artscapeレビュー

多治見市モザイクタイルミュージアム

2017年03月01日号

[岐阜県]

古くから陶磁器の産地として知られる岐阜県東濃地方。この地域のやきものは美濃焼と総称されるが、地域によって特徴のあるやきものづくりが行われてきた。笠原町(現 多治見市笠原町)は陶磁器の中でもタイルの生産が大きなシェアを占めている。2006年に多治見市と合併し廃止された町役場跡に、合併特例債を利用して2016年6月にオープンしたのが多治見市モザイクタイルミュージアムだ。タイルの原料を掘り出す「粘土山」をモチーフとした藤森照信の設計による特徴ある外観の建築は、開館以来多くの人を集めている。同じ敷地には公民館や消防署があり、周囲には多くの民家があるにも関わらず、すり鉢状に掘り下げられた斜面の向こうに立ち上がる土の壁は、それらを忘れさせるような存在感をもって建っている。曲がりくねったアプローチを下った先にある入り口は小さな木の扉で、外からは中の様子がまったく想像できない。入り口から展示室に向かう階段は登り窯をイメージした土の床と壁。モザイクタイルのミュージアムなのに、タイルはほんのわずかにあしらわれているだけだ。が、外部への吹き抜けがある4階展示室は床から壁面、天井まで全面が真っ白いモザイクタイル貼り。ここに銭湯の壁面を飾ったモザイクや、モザイクタイルを用いた古い洗面台や風呂、染付便器などが並ぶ。3階は笠原タイル産業の歴史と技術を紹介する常設展示と企画展示室。2階は地元タイル企業のショウルームを兼ねた現代のモザイクタイルの展示。1階にはショップと体験工房がある。
笠原におけるタイル産業の先駆者は山内逸三(1908-1992)。笠原に生まれ、土岐窯業学校、京都市立陶磁器講習所で学び昭和4年(1929)に帰郷した山内は、昭和10年(1935)頃に施釉磁器モザイクタイルの量産に成功。ただし、飯茶碗の製造で知られていたこの地域がモザイクタイルの産地になったのは1950年前後のこと。国内においては戦後復興の建築需要、海外への輸出によってタイル産業は大きく成長していった。昭和26年(1951)に20社だったメーカーは2年後には100社を超え、茶碗製造からの転換が進んだ。各務 治 モザイクタイルミュージアム館長の話によれば、当初は新規参入者が多く、その好調を見て後に茶碗製造業者がタイル製造に転換。分業が進み産地が形成されていったということだ。プラザ合意後の円高によって輸出は打撃を受けたが、他方で国内においてはバブル景気に突入し、タイル産業はマンションに用いられる外装タイルの製造などで好調を維持したものの、バブル崩壊後は低調。それでも笠原のタイル生産量は現在でも全国一だ。
笠原町では20年程前から有志たちがこうした地元の歴史を残そうと、メーカーに残されている見本や、各地で取り壊されつつある銭湯の装飾タイルなどを集めはじめ、それらは最初地元の信用金庫の旧社屋で保管され、後に児童館を転用した施設「モザイク浪漫館」に移され、保存されてきた。館内に展示しきれないほどの「お宝」があるので、3階展示室は年に3回ほど展示を入れ替えるという。
2016年6月4日の開館以来、モザイクタイルミュージアムには多く人々が訪れ、筆者が訪問した翌週、2017年2月18日には10万人達成記念式典が開催されている。当初の年度内の来館者見込み2万5千人は開館翌月に突破したそうなので、驚くべきスピード。平日は1時間に1本のバスしかない、決して交通の便がよいとは言いがたい場所にあるにも関わらずだ。藤森建築が人気を呼んでいることは確かだと思うが、それだけではない。モザイクタイルの美しさと懐かしさ、ワークショップの数々、そしてなによりも自ら受付にたち、館内を回って来館者に声を掛けて回る各務館長のホスピタリティ。地元産業の博物館という、ともすれば堅くなりそうなテーマのミュージアムなのに、家族連れ、カップル、リピーターが多いということも頷ける。じつは筆者も近々の再訪を計画しているところだ。[新川徳彦]

2017/02/12(日)(SYNK)

2017年03月01日号の
artscapeレビュー