artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
驚きの明治工藝
会期:2016/09/07~2016/10/30
東京藝術大学大学美術館[東京都]
三井記念美術館で清水三年坂美術館館長・村田理如氏の明治工芸コレクションが公開され
、その「超絶技巧」が話題になっていたころ、台湾にも明治工芸のすごいコレクターがいるという話を聞いた覚えがある。そのすごいコレクター、宋培安(ソン・ペイヤン)氏の明治工芸コレクション約3000点のうち、131点が来日した。宋氏のコレクションはこれまでに台湾で2回公開されただけで、日本を含め海外での公開は初めてだという。七宝、木彫、金工、牙彫、陶磁器と、蒐集品の技法は多岐にわたるが、宋コレクションの目玉は自在置物だ。龍、蛇、海老、蟹などを鉄や銀、銅などの金属で写実的に再現した置物で、胴、手脚を動かすことができる。外見のリアルさと精緻で驚異的な機構の魅力から、近年では海外のコレクターも多いという。宗氏の自在コレクションは世界一の規模で、大小40点を所蔵。本展でもいちばん大きなスペースを占めている。展覧会会場入口では、天井から吊られた全長3メートル、世界最大の龍の自在が観覧者を出迎える。なお、本展の企画者、原田一敏・東京藝術大学大学美術館副館長は、自在置物の研究者だ。明治の工芸品は博覧会出品などを通じて主に欧米に渡った。そうした歴史的経緯ゆえ、欧米に作品、コレクターが多いことは理解できる。しかしなぜ台湾なのだろう。中国、台湾にも同時期の優れた工芸品がたくさんあるではないか。図録に収録されている鼎談に依れば、宗培安氏が日本の明治工芸の蒐集を始めたのは26年前。それまでには中国の玉や竹彫の骨董を集めていた。日本の工芸品で最初に集めたのは牙彫。そこから蒐集は金工に移り、さらに多様なジャンル、テーマの工芸へと拡大していったそうだ。中国の工芸品は技巧に長けているが表情に乏しい、日本の工芸品は作家ごとに繊細で豊かな表情がある、宋氏はそこに魅力を感じている、とは原田副館長による解説。なるほど、明治工芸が「超絶技巧」というキャッチフレーズで称揚されるたびに、中国にも同様あるいはそれ以上に超絶的な工芸の伝統があるではないかと疑問に思っていたが、表情の違いという指摘は新鮮だ。そのような視点で改めて展示を見ると、宋コレクションは村田コレクションほど素人目に分かりやすく超絶的な技巧の作品は多くない。原田副館長が本展ではあえて「超絶技巧」という言葉を用いなかったということも理解できる。ここで注目すべきは、作品の表情、表現の豊かさ、素材使いへの驚きであり、その上でそれらの作品を生み出した技巧のすばらしさを見ていくべきだろう。博覧会に出品された明治期の輸出工芸には巨大な作品も多く見られるが、コレクションに小品が多いのは(価格の問題もあるのかも知れないが)日本人の趣味感覚に近く感じる。展覧会のキャッチフレーズも「すごい! びっくり! かわいい!」だ。チラシにも掲載されている大島如雲「狸置物」のかわいらしさときたら堪らない。この作品、着物姿の狸の表情の楽しさもさることながら、台に接する裏側、狸の足の裏、肉球まで作り込まれているのだ(展示では鏡に写して裏を見ることができるようになっている)。小品といえば、宋氏が明治工芸を蒐集するきっかけとなった牙彫の優品は残念ながらワシントン条約により出品がかなわなかったとのこと。図録には牙彫は参考図版として掲載されている。[新川徳彦]関連レビュー
超絶技巧!明治工芸の粋──村田コレクション一挙公開:artscapeレビュー|SYNK(新川徳彦)
2016/09/06(火)(SYNK)
Modern Beauty─フランスの絵画と化粧道具、ファッションにみる美の近代
会期:2016/03/19~2016/09/04
ポーラ美術館[神奈川県]
ファッション、テキスタイルに関して多彩な主題の展覧会が多数開催されている今年、本展は美術・絵画のモチーフに現れた同時代のファッションを実物で見せるという構成になっている点、世田谷美術館で開催された「ファッション史の愉しみ」展
19世紀後半、オートクチュール、百貨店、ファッション誌などの登場でファッションは産業化してゆく。工業や商業の発達は新たな富裕層を生み、彼らは自分たちのステータス、名誉を示すものとして肖像画を欲した。マネ、ルノワールらはそうした需要に応えた。肖像画に描かれた女性たちのファッションについてはそれを同定する研究がおこなわれているそうだ。本展には出品されていないが、ルノワールの肖像画にはシャルル・フレデリック・ウォルトのメゾンのドレスが描かれていたり、モネが描いた女性のドレスと同様のものを当時のファッションプレートに見ることができるという。新しい都市や郊外の風景、行楽地もまた絵画の主題になった。クロード・モネ《貨物列車》(1872)には、蒸気機関車に牽かれた貨物列車、奥には煙を上げる煙突が立ち並ぶ工業地帯、手前の草原には上品な身なりをして散歩するブルジョワの男女が小さく描かれている。