2019年12月01日号
次回12月16日更新予定

artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

パロディ、二重の声 ──日本の1970年代前後左右

会期:2017/02/18~2017/04/16

東京ステーションギャラリー[東京都]

「パロディ」とはなんだろうか。広辞苑には「文学作品の一形式。よく知られた文学作品の文体や韻律を模し、内容を変えて滑稽化・諷刺化した文学。日本の替え歌・狂歌などもこの類。また、広く絵画・写真などを題材としたものにもいう」とある。筆者が「パロディ」というものを知ったのは雑誌『ビックリハウス』(正確に言えば、同誌の「日本パロディ展作品カタログ」)とアメリカのパロディ雑誌『MAD』でのことで、それらに掲載された「作品」からすると広辞苑の定義は至極納得のいくものだ。だが本展を見て、「パロディ」と称するものに上の定義にとどまらないものがあることに気づかされる。そのひとつは、白川義員の写真を利用したマッド・アマノの合成写真をめぐって争われた、いわゆる「パロディ裁判」の俎上に載せられた作品だ。山肌を下るスキーヤーたちの軌跡をタイヤの轍に見立てたコラージュだが、そこにあるのは見立ての面白さと環境問題に対する諷刺、ブラックユーモアであって、オリジナル作品が人々にとって周知のものであったわけではなく、表現のスタイルを模したものでもなく、白川の写真はコラージュの素材として借用されただけだ。マッド・アマノの作品群は基本的に同様の写真コラージュ(現在であれば雑コラと呼ばれるだろうもの)であり、オリジナル作品の形式模倣というスタイルではない。しかしながら、この作品が「パロディ裁判」として1971年から87年まで争われたことは、それが辞書的な定義でパロディと呼べるものかどうかとはまた別の話として、パロディという言葉で括られるなにかがひとつの表現形式として現れ、ブームとなり、そして収束していくまでの時代の空気を伝えるものであることは間違いない。実際、『ビックリハウス』は1974年に創刊し85年に休刊、名画やスターをモチーフにした河北秀也による営団地下鉄のマナーポスターシリーズは、1974年から1982年まで。この時期にパロディと呼ばれた表現に相当するものはそれ以前にもそれ以降にも存在するが、それらがパロディという言葉で括られたのは同時代的現象であったがゆえの「1970年代前後左右」なのだろう。
ではなぜ70年代(と、その前後左右)だったのか。成相肇・東京ステーションギャラリー学芸員は、この時代のパロディの標的の圧倒的多数が広告と雑誌であると指摘している(本展図録、12-24頁)。すなわち、広告や雑誌メディアの影響力の増大がパロディの源泉であった。興味深いことに、広告や雑誌は標的であると同時に、パロディ表現のメディアでもあった。『朝日ジャーナル』に掲載された「櫻画報」、雑誌『ビックリハウス』や営団地下鉄のマナーポスターなどはその顕著な例だろう。「日本パロディ展」入選作家のプロフィールにデザイナーやイラストレーター、デザイン専門学校生が多いことも、この時代を特徴付けているように思う。彼らはパロディの源泉となる素材を生み出しつつ、自らその替え歌を歌っていたのだ。
本展は1970年代(と、その前後左右)の文化を見せる展覧会であって、パロディ作品の展覧会ではない。とはいうものの、パロディに言及するテキストをステカンのスタイルで展示したり、図録を黒革の手帳のように仕立てたり──手帳に倣って14ページもの白紙の《MEMO》ページがある──、チラシにはゼロックス風のかすれ・潰れがあるなど、展覧会という形式に「二重の声」が仕込まれていることにもこっそり注目したい。[新川徳彦]


展示風景 ステカン風パネル


展示風景 地下鉄マナーポスター


展示風景 「パロディ裁判」判決文抜粋

関連レビュー

ディスカバー、ディスカバー・ジャパン「遠く」へ行きたい|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー

2017/02/17(金)(SYNK)

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中村好文x横山浩司・奥田忠彦・金澤知之 建築家x家具職人 コラボレーション展

会期:2016/12/14~2017/02/25

ギャラリー エー クワッド[東京都]

本展は、建築家/中村好文と、横山浩司・奥田忠彦・金澤知之の三名の職人とのコラボレーションにより製作された住宅用家具を展示するもの。中村氏の代表作である子供用の椅子から階段箪笥、珍しいところでは薪ストーブまで、さらには木製家具をつくるための道具の数々や製作現場で行なう協働での試作の様子を映像で見ることもできる。会場にはオーバル型の比較的大きな空間があり、台所・ダイニング・リビングの各スペースに加え、ベッドまでを含む小屋のしつらえが再現されている。まさに中村氏の好む生活スタイルと、簡素でありながらもあたたかみがあって居心地のよさそうなコンパクトな空間・工芸品との取り合わせの妙・穏やかな暮らしの雰囲気を看取できる。空間の囲いには、彼らの描いた設計デッサンがたくさんちりばめられて、目にも楽しい。もうひとつのスペースには、美しい曲線を描く木製のらせん階段が中央に配置され、周りに多種の木製椅子が置かれた円形の美しいディスプレイ。手仕事の確かさに魅了され、作り手の人柄までも映し出されたような家具デザインの仕事を堪能した。[竹内有子]

