artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

村越としや「大きな石とオオカミ」

会期:2013/01/05~2013/01/24

B GALLERY[東京都]

東日本大震災が写真家たちに何を与え、彼らはそれをどう受けとめて表現に転化しようとしているのか。これまでも、これから先も問い続けていかなければならないことだが、村越としやの新作展にもそのことがよくあらわれていた。
福島県須賀川市出身の村越は、震災後10日目に故郷に戻り、それから断続的に福島県内の風景を撮影し続けてきた。むろん、村越は震災前から折りに触れて故郷を撮影しており、その撮影やプリントのあり方(中判カメラ、モノクロームフィルム、端正な印画)は基本的には変わっていない。だが、今回の展示を見ても、2012年11月に刊行された同名の写真集のページを繰っても、どこか以前の写真とは違っているように感じる。端的に言えば、被写体に対する「確信」の度合いが深まり、目に飛び込んでくるイメージの強度が増しているのだ。震災が、村越の写真家としての覚悟をあらためて呼び覚ましたということではないだろうか。
もうひとつ、やはり昨年刊行された村越の文集『言葉を探す』(artdish g)の震災後の日録のなかに、以下のように記されているのを読んで、「なるほど」と思った。
「11/6/22 写真学校に入ったときに新品で購入した三脚をやっと本気で使用する機会がやってきた。学生時代はほとんど使用することもなく、助手してるときはたまに持ち出して、持って歩くだけってことが多かったから、三脚にたいしてはあまり良い思い出がなかった。でもこれから暫くは福島県内の撮影を共にする」
三脚を使いはじめたことも、作品のどっしりとした揺るぎないたたずまいと関係しているのだろう。普段はそれほど目につくことはないが、撮影を支えるカメラや写真器材が、作品の出来栄えに思わぬ力を及ぼすことがあるのがよくわかる。今回の展示には、新作として大全紙サイズに引き伸ばされた福島県飯館村の山津見神社の写真も含まれていた。この神社は狼を神として祀っているのだという。村越のなかに、写真を通じて土地に根ざした地霊や神話の所在を嗅ぎ当てようという意欲も生まれてきているようだ。今後の展開が楽しみだ。

2013/01/06(日)(飯沢耕太郎)

大橋仁『そこにすわろうとおもう』

発行所:赤々舎

発行日:2012年11月20日

年も押し詰まってきた時期に、とんでもない重量級の写真集が届いた。大橋仁の『そこにすわろうとおもう』はA3判、400ページ、重さはなんと5キロもある。デビュー作の『目のまえのつづき』(青幻舎、1999)以来、彼の作品には「これを撮らなければならない」という思い込みの強さを、恐るべき集中力で実際に形にしていく気魄に満ちあふれている。時にその強引さに辟易することもないわけではないが、被写体との関係が穏やかで希薄になりがちな日本の現代写真において、アウトロー的な凄みを前面に押し出す彼の存在そのものが貴重であるといえそうだ。
今回も、最初から最後まで全力疾走で突っ走る「奇書」としかいいようがない写真集だ。「奇書」というのはむろん褒め言葉で、「奇妙」でありながら「奇蹟」でもあるということ。中心的なテーマは、男女数百人が入り乱れるオージー(集団乱交)の現場なのだが、その様子を、ここまで徹底して微に入り細を穿って撮影し続けたシリーズは、いままでほかになかったのではないだろうか。大橋の視線は、彼らのふるまいに対する純粋な驚きと好奇心と共感とに支えられており、腰が引けた覗き見趣味やネガティブな感情とは無縁のものだ。「奇妙」でありながら「奇蹟」でもあるというのは、実は彼の基本的な人間観でもあるのだろう。大橋が本書の刊行にあたって書いた文章の次の一節からも、そのことがよくわかる。
「今日この場に、自分が生きていること、この世というひとつの場所に人類がそろって生きていること、自分はそこにすわろうとおもった」。
今回一番問題になったのは「性器」の扱い方ではなかっただろうか。現在の日本の出版状況においては、男女の性器が露出した状態で写っている写真を掲載・出版するのはかなりむずかしい。結果的に、本書では局部にぼかしを入れた印刷を採用した。これはとても残念なことだ。おそらく、一番心残りなのは大橋本人だろう。いろいろ問題はあるだろうが、すべてをクリアーに印刷した「海外版」の刊行を考えてもいいと思う。

2012/12/30(日)(飯沢耕太郎)

