artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

兼子裕代『APPEARANCE』

発行所:青幻舎

発行日:2020年1月25日

1963年、青森県生まれで、アメリカ・カリフォルニア州オークランドで作家活動を続ける兼子裕代は、2009年に原因不明の脳症で体調を崩した。病気から回復後、「子どものエネルギーに憧れを抱いたのと同時に、その危なっかしさや脆弱さに共感を覚え」て、友人の音楽家が教えていた子どもたちが歌う姿を撮影し始めた。その後、子どもだけではなく大人が歌っている様子にも惹きつけられるようになって被写体の幅が広がり、2017年8月には、個展「APPEARANCE──歌う人」(銀座ニコンサロン)を開催した。今回、青幻舎から刊行された写真集は、同シリーズから62点を選んでまとめたものである。

「歌う人」はその行為に没入することによって、その人の無防備な魂のようなものを露わにする。兼子は、彼らを注意深く観察することによって、「被写体の顔に不意に現れる、感情の発露の瞬間」を捉えようとした。そのことによって、「歌う人」たちのキャラクターがくっきりと浮き彫りになっているように感じた。被写体の多くは、兼子が暮らすオークランドやサンフランシスコで撮影されており、巻末の「図版リスト」の解説をあわせて読むことで、彼女の交友関係の広がりを確かめることができる。つまり、この作品は兼子自身の生の見取り図にもなっているということだ。

最初のうちは、6×6判の真四角のフォーマットで撮影していたが、次第に横長の画面の写真が増えてくることも興味深い。「被写体の周辺をより取り入れるようになった」ということだが、そこにも兼子の意識が、「歌う人」本人だけでなく、彼らを取り巻く社会環境にまで拡大していったことが見えてくる。

関連レビュー

兼子裕代「APPEARANCE──歌う人」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2017年09月15日号)

2020/03/08(日)(飯沢耕太郎)

普後圴写真集「WATCHERS」刊行記念展

会期:2020/03/05~2020/03/29

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

普後圴は、見慣れたフライパンを宇宙的な広がりを持つ画像に見立てた『FLYING FRYING PAN』(写像工房、1997)以来、モノや人の日常性をはぎ取り、抽象性を帯びた関係項に還元する作品を制作・発表してきた。だが、今回ふげん社で展示された「WATCHERS」は、普後の仕事のなかではやや異質な作品に思える。何かを「見る人」の後ろ姿を撮影した本シリーズでは、彼らの頭部や衣服は、カラー写真で克明に描写されており、モノクローム作品のような抽象性、象徴性はあまり感じられない。それらはむしろリアルなドキュメントに見えるほどだ。だが、作品全体を見直すと、そこにやはり普後らしいコンセプチュアルな指向性を感じる。

このシリーズは1999年にPGIで、「見る人」というタイトルで発表されたことがある。その時には、今回「WATERFALL」としてくくられた、ナイアガラの滝と華厳の滝を「見る人」を撮影した写真による展示だった。エンパイア・ステート・ビルと東京タワーの展望台から「見る人」の写真を撮影し始めたのは、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロがきっかけだったという。この「CITY」のパートが加わることで、アメリカと日本という対立項だけでなく、自然と都市という異なる環境に向き合う人たちの後ろ姿というファクターが、明確に提示されるようになった。

それにしても、人の背中の表情がいかに雄弁なのかが、この作品を見ているとよくわかる。見えない正面に対する想像力が喚起されるためでもあるのだろう。被写体になった一人ひとりの生のあり方が、画面の細部から鮮やかに浮かび上がってくる。それとともに、彼らを見ているもうひとりの「見る人」である写真家、さらにその写真を見る観客という具合に連想が広がっていく。見飽きることのない、奥行きのあるシリーズといえる。なお、本展にあわせてふげん社から同名の写真集が刊行された。「WATERFALL」と「CITY」の二つのパートを手際よく対比させた、すっきりとした造本の写真集である。

2020/03/07(土)(飯沢耕太郎)

田附勝『KAKERA』

発行所:T&M Projects

発行日:2020年2月

写真に限らず、どんなアート作品でも「思いつきを形にする」ところからスタートする。だが、それが単なる生煮えの「思いつき」だけに終わってしまうのか、それとも熟成して高度な作品にまで辿り着くかに、アーティストの力量があらわれてくるといえそうだ。

田附勝の『KAKERA』もその始まりは偶然の産物だった。2012年の夏、田附は新潟で縄文土器が発掘されたという知らせを聞き、現場に向かった。その破片を目にした時、そこに積み重なった「時間」の厚みを感じて、「重くて熱い血液が上昇してくる」ように感じる。田附は縄文土器を撮影するために新潟に通うようになり、ある博物館の資料室で新聞紙に包まれた縄文土器の破片を見せてもらった。土器片を整理するときに、保管状態をよくするために、その場にあった新聞紙を使うのだという。たまたま、その新聞の日付が「2011年3月13日」、東日本大震災から2日後のものだったことで、何かがスパークした。田附は震災前から東北地方に足を運び、写真集『東北』(リトルモア、2011)を刊行していた。その記憶が鮮やかに甦り、「いくつにも積み重なった地層。表層と深層を繋ぐ時間」がそこに顔を覗かせたのだ。

