artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

森山大道「LABYRINTH」

会期:2012/09/28~2012/11/11

BLD GALLERY[東京都]

「これは反則ではないのか」と言いたくなるような、面白い展示だった。フィルムのコマをそのまま焼き付けたコンタクト・プリント(密着印画)を見せることは、写真家にとっては勇気がいることだと思う。彼がどんな対象に向けて、どんなふうにシャッターを切っているのかが、一目瞭然になるからだ。それでも森山大道ぐらいになると、コンタクト・プリントを人目にさらすことになんの躊躇もなく、むしろそのことを愉しんでいるようでもある。
今回展示されたのは104×144.4�Bのサイズに大きく引き伸ばされたコンタクト・プリント(写真弘社によるバライタアートプリント)で、そこにぎっしりと森山の旧作が詰まっている。しかも、そこでは1960年代から2000年代までの写真が、年代を飛び越えて、アトランダムにコラージュされて並んでいるのだ。『にっぽん劇場写真帖』(1968)、『狩人』(1972)、『写真よさようなら』(同)から『光と影』(1982)、『サン・ルゥへの旅』(1990)を経て『新宿』(2002)、『Buenos Aires』(2005)まで、つい写真集で見慣れたイメージを探してしまうのだが、それが目に入ってきたとき、軽いショックに襲われてしまう。前後の画像とのかかわりによって、そのたたずまいが相当に違っているのだ。さらにトリミングや焼き込みのような暗室技術を駆使することによって、森山がいかに魔術的な画像操作を行なっているのかが、まざまざと見えてくる。コンタクト・プリントをあらためて確認することで、森山の写真を形づくっている地層のような構造が浮かび上がってくるのだ。まさにスリリングな展示と言えるだろう。
なお、展覧会にあわせて写真集『LABYRINTH』(AKIO NAGASAWA PUBLISHING)も刊行された。300ページを超えるイメージの迷宮。これまた、ページをめくる手が止まらなくなるほどの異様な面白さだ。

2012/10/08(月)(飯沢耕太郎)

操上和美「時のポートレイト」

会期:2012/09/29~2012/12/02

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

操上和美は言うまでもなく、1960年代から日本の写真界の最前線で活動してきたひとりである。広告や雑誌の仕事だけでなく、コマーシャルフィルムの制作にも積極的に取り組み、2008年には初監督作品の映画『ゼラチンシルバーLOVE』も発表した。だが、50年あまりプロフェッショナルな映像作家として活動を続けながら、彼はむしろ自分自身のための写真の撮影にこそ情熱を傾けてきたのではないか。今回、東京都写真美術館で開催された「時のポートレイト」展には、それら日々の「眼の鍛錬の記録」と言うべき写真群がずらりと並んでいた。
展示されていたのは「陽と骨」「NORTHERN」の2シリーズ。1970年代からトイカメラを使って撮影されている「陽と骨」は、粗い粒子、コントラストの強いモノクロームの画像で日常の断片を切りとっている。「NORTHERN」は、1994年の父親の死をきっかけに、故郷の北海道を集中的に撮影した写真群で、92年と94年のロバート・フランクとの旅の写真も含まれている。両者に共通するのは、光と影の交錯、生と死の気配、現実と夢の境界領域などに鋭敏に反応する、まぎれもなく写真家特有の研ぎ澄まされた生理感覚と言うべきものだ。操上の仕事の写真は、クライアントの要求に充分に応える職人的なプロフェッショナリズムの産物と言えるが、これらのシリーズでは、あくまでも自分の見方に固執し続けている。その頑固な姿勢は潔いほどであり、仕切りを全部取り払って、周囲の壁にゆったりと作品を配置した会場構成にも、「これしかない」という揺るぎない確信を感じとることができた。

2012/10/04(木)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00018863.json s 10060609

小林紀晴「遠くから来た舟」

会期:2012/09/28~2012/11/06

キヤノンギャラリーS[東京都]

目新しいテーマというわけではない。日本各地に点在する「聖地」、そこで行なわれるさまざまな祭礼や年中行事は、これまで多くの写真家たちが撮影してきた。1970年代の内藤正敏、土田ヒロミ、須田一政らの仕事がすぐに思い浮かぶし、その後も高梨豊、鈴木理策、石川直樹らが、個性的なアプローチを展開してきた。とはいえ、今回展示された小林紀晴の「遠くから来た舟」は、彼なりの必然性と粘り強い思考と実践によって成立したものであり、その写真家としての経歴のエポックとなるいい作品だと思う。
小林はよく知られているように、20歳代の多くの時間をアジア各地の旅に費やし、2001年の同時多発テロを挟んでニューヨーク滞在も経験した。その後、「海外にばかり眼が向いていた反動」で、「日本の聖なる地」にカメラを向けるようになる。しかも小林の生まれ故郷の長野県諏訪は勇壮な「御柱祭」が数え年の7年ごとに行なわれる土地であり、彼の父親もその祭りによく参加していたという。青森の「ねぶた祭り」から沖縄・与那国島の「マチリ」まで、そうやって撮影された祭礼の写真群は、だがそれほど神秘的にも、威圧的にも感じない。小林の旅の写真の基本的なスタイルである、被写体との等身大の向き合い方がここでも貫かれており、背伸びすることなく自分自身の目と足を信じてシャッターを切っていることが伝わってくる。大小68点のプリントの展示構成にも工夫が見られる。連続性よりも非連続性を強調して、写真が闇の中で次々に点滅していくように、効果的に配置しているのだ。
もうひとつ感心したのは、会場で配布されていた展示作品のリストを兼ねた作品解説のテキストである。小林の文章力には以前から定評があるが、そのレベルが格段に上がっているのだ。「すべては盃のなかで起きていたこと。少しずつ飲みほされていく」。これは最後の68枚目の写真に付されたキャプションだが、作品全体を見事に締めくくるとともに、さらに「遠くから来た舟」のイメージへと読者を誘う。写真家、文章家としての階梯を、また一段上ったのではないだろうか。