2017/02/16(木)(SYNK)

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近代工芸と茶の湯II

会期:2016/12/17~2017/02/19

東京国立近代美術館工芸館[東京都]

茶の湯に関わる近・現代工芸の器、約180点を通して、その文化的特質と変遷、造形美も同時に味わうことできる展覧会。茶の湯の道具のみならず、床の間の掛物・花入等を含めたしつらえまでもが展観される。とりわけ、本来は茶道具ではなかったものを独自の美意識で茶の世界に取り入れる「見立て」の精神が、世界の日用品をもって随所に実践されているのが楽しい。それは、サモワールであったり、ルーシー・リーの器であったり、ミャンマーの水牛茶杓であったりする。一方で鑑賞者に強い印象を与えていたのが、茶の湯の精神性をミニマルに表現する内田繁の3つの茶室「受庵」「想庵」「行庵」。実際に躙り口に身を入れて、それぞれ意趣に富んだ内なる空間を体感できる。実はこれ、日本独自の素材ともいえる竹や和紙を用いた可動式で折りたたんでしまうことのできる茶室。この「しまい」の精神は茶道の所作にも通ずるようだ。日本の総合芸術たる茶の湯のエッセンスを知ったうえで、今を生きる私たちがどう茶道を日常で楽しめるのか。本展は、柔らかで清新な感覚に富む現代工芸を通じて、いまの茶の湯の味わい方を教えてくれる。[竹内有子]

2017/02/16(木)(SYNK)

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印紙・証紙 小さなグラフィック・デザインの世界

会期:2016/12/20~2017/03/05

お札と切手の博物館[東京都]

グラフィック・デザイナー下邑政弥氏が長年にわたって収集し2015年にお札と切手の博物館に寄贈した日本の印紙・証紙に、同館が所蔵する資料を加えた企画展。印紙・証紙とは、税金や公的な手数料の支払い等を証明するために領収書や申請書、文書等に貼付するもので、その使用形態から切手に似た形状のものが多い。世界で初めて「収入印紙」の制度が導入されたのは1624年のオランダで、このときは文書に型押しをすることで税金の支払いを証明するものだったという。イギリスの北米植民地が独立する契機をつくった1765年の印紙法(Stamp Act)は、植民地で用いられる新聞雑誌の用紙、契約書用紙、トランプ等の用紙に、課税済みの型押しまたは印刷を施した用紙を用いることを義務づけるものだった。印刷物を貼付する形式の印紙が登場するのは18世紀末のイギリス。「手数料が支払い済みであることを証明する紙片」という意味では郵便切手も印紙・証紙の一種だ。ちなみに世界最初の郵便切手(postage stamp)が発行されたのは1840年なので、印紙(revenue stamp)の方が登場が早い。日本初の納税証紙(「蚕種印紙」=蚕の卵を産み付けた紙に課税した)は明治5年。日本初の郵便切手発行の翌年だ。最初の「収入印紙」の発行は明治6年。なお、政府が発行するものを「印紙(収入印紙や特許印紙等)」といい、都道府県等地方公共団体や民間機関が発行するものを主に「証紙」と呼ぶそうだ。
本展は印刷技術、貼付対象、使用分野の違いによって生じるデザインの多様性から日本の印紙・証紙を見る構成。印刷に関しては、政府が発行する印紙は最初期を除いて印刷局の製造によるもので、特に高額面のものは用紙や印刷にお札や切手と同様の技術が用いられている。偽造防止という点で、印紙は切手よりも(あるいは紙幣よりも)高額面のものが多く(現在発行されている収入印紙の最高額面は10万円)、用紙に透かしが入っているほか、色を付けた繊維を漉き込んだり(毛紙)、特殊な印刷技術が用いられている。貼付対象による違いは、それが文書に貼られるのか、モノに貼られるのかという違いだ。前者は主に切手に準じた形態。後者は、商品の包装を封印するものや、商品そのものに貼付するステッカータイプのものなど、物品の形態、素材によってさまざまな形式がある。使用分野による違いは、物品の形態によるヴァラエティなので、貼付対象の違いと重なる部分がある。典型的なものはラムネ瓶の口に貼られる封緘で、その一部に「物品税之証」が印刷されている。
課税されるということはそれらの商品が正規に製造(輸入)、流通されたものであることを意味する。本展で興味深かったのは、その結果として、印紙・証紙がしばしば商品の品質を保証するかのようなイメージに転化している例が見られることだ。すなわち、印紙・証紙が商標の役割も果たしているのだ。そしてさらには、印紙・証紙が人々に与える「正規品」のイメージを引用するデザインも現われる。各地の伝統工芸品に付される産地の証票(商標)はその例だ。地紋のデザインにしばしば彩紋が用いられているのも、単に偽造防止という意味だけではないだろう(下邑コレクションには、そうした印紙・証紙に類似する印刷物も含まれている)。もうひとつ面白いのはかつては課税の証明だったものが、形式だけ残ったもの。例えばタバコパッケージの口に付いているラベルは、たばこ事業民営化後も封緘紙、商標ラベルとしての機能を残している。かつて映画館等で用いられていた入場税用紙のデザインは、現在でも一部の映画館の入場券のデザインに残っている。薬品瓶やラムネ瓶、トランプの封緘は、それらが未開封であることを示す機能として残っている。本展では触れられていないが、かつて日本酒の瓶に貼られていた「酒税証紙」の位置に、本来のラベルとは別の小さめのブランドラベルや酒類、アルコール度数を示すシールが貼られるのもそうした名残のひとつではないだろうか。
印紙・証紙は切手と比較して収集が難しく、コレクターの数は極めて少ないという。政府発行の印紙から都道府県・民間団体の証紙まで、これだけの数のコレクションを見る機会は貴重だ。[新川徳彦]


