artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

オルセー美術館特別協力 生誕170周年 エミール・ガレ

会期:2016/06/29~2016/08/28

サントリー美術館[東京都]

今年初めに東京都庭園美術館と宇都宮美術館を巡回するエミール・ガレの展覧会が開催されていたばかり。国内には北澤美術館など、ガレの作品を常設展示している美術館も多く、ガレの展覧会は頻繁に開催されている印象がある。サントリー美術館もガレの優品をコレクションする美術館のひとつだが、意外にも同館でのガレ展は8年ぶりだという。本展にはオルセー美術館が所蔵するガレのデッサンなども出品されており、充実した内容。余談だが、出品作品のひとつ、花器「アイリス」(1900年頃)は、ダルビッシュ有氏の父ダルビッシュセファット・ファルサ氏のコレクション。サントリーミュージアム天保山でガレ作品に出会って以来始めたコレクションのひとつで、今回初公開なのだそうだ。
最初に展示されているのはガレ最晩年の作品・脚付杯「蜻蛉」(1903-04)。大理石を思わせるマーブルガラスの杯に、ガレが好み、繰り返しモチーフに用いた蜻蛉の浮き彫りをあしらった器は、白血病による死を予感したガレが近しい友人・親戚に送ったものだという。展覧会ではこの作品をガレの到達点と位置づけて、ガレの仕事が「究極」に至った道程をその生涯における関心、関わりに従って「祖国」「異国」「植物学」「生物学」「文学」をテーマに全5章で構成している。このうち植物学・生物学という視点は、ガレに限らずアール・ヌーヴォーの作家たちに共通するテーマであり、これまでにもさまざまな展覧会で見ているが、祖国・異国・文学との関わりは、ガレの作品をかたちづくった背景として、とても興味深い。とくに第2章「ガレと異国」には、ガレが日本美術・中国美術から影響されてデザインした異国趣味の作品が並ぶほか、ガレの旧蔵品である中国の鼻煙壺、日本の陶磁器──宮川香山の作品もある──などが出品されており、東西の美術工芸品が並ぶことでその影響関係と様式の同時代性を見ることができる。北澤美術館初代館長・北澤利男氏は「ガレのガラスと初めて出会った時、これは日本画ではないかという強い印象を受け」たと書いている。日本人のガレ好きの背景には、このような東洋美術・日本美術との親和性があるのだろう。会場最後の作品はランプ「ひとよ茸」(1902年頃)。一晩でカサが開き、軸を残して溶けてしまうというヒトヨタケをモチーフにした巨大なランプは、器の表面に施される比較的平面的な装飾から、装飾と構造、造形の一体化へと発展していったガレ作品の「究極」のひとつ。ここでガレの物語は展示の最初に示された到達点とつながる。
3階吹き抜けでは、ガレのサインのヴァリエーションが紹介されている。ガレは年代別ではなく、作品のイメージに合わせてサインのスタイルを使い分けていたという。器と、器のサイン部分を接写したポジフィルムのベタ焼きを並べた展示構成は秀逸。オルセー美術館所蔵のデザイン画とサントリー美術館所蔵の作品写真を半分ずつ構成したチラシのデザインも印象的だ。[新川徳彦]


展示風景

★──『アール・ヌーヴォーのガラス 北澤美術館コレクション』(光村推古書院、1994)(花井久穂「日本のガレ受容をめぐる三つの種子──『日本人のガレ好き』はいつから始まったのか?」、『ガラスの植物学者 エミール・ガレ展』茨城県陶芸美術館、149頁)。

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2016/06/28(火)(SYNK)

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坂本素行展

会期:2016/06/20~2016/07/02

ギャラリー上田[東京都]

象嵌技法で緻密かつ色彩豊かな装飾を施したユニークな器を作る坂本素行。今回の展覧会では、初めて手がけたという陶板画が器とともに並ぶ。基本的な技法は器も陶板も変わらない。ベースとなる陶土の上に、異なる色の陶土を重ね、ナイフで模様を切り出しさらに別の色の陶土で埋めてゆく。違いとしては器の場合はボディをろくろで挽くのに対して、陶板は綿棒で板を作るぐらいか(手近な台所道具を活用しているそうだ)。ただ、印象は大きく異なる。用のある器と絵画的な陶板との違いというだけではない。手の跡、釉薬や焼成による斑など、自然による干渉の痕跡を徹底的に消し去っている器の造形に対して、陶板の輪郭は緩やかでしばしば波打っている。均質なパターンで表面が埋め尽くされている器の文様に対して、陶板に描かれるラインは自由。モチーフは主にアルルカン。その理由は、陰影を付けなくてもコスチューム模様の形の変化で身体の立体感を出せるからだそうだ。画面の構成はフランスの古いポスター、絵看板を思わせる。色面と色面が重なり合い透過しているように見える部分があるが、もちろんそれぞれに異なる色の陶土を象嵌して表現している。自由に見えるけれども、器の作品と同様に極めて精緻でデザイン的な仕事なのだ。[新川徳彦]


会場風景

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2016/06/28(火)(SYNK)