描かれていないが向こう側の密集した工場では粗末な身なりをした人々が働いているはず。線路を挟んだ風景の対比には分断された社会層の存在がうかがわれる。19世紀半ばからヨーロッパでは公衆衛生学が発達するが、水、お湯の使用は贅沢であり、人々は体臭を緩和させるために香水を使用していたことや、化粧においては鉛毒がなく安価な亜鉛華白粉が普及したことと絵画に描かれた女性たちとの関係が、香水瓶や化粧道具の展示で示唆される。娼婦の身づくろいの場面に描かれた男性──すなわちパトロンの視線の指摘も興味深い。展示の最後はコルセットからの解放、すなわちポール・ポワレの登場だ。ポワレはデュフィにファッション画や広告デザインを依頼したり、共同でテキスタイルデザインを手がけるなど、画家と密接な関係を持ったデザイナーでもある。展示がこの時代で終わっているのは(ポーラ美術館の絵画コレクションが理由でもあるかもしれないが)、ファッションや風俗を描くメディアが絵画から写真へと移ったから、と理解してよいだろうか。
現代において印象派の画家たちの作品を見るとき、ついつい画家も古い時代の風俗を描いていたように錯覚してしまうことがあるのだが、古典を主題とした絵画とは異なり、これらが当時の最新のファッション、新しい風景を描いていたことがよくわかる好企画。出品作品だけで解説を完結させず、他美術館所蔵作品の写真も用いた具体的な解説も説得力を増している理由だろう。空調にのせたほのかな香りの演出もよい。[新川徳彦]
関連レビュー
ファッション史の愉しみ──石山彰ブック・コレクションより:artscapeレビュー|SYNK(新川徳彦)
2016/09/04(日)(SYNK)
キュレトリアル・スタディズ11:七彩に集った作家たち
会期:2016/07/27~2016/09/19
京都国立近代美術館[京都府]
店頭におけるファッションの引き立て役であり、優秀な販売員でもあるマネキン。日本における洋装マネキンの製造は1925年、島津マネキンの創立にはじまる。手がけたのは島津良蔵(1901-1970)。島津製作所社長・島津源蔵(二代、1869-1951)の長男で、東京美術学校の彫刻科に進み、朝倉文夫に学んだのち島津製作所に入社する。当時島津製作所の標本部は人体模型の制作や輸入マネキンの修復を手がけていたが、マネキンの製造販売を行なうことが決定され、良蔵がその担当者となった。1937年、ここに作家として加わったのが良蔵と同じく東京美術学校彫刻科出身の向井良吉(1918-2010)だった。第二次世界大戦中の1943年にマネキンの製造を中止した島津製作所は、戦後その製造を復活させなかったが、島津良蔵と向井良吉は共同して1946年、マネキン会社「七彩工芸(現・七彩)」を設立。戦時中ラバウルに出征した向井良吉が島津良蔵と交わした「生還の暁にはマネキン創作活動を復帰する」という約束を果たしたことになる。社名の名付け親は向井良吉の兄で画家の向井潤吉(1901-1995)。「七つの異なった色が織り成すハーモニーと、空に架かる虹の雄大なイメージ」を込めた命名だという。今年2016年は、同社の創立70周年にあたる。
美術家たちが興した事業であり、七彩の社内外には芸術的な気風が溢れていたようだ。そのあたりは1949年から57年までの9年間行われた「マネキン供養祭」というイベントや、第一線のファッションデザイナーたちが参加した新作展、岡本太郎も寄稿した企業誌の刊行にもうかがわれる。1990年には、写真家ベルナール・フォコンが撮影に使用した1920年代のフランス製マネキンをコレクション。本業では美術館や博物館の服飾展示に使用されるマネキンの制作も行っている。商業的なマネキン、店舗什器の製造に留まらない多彩な活動の中で本展がとくに焦点を当てているのは、1953年3月に開催された展覧会「火の芸術の会」だ。その目的は「日本の陶磁器の伝統に現代の美術家の形と色を加えたい」「日本の将来の新しい工芸運動にひとつの寄与をしたい」というものだった。参加作家は岡本太郎、柳原義達、難波田龍起ら。平凡社社長・下中弥三郎所有の鎌倉山の窯と信楽の窯で彫刻家が形をつくり、画家が絵付けするという「美術家による陶器の新しい実験」が行われ、東京と大阪で作品が発表された。本展にはその作品、パンフレットが展示され、作家たちの制作風景を記録したスライドショーが上映されていた(この写真とは別に、岡本太郎の身体からマネキンの型を取る過程を記録したスライドショーも興味深かった。このときのマネキンは現在岡本太郎記念館に展示されているものだ)。このほか展示室には向井らが七彩で手がけたマネキン、パンフレットや企業誌、向井良吉の彫刻作品、展示会やマネキン供養祭の記念品が並ぶ。七彩の展示会風景などをランダムにまとめた写真パネルはとても興味深いが、その歴史と代々のマネキンについてもう少し詳しく見たかった 。常設展示室の一室をつかった小規模な企画ではあるが、展示室の外、受付やショップ、ロビー、階段踊り場など、美術館のそこここに現代の裸のままのマネキンを配したインスタレーションはインパクト抜群(ただし受付カウンターの女性マネキンのみは着衣。首に提げたスタッフ証によれば「キャロライン」という名前だ)。[新川徳彦]