展示風景

2017/02/14(火)(SYNK)

多治見市モザイクタイルミュージアム

[岐阜県]

古くから陶磁器の産地として知られる岐阜県東濃地方。この地域のやきものは美濃焼と総称されるが、地域によって特徴のあるやきものづくりが行われてきた。笠原町(現 多治見市笠原町)は陶磁器の中でもタイルの生産が大きなシェアを占めている。2006年に多治見市と合併し廃止された町役場跡に、合併特例債を利用して2016年6月にオープンしたのが多治見市モザイクタイルミュージアムだ。タイルの原料を掘り出す「粘土山」をモチーフとした藤森照信の設計による特徴ある外観の建築は、開館以来多くの人を集めている。同じ敷地には公民館や消防署があり、周囲には多くの民家があるにも関わらず、すり鉢状に掘り下げられた斜面の向こうに立ち上がる土の壁は、それらを忘れさせるような存在感をもって建っている。曲がりくねったアプローチを下った先にある入り口は小さな木の扉で、外からは中の様子がまったく想像できない。入り口から展示室に向かう階段は登り窯をイメージした土の床と壁。モザイクタイルのミュージアムなのに、タイルはほんのわずかにあしらわれているだけだ。が、外部への吹き抜けがある4階展示室は床から壁面、天井まで全面が真っ白いモザイクタイル貼り。ここに銭湯の壁面を飾ったモザイクや、モザイクタイルを用いた古い洗面台や風呂、染付便器などが並ぶ。3階は笠原タイル産業の歴史と技術を紹介する常設展示と企画展示室。2階は地元タイル企業のショウルームを兼ねた現代のモザイクタイルの展示。1階にはショップと体験工房がある。
笠原におけるタイル産業の先駆者は山内逸三(1908-1992)。笠原に生まれ、土岐窯業学校、京都市立陶磁器講習所で学び昭和4年(1929)に帰郷した山内は、昭和10年(1935)頃に施釉磁器モザイクタイルの量産に成功。ただし、飯茶碗の製造で知られていたこの地域がモザイクタイルの産地になったのは1950年前後のこと。国内においては戦後復興の建築需要、海外への輸出によってタイル産業は大きく成長していった。昭和26年(1951)に20社だったメーカーは2年後には100社を超え、茶碗製造からの転換が進んだ。各務 治 モザイクタイルミュージアム館長の話によれば、当初は新規参入者が多く、その好調を見て後に茶碗製造業者がタイル製造に転換。分業が進み産地が形成されていったということだ。プラザ合意後の円高によって輸出は打撃を受けたが、他方で国内においてはバブル景気に突入し、タイル産業はマンションに用いられる外装タイルの製造などで好調を維持したものの、バブル崩壊後は低調。それでも笠原のタイル生産量は現在でも全国一だ。
笠原町では20年程前から有志たちがこうした地元の歴史を残そうと、メーカーに残されている見本や、各地で取り壊されつつある銭湯の装飾タイルなどを集めはじめ、それらは最初地元の信用金庫の旧社屋で保管され、後に児童館を転用した施設「モザイク浪漫館」に移され、保存されてきた。館内に展示しきれないほどの「お宝」があるので、3階展示室は年に3回ほど展示を入れ替えるという。
2016年6月4日の開館以来、モザイクタイルミュージアムには多く人々が訪れ、筆者が訪問した翌週、2017年2月18日には10万人達成記念式典が開催されている。当初の年度内の来館者見込み2万5千人は開館翌月に突破したそうなので、驚くべきスピード。平日は1時間に1本のバスしかない、決して交通の便がよいとは言いがたい場所にあるにも関わらずだ。藤森建築が人気を呼んでいることは確かだと思うが、それだけではない。モザイクタイルの美しさと懐かしさ、ワークショップの数々、そしてなによりも自ら受付にたち、館内を回って来館者に声を掛けて回る各務館長のホスピタリティ。地元産業の博物館という、ともすれば堅くなりそうなテーマのミュージアムなのに、家族連れ、カップル、リピーターが多いということも頷ける。じつは筆者も近々の再訪を計画しているところだ。[新川徳彦]

2017/02/12(日)(SYNK)

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