杉本博司 趣味と芸術 ─味占郷展

会期:2016/04/16~2016/06/19

細見美術館[京都府]

『婦人画報』では「謎の割烹 味占郷」と題した連載が2013年9月より始まった。著者である「謎の割烹店亭主」が、著名人をゲストにむかえ、その人にあう料理とその席にあう古美術のコレクションでもてなす、という趣向。その中から、本展では3会場に25の床のしつらえが展示された。本展は、昨年、千葉市美術館で開催された展覧会の一部である。
魯山人か湯木貞一か、“趣味と芸術が重なるもてなしの場”という極まった想定からはそんな名前が連想される。しかし、ゲストも料理も存在しない展覧会では、写真家、古美術商、現代美術家という杉本博司(1948 -)の特異な経歴が浮き彫りにされる。本展で示されているのは杉本の趣味人としての見立てといってもよかろうが、それは古美術商としての見識であり、美術家としての美意識でもあるように思われる。例えば《つわものどもが夢のあと》では、軸装された平安時代の装飾法華経の前に南北朝時代の阿古陀形兜がひっくり返しておかれた。兜に生えた夏草は須田悦弘(1969 -)の彫刻だ。信じる者は救われると説く法華経と、戦乱の末の死と荒廃、さらにその上に栄華の儚さを偲ぶ句をのせる。それぞれの要素が精巧に組み上げられて、観る人のなかにはひとつのイメージが描きだされる。《時代という嵐》では、栗林中将司令官の洞窟で発見されたという硫黄島地図保管用鞄と硫黄島地図が展示された。意味ありげに一部が黒く塗り潰された地図は軸装されており、そこに用いられた菊桐紋の織模様が時代感を表現する。
宴席に招かれた客とまではいかないが、展示空間としては比較的小規模な本館ではじっくりと静かにその場を味わうことができる。[平光睦子]

2016/06/19(日)(SYNK)

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世界の刺繍

会期:2016/06/14~2016/09/08

文化学園服飾博物館[東京都]

大がかりな道具や設備を必要とする織りや染めと異なり、針と糸があれば衣服を美しく自由な文様で装飾できる刺繍は、古くから世界各地で行なわれてきた。どこででも誰にでもできるために、ひとくちに「刺繍」といっても、地域や民族、刺繍の担い手によって技法にはヴァリエーションがあり、施される意匠もさまざまだ。本展では、文化学園服飾博物館のコレクションから世界約35ヶ国の刺繍を地域別に紹介し、その多様性を見せてくれている。
第1室は、日本を除く世界の刺繍。展示室の扉を開けると。鮮やかな色彩で刺繍を施された衣裳が目に飛び込んでくる。ルーマニア、チェコ、ポーランド、ウクライナなど、中・東欧の、おもに祭礼や特別な機会に着る服だ。刺繍は女性の手仕事という印象があったが、トランシルヴァニア地方の羊皮に羊毛糸で刺繍を施したベストは、技術と力が必要となるために、男性の専門職人の仕事なのだそうだ。フランスの典礼服、宮廷服、オートクチュールのドレスに施された刺繍もまた職人の仕事だ。興味深い品は、18世紀末イギリスの「サンプラー」。これは女性たちの教養・教育の一つとしての基本的な刺繍の技術を習得するためにつくられたもので、絹糸によるさまざまな繍技が1枚の亜麻布に縫い込まれている。展示はヨーロッパからアフリカ、アジアの刺繍へと続く。苗族など中国少数民族の凝った刺繍はこれまでにも見たことがあるが、ベトナム、タイ、フィリピンなど、東南アジア圏でも手の込んだ刺繍が行なわれていることは今回の展示で初めて知った。第2室は、日本の刺繍。日本の小袖、打ち掛けに施される刺繍は文様というよりも絵画的で、しばしば染めと組み合わされるところが 第1室で見た他の地域の刺繍には見られない点。平面的な染めと立体的な刺繍とを組み合わせることで、表現に奥行きを持たせたり、輪郭を際立たせているのだ。他方で日本には刺し子のように布の補強をしつつ同時に装飾も行なう刺繍技法もある。ここには山本耀司のデザインによる刺し子をモチーフにしたウェディングドレスも展示されている。
本展では主に刺繍の文様や技術の地域差に焦点を当てているが、キャプションを読んでいくと、多様性の源泉がそれだけではないことがわかる。たとえば、ほぼ純粋に装飾的目的で施される刺繍もあれば、実用的・機能的な目的で施されるものがあり、それは文様、技法の違いになって現われる。職人による高度な技術、上流・中流階級の女性による手慰み、労働者の実用的な目的から期せずして生まれる文様など、担い手による違いもある。同時にそれらの相違は刺繍が施された服を着用する人々の階層差でもある。時代の変化、他の地域への伝播の過程で意味が変化するものもある。たとえば、以前の展覧会でも示されていたように、ビーズやメダル、鏡などを縫い込んだ刺繍には魔除けや宗教的意味がある一方で、同様の刺繍でも本来の意味が薄れて装飾化していたものもある。地域が異なれば気候が異なり、それは刺繍の粗密に影響する。一般に寒冷な地方の刺繍は密度が高いという。刺繍に用いられる糸の違い、変化にも歴史がある。多様性を形成するそれぞれの事情もまた興味深い展示だ。[新川徳彦]


