artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事

会期:2016/03/16~2016/06/13

国立新美術館[東京都]

ファッションデザイナー、三宅一生の回顧展。会場はA、B、Cの3つのセクションにわかれ、セクションAには1970年代の作品、次のセクションBには1980年代の作品、そしてもっとも広いセクションCには代表作である「PLEATS PLEASE」をはじめ、「A-POC」、「132 5. ISSEY MIYAKE」など独自の方法論をもちいた革新的な作品群が展示された。初期の作品がまったく古びて見えないことに驚き、「一枚の布」というコンセプトが三宅の服づくりにおいていかに一貫した確かなものであったかをあらためて知ることとなった。
三宅一生は「ISSEY MIYAKE SPECTACLE: BODYWORKS」展(1983年)、「ISSEY MIYAKE MAKING THINGS」展(1998年)、「A-POC MAKING: ISSEY MIYAKE &DAI FUJIWARA」展(2001年)など、国内外で充実した展覧会を重ねてきた。また、2007年にはデザインのための美術館、21_21 DESIGN SIGHTを開設し、展覧会のディレクターとしても積極的に活動してきた。ふりかえればその原点は1975年の「現代衣服の源流」展にはすでに認められ、展覧会の実績もかなりのものである。本展では、グラフィックデザイナーの佐藤卓が一部の会場デザインを、デザイナーの吉岡徳仁が「グリッド・ボディ」によるインスタレーションを担当するなど、三宅にゆかりのあるクリエイターたちが結集して、開放的だが緊張感のある、楽しく美しい空間がつくり出された。ファッションにとどまらない、三宅一生の世界の広がりを存分に堪能できる展覧会であった。[平光睦子]

2016/04/16(土)(SYNK)

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ボストン美術館所蔵 俺たちの国芳 わたしの国貞

会期:2016/03/19~2016/06/05

Bunkamura ザ・ミュージアム[東京都]

幕末に一世を風靡した浮世絵師、歌川国貞(1786─1864)と歌川国芳(1797 1861)の展覧会。ウィリアム・ビゲロー(1850-1926)がボストン美術館に寄贈した日本美術コレクションのなかには、国芳が3200枚以上、国貞が9,000枚以上の作品が含まれていたという。ビゲローが来日して日本の美術作品を収集したのは1880年代、国貞没後まもなくのことであった。その後ボストン美術館では日本の版画コレクションを拡大し、いまでは52,000枚以上もの作品を所蔵しているというが、質量ともに国外では最高のコレクションと言ってもよいであろう。本展にはそのなかから170点が出品されている。
国貞と国芳は同門の兄弟弟子。美人画や役者絵で人気を博した兄弟子、国貞に対して、遅咲きの弟弟子、国芳は『水滸伝』や『里見八犬伝』といった歴史怪奇小説の物語絵で世に知られた。国貞の醍醐味のひとつは、女性の着物や髪型、そしてしぐさや表情である。繊細かつ丹念に描かれた着物の模様は注意深く組み合わされ、二つとして同じ着物姿はない。例えば、《縞揃女辨慶》シリーズでは、弁慶縞といわれる大胆な二色の格子柄をまとった女性たちを武蔵坊弁慶の逸話に見立てて描いた10枚の揃いものだが、同じような柄の着物でも帯や小物、髪型や髪飾りをさまざまに組み合わせることで表情豊かに描き分けており、さしずめスタイルブックのようである。一方、国芳は意表をついた大胆な構図とドラマティックな人物の表情が見所だ。荒れ狂う波涛が、巻き上げる風が、あやしく燻る煙が画面いっぱいにうねる空間をつくり出し、その場を舞台に、亡霊や妖怪、鬼の形相の武者たちが所狭しと暴れまわる。豪快で闊達、しかもどこかに陰や毒がある。浮世絵の爛熟期、幕末の陰鬱な世相を写した二人の画に現代の劇画や漫画の原点を見る思いがした。[平光睦子]

2016/04/16(土)(SYNK)

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ヨーロピアン・モード

会期:2016/03/08~2016/05/17

文化学園服飾博物館[東京都]

