artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

巖谷國士/桑原弘明「窓からの眺め」

会期:2012/10/06~2012/10/28

LIBRAIRIE6[東京都]

フランス文学者でシュルレアリスムの研究家としても知られる巖谷國士にとって、写真は余技に思える。だが個展も5回目ということで、もはやその域は超えていると言うべきだろう。というより、巌谷のような多彩な領域に関心のある作家にとっては、写真もシリアスな仕事として取り組んでいることが、作品から充分に伝わってきた。今回のスコープ・オブジェ作家の桑原弘明との二人展を見ると、何をどのように撮るのかという写真家としての「眼」が、揺るぎなくでき上がっているのがわかる。
展示では、1990年代以降に撮影された旧作と、今年になって集中して撮影したという新作が両方並んでいた。どちらかと言えばパリ、ヴェネツィア、パレルモ、ジェノバ、プザンソンなど、ヨーロッパ各地を旅しながら撮影した新作の方に、彼ののびやかな心の動きがそのまま写り込んでいるような楽しさを感じた。写っているのはタイトル通り「窓からの眺め」が多い。丸、あるいは四角で区切られた眺めが、繊細な手つきで、あたかも箱の中に封じ込められた小宇宙のように捉えられている。特に桑原がセレクトしたという、ポストカードほどの大きさの小さな写真がまとめて並んでいる一角は、互いの作品が響きあって心地よいハーモニーを奏でていた。
風景やインテリアの写真が多いのだが、2点だけ街頭のスナップショットがあって、それがまたよかった。旧作ではあるが、特にバイヨンヌで1990年代に撮影された「縄跳びの少女」の写真が素晴らしい。二人の少女たちがつくる縄跳びの輪の中に、ふっと誘い込まれそうな気がしてくる。巖谷にはぜひ写真の仕事を続けていってほしいものだ。

2012/10/19(金)(飯沢耕太郎)

初沢亜利「Modernism 2011-2021 東北・東京・北朝鮮」

会期:2012/10/04~2012/10/30

東京画廊+BTAP[東京都]

初沢亜利のような写真家について論じるのはむずかしい。彼の撮影のポジションは、「東北・東京・北朝鮮」という今回の展示の撮影場所を見てもわかるようにフォト・ジャーナリストのそれと重なりあう。実質的なデビュー作の「Baghdad2003」は、イラク戦争下のバグダッドで撮影されたものだった。
だが、今回の展示場所が現代美術を主に扱うギャラリーであることを見てもわかるように、作品の発表の仕方は従来のフォト・ジャーナリズムの枠にはおさまらず、そこからはみ出してしまう。初沢のようなタイプの写真家は彼ひとりではなく、かなり増えてきている。アート、報道、コマーシャルといった慣れ親しんだ写真のジャンル分けが、完全に解体しはじめていることのあらわれとも言えそうだ。
今回の「Modernism 2011-2021 東北・東京・北朝鮮」は、彼が覚悟を決めて撮影した意欲作である。震災直後の2011年3月12日から東北各地の被災現場を撮影しながら、初沢は前後4回にわたって北朝鮮に渡った。その合間に、彼のベースキャンプとでも言うべき東京も撮影し続けていた。展示された写真には、母親の葬儀の光景のようなプライヴェートな場面も登場する。そこに添えられた「Modernism」という言葉に、初沢の批評意識を見ることができるだろう。つまり19世紀以来営々と気づき上げられてきた「モダン」の枠組が、今や至るところで破綻しつつあり、彼が選んだ三カ所はまさにその最前線と言うべき場所なのだ。
写真を見ているうちに、それらの場所がどこか似通っているように感じてくる。東京はもちろん、東北の被災地や北朝鮮ですらも、消費文化の影に覆い尽くされている。90枚の大四つ切サイズの写真を2段に、アトランダムに並べた写真構成がうまく効いているのだが、このような展示は諸刃の刃のように思えてならない。観客の意識が、それぞれの写真がどこで撮られたのかを確認することに集中してしまい、それ以上深みへと広がっていかないからだ。キャプションをすべて排除したことも含めて、この連作の見せ方にはさらなる工夫が必要なのではないだろうか。
なお、今回の展示のうち「東北」のパートはすでに写真集『True Feelings 爪痕の真情。』(三栄書房)として刊行されている。「北朝鮮」のパートも11月中に写真集『隣人』(徳間書店)として刊行予定だ。これらの写真集をあわせて見ることで、彼の作品世界の広がりを確かめることができるはずだ。

2012/10/16(火)(飯沢耕太郎)

磯部昭子「U r so beautiful」

会期:2012/10/15~2012/11/01

ガーディアン・ガーデン[東京都]

リクルート主催の「1_WALL」展(前身は「写真ひとつぼ展」)やキヤノン主催の「写真新世紀」のような、主に若い写真家たちを対象にしたコンペで、広告写真やファッション写真のジャンルに属する仕事をする写真家が賞をとることはめったにない。日本は比較的アートとコマーシャルの間の境界線が緩やかな国のひとつだが、それでも表現領域の違いというのは厳然としてあるようだ。その意味で、「写真ひとつぼ展」の入選者(グランプリ受賞者を除く)から選出されて、あらためて作品を展示する「The Second Stage」という枠で個展を開催した磯部昭子は、やや特異な例と言えそうだ。
むろん、今回の「U r so beautiful」の展示を見ても、一概に磯部の作品をコマーシャル的と決めつけることはできないのではないかと思う。ただ、やや奇妙な風貌の人物たち、スタイリッシュなオブジェを、自動車のヘッドライトのような人工光で照らし出すという手法そのものが、どう見てもファッション写真ぽいと言えるし、彼女の経歴や活動の基盤がコマーシャル・フォトであることはまぎれもない事実だ。むしろそのことが、ガチガチに凝り固まったシリアス・フォトにはない遊び心、発想の飛躍を生んでいるのではないだろうか。特に面白かったのは、脚や手など身体の一部をクローズアップして、他のオブジェとコラージュするように構成した一連の作品。そこには、日常のなかに非日常が紛れこむ、「等身大の虚構の構築」とでも言うべきユニークな作風が芽生えはじめているように感じた。