第1室展示風景


第2室展示風景

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魔除け──身にまとう祈るこころ:artscapeレビュー

2016/06/17(金)(SYNK)

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西洋更紗 トワル・ド・ジュイ

会期:2016/06/14~2016/07/31

Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]

「トワル・ド・ジュイ」とは、ジュイの布の意。フランス・ヴェルサイユ近郊の村、ジュイ=アン=ジョザスで作られた銅版プリントの綿布(更紗)のことで、人物を配した田園風景のモチーフで知られている。ドイツ出身のプリント技師、クリストフ=フィリップ・オーベルカンプ(1738 - 1815)がこの地に工場を設立したのは1760年。1843年に工場が閉鎖された後も現在にいたるまでオーベルカンプの工場で生み出された意匠のコピーや模倣品はつくられ続けている。この展覧会では、トワル・ド・ジュイ美術館が所蔵するオリジナルの西洋更紗の紹介を中心に、その歴史を辿る。
更紗とは、手描きもしくは捺染によって図柄を染めた綿布。17世紀後半にヨーロッパ各国の東インド会社がインド更紗を輸入するようになると、薄手、軽量で、鮮やかな色彩で染められ、洗濯も容易な更紗はヨーロッパでブームを起こした。しかし、更紗の輸入はヨーロッパの伝統的な毛織物産業にとって脅威であり、また貨幣の海外流出を意味したため、フランスでは1686年にインド更紗の製造・輸入・着用のいずれもが禁止された。ただ、じっさいには密輸が横行して実効性がなかったばかりか、禁止令は国内のプリント産業に大きな打撃を与えた。1759年に禁止令が解除されたとき、フランス国内にはすでにプリントの技術を持った者がいなくなってしまっていたために、スイスの工房から招かれた人物がオーベルカンプだった。彼は一時パリの工場で働いた後、ヴェルサイユ近郊のジュイ=アン=ジョザスにプリント工場を設立した。
一般的にトワル・ド・ジュイというと銅版プリントによる更紗を指すようだが、オーベルカンプが最初に行なったのは木版による多色プリント。彼は技術者としてばかりではなくマーケティングにも優れた人物で、工場では輸入されたインド更紗を模倣した豪奢な更紗を製造する一方で、色数が少ないプリントも製造し、意匠の点でも価格の点でも幅広い客層の好みを満足させる多様な布地を取り揃えていた。暗い背景に生い茂る草花をモチーフにした《グッド・ハーブス》と呼ばれる一連のプリントはとても良く売れ(この「グッド」には良く売れるデザインという意味も含まれていたそうだ)、多くの模倣品がつくられた。更紗の用途としては、大柄のものは壁掛けなどの室内装飾に、小柄のものは服に用いられた。マリー・アントワネットのワードローブには、トワル・ド・ジュイで仕立てられたドレスが含まれていたそうで、本展には、彼女のドレスの断片をブックカバーに用いたとされる本が出品されている。
オーベルカンプの工場は、1770年にはイギリスから銅版プリントの技術を、1790年代末には銅版ローラーによるプリント技術を導入した。銅版のサイズは約1メートル四方で木版よりもずっと大きく、プリントの大量生産に向いていた。また、木版よりもはるかに細かいデザインが可能になった。ただし木版と違ってプリントは単色。それゆえ、デザインによっては手作業で彩色されたり、木版が併用されたりもした。木版単独のプリントもつくられ続けた。銅版プリントの成功に大きな役割を果たし、「トワル・ド・ジュイ」の様式をつくりあげたのは画家ジャン=バティスト・ユエ(1745 - 1811)。オーベルカンプ自身は技術者・経営者であり、デザイナーではなかったが、経営の成功にとってデザインが重要であることをよく分かっていた。常にデザインに気を配り、1760年から1843年までに、3万点以上のモチーフが製造されたという。
展示はヨーロッパにおける田園モチーフの源泉である中世のタペストリーから始まり、インド更紗への熱狂の様相を経て、オーベルカンプの仕事に移る。またその後の世代への影響として、ウィリアム・モリスのプリント綿布や、ビアンキーニ=フェリエ社のためにラウル・デュフィがデザインしたテキスタイルが出品されている。技術的にもデザイン的にもインド更紗の模倣から始まったジュイの布が、ヨーロッパの銅版画の技術を応用し、中世からの伝統的なモチーフや古典主義の意匠を取り入れて変容してゆく歴史的過程を見ることができてとても興味深い。ジュイの布以外は、女子美術大学の旧カネボウコレクション、五島美術館や染司よしおか、文化学園服飾博物館、島根県立石見美術館のコレクションなどによって展示が構成されており、日本のミュージアムにおける西洋テキスタイルコレクションの厚みを感じる。[新川徳彦]

2016/06/14(火)(SYNK)

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