2012/10/02(火)(飯沢耕太郎)

TOKYO PHOTO 2012

会期:2012/09/28~2012/10/01

東京ミッドタウンホール[東京都]

4回目を迎えたTOKYO PHOTO。昨年は震災の影響もあって、やや盛り上がりを欠いたのだが、今年は会場の規模も2倍あまりにふくらみ、60あまりのブースで意欲的な展示を見ることができた。写真作品を中心としたアートフェアとして、ほぼ定着したといえるのではないだろうか。
今年の特徴は、タカ・イシイ・ギャラリー、小山登美男ギャラリー、TARO NASU、ツァイト・フォト・サロン、プォト・ギャラリー・インターナショナルなど、日本を代現するギャラリーだけでなく、ガゴシアン・ギャラリー(ニューヨーク、ロンドン、パリ等)、カメラ・ワーク(ベルリン)、ギャルリー・ヴュ(パリ)、マイケル・ホッペン・ギャラリー(ロンドン)、ギャルリー・カメラオブスクラ(パリ)、マグダ・ダニス・ギャラリー(上海)など、アメリカ、ヨーロッパ、アジアのギャラリーも多数参加するようになってきていることだ。すでに写真作品の市場価値が確立している欧米でも、日本の写真の状況への関心が高まっていることのあらわれといえる。ほかにも青幻舎、蔦屋書店、リブロアルテ、SUPER LABOなど、写真集を中心に販売しているブースがあり、石元泰博追悼展、中国・北京の三影堂写真芸術センターの選抜展、エール・フランスの秘蔵写真のコレクション展なども、会場内で開催された。若い層を中心に、観客もかなりたくさん入っているようだった。
問題は、実際に作品が売れているかどうかだが、「昨年よりはまし。だがやはり厳しい」という声がいろいろなギャラリーから聞こえてきた。総じて、すでに評価の高いクラシックな作品にくらべて、現代作家の作品はどうしても動きが鈍いようだ。日本に写真のマーケットを確立しようという主催者側の意気込みは充分に伝わってくる。観客の意識がもう少しポジティブに変わってくることが必要になるだろう。

2012/09/29(土)(飯沢耕太郎)

藤岡亜弥「離愁」

会期:2012/09/09~2012/09/29

AKAAKA[東京都]

藤岡亜弥には『さよならを教えて』(ビジュアルアーツ、2004)という名作がある。フランソワーズ・アルディの物憂いメロディの名曲にのせて、エストニアからフィンランドへ、さらにヨーロッパ各地を彷徨うロード・ムービーのような写真集だ。藤岡にはむろん『私は眠らない』(赤々舎、2009)のような、ひとつの土地に根ざしたいい作品もあるのだが、僕はどちらかというと彼女の「旅もの」の方が好きだ。
今回AKAAKAで展示された「離愁」もブラジルへの旅の産物である。藤岡の祖母はブラジル移民の二世で、20歳のときに日本に帰国した。その遺骨をかかえ、60年前の親友「文江さん」の行方を探して、彼女は2002年と2011年の二度にわたってブラジル各地を旅する。会場にはその間に撮影した42点の写真と、昔の思い出を語る日系人たちを撮影したビデオの画面をプリントアウトした画像、彼らの肉声を起こしたテキストが展示してあった。
結局、「文江さん」はすでに亡くなっており、いまや四世の代になっている日系人たちとの交流も、中途半端なものにならざるをえない。だが旅では多くの場合、当初の目的が達成されることはなく、宙吊りの気分のままに時が過ぎていくのではないだろうか。そんななかで少しずつ形をとり、旅の時間を侵食していく「離愁(サウダージ)」の感情が、微妙に揺らぎつつ連続していく写真群に色濃くまつわりついているように見える。いまのところ、写真集になる予定はないようだが、ちょうど『さよならを教えて』のように、テキストと写真とが絡み合って進行していく幻の写真集が見え始めているように感じた。

2012/09/27(木)(飯沢耕太郎)