本作『KAKERA』は、田附がその後さまざまな博物館、資料室などを訪ね歩き、縄文土器の破片とそれらを包んでいた新聞紙を撮影した写真群によって構成されている。「時間」そのものの結晶というべき土器のたたずまいにも引きつけられるが、それ以上にそのバックの新聞記事が気になってしまう。1918年の「米の対露声明」から2015年の「戦後70年反省とおわび」まで、その間に太平洋戦争、戦後の復興、高度経済成長の時期、東日本大震災など、日本と世界の歴史が含み込まれている。縄文土器が土中で経てきた「時間」と比較すれば、わずかな光芒かもしれないが、それでもひとりの日本人の生涯を超えるほどの「時間」が過ぎ去っているのだ。

『KAKERA』は、2種類の時間を一気に結びつけるという卓抜なアイディアを、的確な構図とライティングによって完璧に実現した写真シリーズである。町口覚の造本設計、浅田農のデザインも、写真の内容にうまくフィットしている。なお、写真集の刊行にあわせて、あざみ野フォト・アニュアルの一環として田附の個展「KAKERA きこえてこなかった、私たちの声」(1月25日〜2月23日)が開催された。

関連レビュー

田附勝『魚人』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)

田附勝『東北』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年09月15日号)

2020/03/07(土)(飯沢耕太郎)

小林秀雄新作展 街灯

会期:2020/02/28~2020/03/28

EMON Photo Gallery[東京都]

仕掛けを凝らした場面を設定し、自ら考案した光学装置を使って、1990年代からユニークな作品を発表し続けてきた小林秀雄の新作展である。今回は「街灯」、「花と電柱」、「街灯135」の3シリーズが出品されていた。

メインの展示となる「街灯」では、どこか奇妙な雰囲気のある「不自然な所」で街灯が光を放っている。公園や田んぼや菜の花の群生の中などにある街灯は、どうやら作り物のようだ。「花と電柱」では、電柱(これは本物)の周辺に赤い花々が見える。ヌードの女性が立っていることもある。これらは多重露光で合成したものだという。小林は8×10インチの銀塩大判フィルムを使っているので、暗室の中での合成作業ということになるだろう。「街灯135」では35ミリ判のカメラで撮影しているが、街灯と街灯のあいだでもシャッターを切っている。街灯と、何も写っていない暗闇を写し込んだフィルム6コマ分を提示し、写真の中に「移動した距離、撮影した行為による時間」を取り込もうとする。

3シリーズとも技巧を凝らしたものだが、そのことはあまり気にならない。むしろ、夜にふと街灯を見上げて、「現実と非現実、この世とあの世が、振り子が揺れるように行き来しながら、彷徨う」ように感じたという小林の体験が、リアルな実感をともなって再現されている。小林の仕事は、写真という枠組みを超えた、「光と闇」にかかわる普遍的な表現の域に達している。もう少し評価されていいアーティストではないだろうか。

関連レビュー

小林秀雄「中断された場所 / trace」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年07月15日号)

小林秀雄「SHIELD」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)

2020/03/06(金)(飯沢耕太郎)

橋本照嵩『瞽女 アサヒグラフ復刻版』刊行記念展

会期:2020/02/21~2020/04/04

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

橋本照嵩(1939〜)の「瞽女(ごぜ)」は、1970年代の日本の写真家たちの仕事のなかでも、最も印象深いシリーズのひとつである。新潟・北陸地方を、唄と三味線で門付けをしながら旅を続ける盲目の女芸人たちを、橋本は行動をともにしながら四季を通じて撮影し続けた。それらは、1970〜73年の『アサヒグラフ』に5回にわたって掲載され、1974年に写真集『瞽女』(のら社)として出版され、橋本の代表作となった。

今回展示されたのは「作家の手元に残る当時の膨大なネガより新たな視点で選りすぐって制作した」20点余りだが、いま見直すと、哀感を込めて撮影された瞽女たちの姿だけでなく、彼女たちの背景となる風景の変貌にむしろ胸を突かれる。1970年代は「日本列島改造」の掛け声に乗って、都市と田舎との差異が縮まり、日本全体に均質な眺めが広がり始めた時期だった。橋本は、同時代の北井一夫、土田ヒロミ、山田脩二らと同様に、農村地帯に残っていた日本の原風景が急速に失われていく状況に鋭敏に反応し、その指標として瞽女たちにカメラを向けていった。やや広角気味のレンズで、引き気味に撮影するスタイルが、その意図とうまく噛みあっている。

本展は、タイトルが示すように、ZEN FOTO GALLERYから刊行された『瞽女 アサヒグラフ復刻版』の出版記念展を兼ねている。写真集『瞽女』より一回り大きな判型の『復刻版』で見ると、個々の写真の迫力が増して、生々しい印象が強まる。1970年代の写真家たちの作品は、雑誌を最終的な発表媒体として制作していたので、このような試みは、貴重かつ有意義といえるだろう。

関連レビュー

橋本照嵩「瞽女」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)

2020/03/04(水)(飯沢耕太郎)