2階展示室は、18世紀後半ロココの時代から20世紀末まで、女性モードの通史を見せる毎年恒例のヨーロッパを発信源とする服飾史の入門展示。ドレス等の実物資料のみならず、ファッションの変遷をそれぞれの時代の社会的背景──政治、経済、戦争──とともに紹介しているので、服飾を学ぶ学生のみならず、歴史に関心を持つ人ならばとても興味深く見ることができると思う。とくに今年はファッション関連の展覧会がいつになく多く予定されており、本展はその予習・復習にも最適だ。
今回展示されているファッション関連資料で興味深いものは、19世紀後半から20世紀初頭にかけての百貨店や通信販売のカタログ、ファッション誌、そしてファッション誌に綴じ込まれた型紙。19世紀半ば以降、ファッションが産業化してゆく頃に百貨店が登場し、既製服の販売が行なわれるようになる。1870年代のルーヴル百貨店(仏)のカタログには、ドレスやコート、帽子やタイ、子供服のイラストが網羅されていた。ありとあらゆる生活用品が掲載されていたモンゴメリー・ウォードやシアーズ・ローバック(米)の通信販売カタログにも多くの種類の女性服、子供服が掲載されている。こうしたカタログからは、ハイファッションではない、人々が日常的に身につけていたファッションとその価格を知ることができる。また、服は買うものであるだけではなく、つくるものでもあった。19世紀後半には印刷技術の進歩によりモード誌は大型化、低価格化し、雑誌の購入層が下方に拡大。それにともなって実用的な記事が増え、掲載されたドレスの実物大型紙が綴じ込まれるようになった。型紙は用紙を節約するために、各所のパーツが実線、破線、点線に分けて重ねて1枚の大きな紙に印刷されており、購読者はこれを別の紙に写しとって使用する。テキスタイル産業の機械化による布の価格低下、ミシンの登場と割賦販売による家庭への浸透が、ファッションを人々に身近なものにしたであろう様相がこれらの展示資料から窺われる。
1階展示室は、「モードの帝王」と呼ばれたイヴ・サン=ローラン(1936-2008)の特集。クリスチャン・ディオール急逝(1957)の後、1958年に21歳でメゾンを継いだイヴのウールのドレス、1962年の独立から1980年代までの仕事を作品と資料とでたどる。ドレスのキャプションにはタグの写真が添えられている。1968年のイヴニング・ドレスのタグには「PAR SEIBU TOKYO」とある。西武百貨店の堤清二は、パリ在住の妹・堤邦子を通じて1960年代に百貨店業界のなかではいちはやく欧米ブランドを導入している。西武とサン=ローランはオートクチュールラインのライセンス契約を結んでいたそうだ。[新川徳彦]


『ハーパース・バザー』付録の型紙(1880年1月)


展示風景

2016/04/15(金)(SYNK)

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生誕140年 吉田博展

会期:2016/04/09~2016/05/22

千葉市美術館[千葉県]

吉田博(1876~1950)の名前は新版画の作品で知ったので、長らく彼を版画家と認識していた。それゆえ、最近になって東京国立博物館で吉田博の油画《精華》(1909年)を見てとても驚いた覚えがある。じっさいには、吉田博は水彩画からスタートして油彩をマスターし、版画を手がけたのは40代の終わりになってからのことである。版画を始めてからも並行して水彩、油彩の絵を描いている。後半生の約20年間に制作された250種ほどもの版画作品が多くの美術館に収蔵されていることが、版画家・吉田博の印象を強くしているのだろう。
版画家としての吉田博の知名度は川瀬巴水(1883~1957)に及ばないかも知れないが、巴水が「スティーブ・ジョブスに愛された版画家」ならば、博は「ダイアナ妃に愛された版画家」だ。故・ダイアナ妃はケンジントン宮殿の執務室に博の版画を飾っていた。第二次世界大戦終戦直後、マッカーサー総司令官夫人、リッジウェイ司令官夫人が博の家を訪ねたという話もある。心理学者フロイトの書斎にも博の版画が掛かっていたという。福富太郎コレクションの最初の一枚は、博の水彩画《朝霧》なのだそうだ。版画に限らず、吉田博の作品は海外での評価が高く、また知名度もある。
博を語るキャッチフレーズは他にもある。明治27年から32年まで、不同舎・小山正太郎に入門して鉛筆画と水彩画を修行したころの博は「絵の鬼」とあだ名されていた。博はまた「黒田清輝を殴った男」とも呼ばれた。明治40年3月、東京府勧業博覧会の審査を巡る騒動で、太平洋画会のリーダーであった博は白馬会系に偏った審査の不公平を訴え、褒状返還運動の首謀者となる(このとき川村清雄が西洋画審査員を辞している)。以前からの白馬会系に対する博の反発もあって、このときのエピソードが後に「黒田清輝を殴った」と噂されたのだ。ロビーで上映されている展覧会紹介映像のタイトルは「痛快 吉田博伝」。講談師によるナレーションで初渡米における冒険と成功が語られるほか、黒田とのエピソードにわざわざふたりの作品を並べて見せるところ、なかなかの仕掛けである。
博はまた「山と水の画家」である。30代前半から50代前半までの20年間、ほぼ毎夏、1ヶ月から3ヶ月にわたって山にこもり、絵を描いた。「日本アルプスは全部登った」と豪語するその登山は本格的で、昭和6年に出版された博の著書『高山の美を語る』は、山の案内書となるほどの内容であるという。博の水彩、油彩、版画には、その地を踏んだ者にしか見ることができないであろう山の美が描かれている。飛沫をあげながら流れる渓流の表現もすばらしい。
吉田博が版画を始めたのは大正9年のこと。渡邊版画店・渡邊庄三郎を版元に8点の作品を手がけた後、大正14年、49歳の時に自ら彫師と摺師を抱えて私家版版画の制作を始めた。モチーフは水彩画同様に国内外の山や風景が中心。「昭和の広重」と呼ばれた巴水とは異なり、洋画の表現、水彩画のタッチを版画に写すことに腐心した様子がうかがわれる。インドに取材した《フワテプールシクリ》(昭和6年)のアラベスク模様の格子窓に滲む光の表現は木版画のものと思えない美しさ。47度摺りというこの作品は、どのように摺ったのか見当もつかない、驚くべき作品だ。渡邊庄三郎の版画は欧米をマーケットとして、外国人のエキゾチシズムを刺激する作品づくりが見て取れるが、吉田博の私家版はそのような趣向をあまり感じさせない。とはいえ、彼が売れる作品を意識していたことは間違いないので、ならば何が海外の人々──とくに米国人に高く評価されたのか、興味は尽きない。
本展にはこれら代表作のほかに従軍画家としての作品、スケッチブック類、博が撮影した写真などの資料が出品されている。今年2016年は吉田博の生誕140年。本展は1996年に福岡市美術館他で開催された展覧会以来、20年ぶり、2度目の回顧展で、出品点数は前回展の2倍以上だという。郡山市美術館(2016/6/4~7/24)、久留米市美術館(2017/2/4~3/20)、上田市立美術館(2017/4/29~6/18)、東郷青児記念損保ジャパン日本興和美術館(2017/7/8~8/27)に巡回する。[新川徳彦]