2012/10/16(火)(飯沢耕太郎)

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畠山直哉『気仙川』

発行所:河出書房新社

発行日:2012年9月30日

本書の刊行前に見本を送っていただいた。それをざっと眺めて、とてもよく練り上げられたいい写真集だと思ったのだが、そのままページを閉じてしまった。写真をじっくりと見て、そこに添えられたテキストを読むことに、ある種の畏れとためらいを感じてしまったからだ。
なぜ、そんなふうに感じたのかといえば、言うまでもなく本書の成り立ちについて、あらかじめ知る立場にいたからだ。畠山直哉の実家がある岩手県陸前高田市気仙町は、東日本大震災が引き起こした大津波で大きな被害を受けた。実家は津波で流失し、母親は遺体で見つかった。その一連の出来事を受けとめ、咀嚼し、あらためて具現化した成果は、昨年、東京都写真美術館で開催された個展「ナチュラル・ストーリーズ」で発表された。それが本書を構成する二つのシリーズ、「気仙川」と「陸前高田」である。震災から1年半が過ぎたこの時点で刊行された写真集『気仙川』は、それゆえ畠山があの極限状況のなかで、何を考え、どのように行動したのかを報告する生々しいドキュメントとなる。その息苦しさが、写真集のページを繰ることにためらいを生じさせたのだ。
約1カ月後に、ようやく最後まで読み(見)通すことができた。この写真集はやはり畠山の仕事としてはかなり異例な造りになっていた。特に前半部の「気仙川」のパートに添えられたテキストの緊張度はただならぬものがある。地震の第一報を聞いて3日後にオートバイで陸前高田に向かう、その道程の出来事が、瘡蓋を引き剥がすような痛切な文体で綴られているのだ。それが2000年頃から折りに触れて撮影していた、安らぎに満ちた故郷の風景と交互にあらわれてくる。「気仙川」をこのような造りにしなければならなかった所に、彼が味わった「今までの人生で経験したことがないほどの痛烈な刺激」の凄まじさが、端的にあらわれているのではないだろうか。
だが、震災が来るまでは「un petit coin du monde(地球=世界の小さな一角)」と記された箱におさめられて、ひっそりと眠っていたというこれらの写真群は、このような緊急避難的な構成のなかではなく、もっと別な形で見たかった気もする。「気仙川」は写真家・畠山直哉にとって、とても大事なシリーズとして育っていく可能性を秘めていると思うからだ。彼がこれまで撮影・発表してきた「大きな眺め」にはなかった、柔らかに被写体を包み込み、震えながら行きつ戻りつして進んでいくような視線のあり方を、このシリーズでは見ることができる。「un petit coin du monde」の箱におさめられるべき写真を、これから先も撮り続け、これらの写真と繋いでいってほしいものだ。

2012/10/15(月)(飯沢耕太郎)

篠山紀信「写真力」

会期:2012/10/03~2012/12/24

東京オペラシティ アートギャラリー[東京都]

篠山紀信の写真展に「写真力」という言葉はぴったりしている。まさに彼こそ1960年代から半世紀にわたって、写真の荒ぶるパワーを十全に統御しつつ、打ち出し続けてきた写真家だからだ。
篠山の「写真力」は、主に固有名詞化された被写体に対して発揮される。しかも、その彼あるいは彼女の名前や顔やキャラクターが社会全体に広く行き渡り、輝きを発していればいるほど、その存在を全身で受け止め、投げ返す力業は神がかったものになる。今回の東京オペラシティアートギャラリーでの展示は「GOD」「STAR」「SPECTACLE」「BODY」「ACCIDENTS」の5つのパートに分かれており、東日本大震災の被災者たちを撮影した「ACCIDENTS」以外の部屋は、著名なキャラクターのオンパレードだ。その絢爛豪華ぶりは、美空ひばり、三島由紀夫、バルテュス、武満徹、ジョン・レノン、夏目雅子、大原麗子、勝新太郎、きんさん・ぎんさん、渥美清の巨大な「遺影」がずらりと並んだ「GOD」の部屋を見るだけでもよくわかる。
篠山はそれらのスターたちを、視覚的な記号として社会に流通させていく術に長けている。彼は大衆があらかじめ抱いているイコンとしての像におおむね沿う形で、だがそれらを少しだけずらしたり、増幅させたりして写真化していく。時代の気分をすくい取りつつ、その半歩先のテイストを的確に打ち出していく勘所のよさを、篠山は1960年代のデビュー時から現在までずっと保ち続けてきた。それだけでも特筆すべきものと言えるだろう。
だが、その記号化のプロセスは、主に雑誌や写真集などの印刷媒体で威力を発揮するものであり、美術館のような会場での展示には馴染まないのではないか。観客はジョン・レノンや山口百恵や宮沢りえやミッキーマウスが「そこにいる(いた)」ことを確認すれば、それだけで満足してしまう。ゆえにギャラリーや美術館のスペースで味わうべき視覚的体験としては、やや物足りないものになる。気づいたら、広い会場をあっという間に巡り終えてしまっていた。

2012/10/11(木)(飯沢耕太郎)

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