2016/08/26(金)(SYNK)
刺繍(ぬい)と天鵞絨(ビロード)
会期:2016/08/20~2016/11/13
清水三年坂美術館[京都府]
絵筆の代わりに絹糸や金糸を用いて絵画のように表現する刺繍絵画と、ビロード地に友禅染を施した天鵞絨友禅の優品の数々。花鳥、風景、動物の刺繍絵画は、図案のなかの光や立体感を色面ばかりでなく、糸の種類、縫いの方向、厚みによって巧みに表しており、その職人の技倆と生み出された表現の繊細さに息を呑む。こうしたいわゆる「超絶技巧」の作品の他に興味を惹かれたのは、明治30年から大正期に作られたという「刺繍織」と呼ばれるもの。刺繍織は白い無地の織物で太めの糸を浮かせるように織ってある。絵柄に合わせて生地に色を差し、部分的に色糸で刺繍を施す。技法的には染めと刺繍の組み合わせではあるが、遠目には総刺繍のように見えなくもない。つまり安価に刺繍絵画をつくるための手抜き、省力化の技術だ。手を抜きたい、楽をしたいというモチベーションはしばしば技術進歩の原動力であり、その当時は多いに可能性のある発明だったと思われるが、いかんせん、生活必需品ではない他の輸出工芸と同様に刺繍絵画は産業のメインストリームになることはなく、汎用性のある技術として発展することはなかったようだ。[新川徳彦]
2016/08/26(金)(SYNK)
男女共学化の時代 ─戦後京都の公立高・女子高・男子高─
会期:2016/07/02~2016/09/25
京都市学校歴史博物館[京都府]
第二次世界大戦後、GHQの意向を受けた教育改革によって、中等教育の男女共学化が進められた。なかでも京都の公立高等学校では1948年10月の地域制(小学区制)・総合制と同時に共学化が実施された。この展覧会は、1970年頃までを対象に、学校新聞、写真、教科書などを資料として、男女共学の導入とその後の様相とを見せる興味深い内容になっている。
進駐軍主導の改革には旧制中学校・高等女学校に通う生徒や保護者たちからの反対があったが、教育改革を担った京都府軍政部民間情報教育課長E・ケーズの指導により改革が断行され、1947年5月に始まった新制中学校で男女共学化が実施された。新制高等学校の誕生は1948年4月だが、その時点では男女別学で、同年10月の再編により男女共学化が行なわれたという。当初は反対運動があったとはいえ、男女共学化が受け入れられたのは、男女別学を希望する者にとって、京都では多くの私立高等学校がその受け皿となったからと説明されている。1950年の全国における高校の私学在籍者は男子13%、女子23%。それに対して京都市内では男子31%、女子49%と、比率が非常に高かった。その後その比率は高まり、1960年には女子の3分の2は私立の女子高に通っていたという。ということは、京都市では男女共学が受け入れられたというよりも、男女別学を望む層が私学に流れたということになろうか(経済的事情で私学を選択できない層が共学の公立高校に進んだ、ということだろうか)。また京都市では1963年から、府立高校では1973年から順次、家庭科の男女共修が始まってたという。全国の高校で家庭科が男女共修となるのは1994年度からだそうで、京都では教員たちによる自主編纂教材が用いられていたそうだ。
男女共学の様相を資料でどのように見せるか。展示品のなかでは特に運動会の写真が事例として分かりやすい。教室での勉強姿は共学でも別学でもさほど違いはないが、運動会は男女が共同しなければならない場面が多数ある。フォークダンスはその最たるものだろう。手を繋がずに指先だけを結ぶ姿には、この世代でなくても覚えがあるのではないだろうか。公立私立を問わず、京都の高等学校の運動会のトリは仮装行列が定番だったという。1950年、鴨沂高校の仮装行列では、男女の生徒のみならず、教師も仮装させられている。酒飲みという理由で大きな一升瓶に乗せられた先生、源氏物語の登場人物に扮しているのは古文の先生、磔にされたキリストやクレオパトラに扮するは世界史の先生、屋台の親爺の恰好をしているのは「出店」という名前の先生だそうだ。普段の真面目な授業姿の写真と合わせてこれらが展示されているので、余計に可笑しい。私立高校の運動会でも仮装行列は行なわれていた。カトリック系の洛星高校では仏教のお坊さんの仮装、仏教系女子高の光華高校では全員が男装だ。写真からうかがわれる自由な雰囲気は、戦後に生まれたものなのか、京都独特のものなのか、運動会という場だからなのか、本展の主題とは少しずれるが、もう少し知りたいところだ。[新川徳彦]
2016/08/26(金)(SYNK)