展示風景 左:自宅応接間を飾った《バラ》大正9年 右:従軍期の写生帖、昭和13~15年)


2016/04/08(金)(SYNK)

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MADE IN OCCUPIED JAPAN 1947-1952 海を渡った陶磁器展

会期:2016/03/26~2016/04/17

世田谷文化生活情報センター:生活工房[東京都]

「MADE IN OCCUPIED JAPAN」とは、第二次世界大戦後、連合国軍占領下にあった日本にGHQが輸出商品に付すことを義務づけた製造国表記である。公式には1947(昭和22)年から1949(昭和24)年まで、一部にはサンフランシスコ講和条約が発効する1952(昭和27)年までの商品に用いられた。この表記は同時期の輸出品すべてに付されたので、陶磁器類、カメラ、ミシン、工具類、工芸品、玩具、布製品など、多様な商品が存在する。刻印が施された時期が限られるため、その希少価値から米国やカナダを中心に多くの蒐集家がいる。この展覧会では、オキュパイド・ジャパン商品のなかでも「ノベルティ」と呼ばれている陶磁器の置物約200点が展示されている。展示品は、米国オキュパイド・ジャパンクラブ代表・田中荘子氏のコレクション。田中氏は約1万点のオキュパイド・ジャパン商品を所有し、そのうち8,000点が陶磁器類だという。今回の出展品はよりぬきの200点ということになる。
 展示品は、人形、小型のフラワーポット、塩胡椒入れ、カップ&ソーサー、ままごと用のテーブルウェアなど。人形にはヨーロッパ陶磁のフィギュアや欧米の雑誌等に描かれたキャラクターを写したと思われるものが多い。これらは明らかにアメリカ人の好みだろうと思われるが、なかには日本的な「カワイイ」キャラクターが模られたものもある。こんなに可愛らしいキャラクターの塩胡椒入れが米国人の食卓を飾っていたと考えると奇妙な感じがする。また州の形を模ったフロリダ土産の小皿が「MADE IN OCCUPIED JAPAN」であるのも面白い。当時の観光客はこれらが日本製であることに気がついていたのだろうか。
 これらのノベルティは、米国側の視点では特定の時期につくられたコレクタブルだが、製造国日本から見ると戦前期から戦後1980年代前半ごろまで続いた輸出陶磁器の1ジャンルである。出展品には一部有田のものがあるが、大部分は名古屋・瀬戸周辺でつくられたものだ。現在その生産の大半はアジア諸国に移転し、最盛期には約300社あった瀬戸ノベルティの製造会社は、現在では30社に激減しているという。小規模な業者が多かったとは言え、愛知瀬戸では一大産業であったはずだが、輸出品であったこれらノベルティは国内ではあまり高い評価を受けてこなかった(このあたりは近年見直しが進んでいる明治の輸出工芸と似ている。モノが国内に少ないために評価が進まないのだ)。また、瀬戸ノベルティ文化保存研究会・中村儀朋氏によれば、ノベルティのなかでも「OCCUPIED JAPAN」の刻印は敗戦・占領下の製品というネガティブなイメージが重なり、瀬戸においても触れたがらない人が多いのだという。しかし、アメリカやカナダの蒐集家たちは戦勝国と敗戦国というような関係にはこだわらず、純粋にかわいい、楽しい陶磁器として蒐集しているという。もともとは戦後70年を迎えた昨夏の開催を検討していた展覧会とのこと。すなわち「MADE IN OCCUPIED JAPAN」は平和な時代を迎えることによって生まれた、日本と世界をつなぐ「平和と愛情のシンボル」(田中氏)なのだ。[新川徳彦]


会場風景

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2016/03/28(月)(SYNK)

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