバラな印象は拭えない。とはいえ、1980年代前半の生まれという世代的な共通性に加えて、言葉と写真とが相互浸透する関係を大事にしていこうとする志向を感じとることができた。それはA PRESSのラインアップにも表われていて、秦の『鏡と心中』も村越の『言葉を探す』も、テキスト中心に編集されている。渡邊の展示でも「うつくしく なる/わたしのキズだった(痛み)/わたしはキズだった(痛み)」といった詩的な言葉を写真と組み合わせていた。このようなユニークな立ち位置から、実り豊かな表現が育っていくことを期待したい。

2012/11/08(木)(飯沢耕太郎)

野村恵子『Soul Blue 此岸の日々』

発行日:2012/10/05(金)

2012年4月にPlace Mで開催された野村恵子の同名の個展で、この写真集の刊行の話を聞いた。そのときから楽しみにしていたのだが、予想を超えた素晴らしい出来栄えに仕上がったと思う。まさに野村の1990年代後半以来の写真の仕事の集大成といってよいだろう。
写真集は、窓のカーテンから射し込む光を捉えた「The morning my mother ended her life, Kobe, 2009」から始まり、揺れ騒ぐ波間に漂う花束を写した「Sea funeral for my parents, 2012」で終わる。この2枚の“死”にかかわるイメージの間に、90年代以来野村が積み上げてきた写真群が挟み込まれている。デビュー写真集『Deep South』(リトルモア、1999)におさめられていた、若い女性のヌードや沖縄の風景などもあるが、中心になっているのは2010年以降の近作だ。かつての野村の写真といえば、生々しい、血の匂いがするような風景や人物が多かったのだが、今度の写真集はかなり肌合いが違う。森山大道が写真集に寄せたテキストで「パセティック(悲壮的)ではないが、そこはかとなくメランコリーな気配がただよっていて」と的確に指摘しているように、落ちついた眼差しで静かに眼前の眺めを見つめているような作品が多くなっている。とりわけ、横浜・日吉の自宅のマンションの窓から撮影した空やビル群の写真には「メランコリーな気配」が色濃く感じられる。このような日常的な場面を写真集に入れようという発送自体が、以前の彼女にはなかったはずだ。
むろんこの写真集は、野村の写真家としての経歴の行き止まりではなく、これから先も彼女は撮り続け、写真集を刊行していくはずだ。だがひとつの区切りとして、見事に次のステップへの足場を築いたことをまずは言祝ぎたい。編集の沖本尚志、アートディレクションとデザインの中島英樹とのチームワークのよさも特筆すべきだろう。

2012/11/08(木)(飯沢耕太郎)