野村次郎『峠』

発行所:Place M

発行日:2012年12月1日

2011年2月~3月に新宿御苑前のギャラリー、Place Mで開催された野村次郎の個展「峠」について、本欄に以下のように描いた。
「怖い写真だ。会場にいるうちに、背筋が寒くなって逃げ出したくなった。(中略)落石除けのコンクリートや枯れ草に覆われ、時には岩が剥き出しになった崖、その向こうに道がカーブしていく。時折ガードレールに切れ目があり、その先は何もない空間だ。それらを眺めているうちに、なぜかバイクごと崖に身を躍らせるような不吉な想像を巡らせてしまう。そこはやはり『立ち入り禁止の林道』であり、写真家はすでに結界を踏み越えてしまったのではないか」
こんなふうに感じたのには理由があって、野村が一時期精神的に不安定な状態に陥り、「引きこもり」の状態にあったことを知っていたからだ。自宅の近くにある林道を撮影したこの連作に、そのときの鬱屈した心情が写り込んでいるのではないかと想像したのだ。
ところが、今回写真集として刊行された『峠』を見て、やや違った思いを抱いた。たしかに「怖い写真」もある。だが「峠」には時折日が差しこみ、風も吹き渡っている。そこから伝わってくる感情は、閉塞感だけではないようだ。作者の野村自身は、「あとがき」にこう書いている。
「峠。そこは、ある意味閉ざされた場所で、お互い符号を持たない同士ゆえ、僕には開放感をあたえてくれる」
「符号を持たない同士」という言い方はややわかりにくいが、写真学校を中退して引きこもってしまった野村と、人もあまり通わずほとんど見捨てられてしまった林道のあり方が重ね合わされているということだろう。彼がそこにある種の「開放感」を見出していたということが、今回写真集のページを繰っていてよくわかった。撮影期間は2002~2011年。野村がPlace Mの存在を知り、再び写真に取り組み始めた時期だ。そこには恢復への希望が託されているようでもある。

2012/12/24(月)(飯沢耕太郎)

吉野英理香「Digitalis」

会期:2012/12/08~2013/01/19

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

ひとりの写真家の世界が、何かのきっかけで大きく開花していくことがある。吉野英理香にとっては、それは写真集『ラジオのように』(オシリス、2011)の刊行だったのではないだろうか。吉野はこの写真集におさめた写真を、それまでのモノクロームからカラーに変えて撮影した。そのことで、北関東の街のなんとも殺風景な日々の情景が、傷口をそっと指の腹で撫でるような切実さで定着されるようになった。
今回発表されたのは、その続編というべきシリーズだが、その作品世界はさらなる深まりを見せている。路上で撮影されたスナップ的な写真が減ってきて、身近なモノをじっと見つめているような写真が目につく「火がついて半ば燃えかけた紙片」「闇の中に半ば消えかけている猫」「植え込みに半ば隠れている自動車」「羽根を半ば閉じた(開いた)白鳥」──こうして見ると、何かが途中で中断したり、曖昧な形のままに留まったりしている、宙吊りの印象を与える写真が多いことがわかる。その「半ば」という感覚こそが、吉野の視線のあり方を強く支配しているように思えるのだ。
個人的にとても強く惹かれる写真が一枚あった。窓辺に置かれた洗面器のような金属製の容器に水が張られ、紙(写真のプリント)が浮いている写真だ。静謐だが、凛と張りつめた緊張感を漂わせている。彼女の師である鈴木清が写真集『流れの歌』(私家版、1972)の表紙に使った、あのつけ睫毛が洗面器の底に貼り付いた写真を思い出した。鈴木から吉野へ、イメージが眼から眼へと手渡されているということだろう。

2012/12/21(金)(飯沢耕太郎)

石塚元太良「氷河日記 グレイシャーベイ」

会期:2012/12/06~2013/12/28

SLOPE GALLERY[東京都]

石塚元太良は2010年にシーカヤックでアラスカの湾岸を移動しながら、氷河を撮影するというプロジェクトを行なった。2011年には文化庁在外芸術家派遣員としてアメリカに滞在して、前に写真集(『PIPELINE ALASKA』2007)にまとめたアラスカの石油パイプラインのシリーズを撮影し直した。さらに2012年にはアイスランドにアーティスト・イン・レジデンスで滞在して、当地の地熱エネルギーを利用したお湯のパイプラインを撮影している。それ以前から世界中を飛び回る行動力には定評があったのだが、近年は移動の範囲がより広がるとともに、プロジェクトを着実に形にしていくことができるようになってきた。
本展では2010年7〜8月に、キャンプしながらアラスカ・グレイシャー湾をカヤックで回ったときの写真を展示している。35ミリカラーフィルムで撮影した、縦位置のスナップショット写真16点が中心だが、大判カメラで撮影した氷河の写真3点も、大きく引き伸ばして展示している。移動しつつ、軽やかに被写体を捉えていくスナップショットも悪くないが、光を透かして青く輝く氷河の表層をなぞるように写しとった写真に、石塚の写真家としての姿勢がしっかりと定まってきていることがうかがえた。いま制作中というアラスカとアイスランドの石油パイプラインのシリーズが、どんな形でまとまってくるのかが楽しみだ。1977年生まれの彼にとっては、写真を通じて歴史観、世界観が問われる正念場の時期を迎えつつあるのではないかと思う。
なお、展覧会にあわせて小ぶりなサイズの写真集『氷河日記 グレイシャーベイ』も刊行されている。自費出版の、手作り感が漂う写真集だが、逆に写真にもテキストにも自分の思い通りの形にしていこうという爽やかな意欲がみなぎっている。これまで彼が刊行してきた写真集のなかでも、一番いい出来栄えかもしれない。

2012/12/20(木)(飯沢耕太郎)