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SYNKのレビュー/プレビュー

PARIS オートクチュール—世界に一つだけの服

会期:2016/03/04~2016/05/22

三菱一号館美術館[東京都]

パリ・オートクチュールの歴史、デザイナーと作品、スタイルの変遷、そしてその技術の粋を見せる展覧会。ガリエラ宮パリ市立モード美術館館長オリヴィエ・サイヤールの監修により2013年にパリ市庁舎で開催された展覧会を、三菱一号館美術館の展示空間に再構成したという。
 オートクチュール(Haute Couture)とは、たんなる高級婦人仕立服ではなく、パリ・クチュール組合の規定に則って活動するメゾンが名乗ることができる制度だ。その制度の創始者はシャルル・フレデリック・ウォルト(Charles Frederick Worth, 1825-95)といわれる。イギリス出身のウォルトはロンドンの織物商で見習いをしたのち、1847年にパリに渡りドレスをつくりはじめ、1858年に独立。1860年にはナポレオン3世妃ウージェニーのお抱えデザイナーとなった。ウォルトの革新は、顧客の注文に応じてデザインするのではなく、あらかじめ自身が考案したデザインの服を制作し顧客に提示したことにある。そのために、年に2回のコレクションを開催しつねに新製品が市場に流れる仕組みを考案した。また、コレクションの際に作品を生身のモデルに着せる演出もウォルトがはじめたという。すなわち、クチュリエは注文に応じて服をつくる仕立屋から、新しいデザインを創造するデザイナー、アーティストになり、その服を着る人と同等、あるいはそれ以上のスターになっていったのである。デザイナーのスター化を確固としたものにした人物は、ポール・ポワレ(Paul Poiret, 1879-1944)である。女性の服からコルセットを取り去ったデザイナーとして知られるポワレは、イラストレーターのポール・イリーブや画家のラウル・デュフィとコラボレーションしたり、バッグなどの小物類、香水や化粧品などの販売もはじめた点で、現代ファッションブランドの起源といってもよい。デザイナーがスターになった結果、「服飾史においても、ポワレ以降、シルエットの変遷よりもデザイナーの業績や影響力に力点を置いた記述が中心となる」という指摘は興味深い★1
 表面的には見えづらいが、スターはシステムによって支えられている。オートクチュールは芸術であると同時にビジネスである。デザイン、裁断、縫製等々は分業化されている。1871年にウォルトのメゾンは1,200名のスタッフを雇っていた。19世紀末のフランス服飾産業の売上高1億5000万フランのうち、ウォルトと同じくラ・ペ通りにメゾンを構えていた6軒の店だけでその5分の1にあたる3,000万フランを売り上げていたという★2。そして現代に至るまで、そうしたビジネスを背後で支えているのは、優れた職人たちの手仕事だ。本展は19世紀後半から現代までのオートクチュールのデザイナーと作品の紹介であると同時に、職人たちによってドレスや小物に施された繊細な装飾にも注目すべき展覧会である。顔のないマネキン、暗い室内に浮かび上がるドレスの数々は、これらがたんなる服ではなく、第一級の工芸品でもあることを教えてくれる。プレタポルテの台頭とともにオートクチュールのメゾンの数は減少を続けているが、その制度は高度な服飾技術を継承するシステムでもあり続けていることを見ることができる。[新川徳彦]


展示風景

★1──石関亮「オートクチュール:その制度とクリエーションとビジネス」(本展図録、138頁)。
★2──塚田朋子「20世紀初頭におけるポール・ポワレとシャネルというブランドのマーケティングに関する一考察」(『経営論集(東洋大学)』第65号、2005、54頁)。

関連レビュー

ファッション史の愉しみ──石山彰ブック・コレクションより:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2016/03/03(木)(SYNK)

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マルモッタン・モネ美術館所蔵:モネ展「印象、日の出」から「睡蓮」まで

会期:2016/03/01~2016/05/08

京都市美術館[京都府]

クロード・モネの《印象、日の出》から《睡蓮》まで、彼の1870年代から1920年代にわたる画業を示す作品群を紹介する展覧会。家族の肖像画、若き日の諷刺画、モネ自身が収集した作品(ドラクロワ、ブーダン、印象派の作家たち等)等を含む、約90点が展示されている。モネが白内障を患ったのち、晩年の作品が多く出展されているのも本展の特徴。しかし見どころはなんといっても特別出品の《印象、日の出》(1872年)、印象派命名の由来となった作品だ。画集等でいままで何度も見てきた作品だが、印刷物媒体で複製化される同作品と異なる。それこそその「印象」の違いにあっと驚かされる。実物の色・筆触・構図といい、扱われるモチーフの近代性が表出するさまといい、まるで新しく作品に出会ったような感慨を覚える。薄暗い会場に浮かび上がる、色彩が精妙でクリアな同作品を鑑賞していると、液晶絵画という言葉がしきりに思い浮かんだ。なんとも新鮮な視覚体験であった。[竹内有子]

2016/03/01(火)(SYNK)

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超絶技巧──世界を驚かせた焼物「吉兆庵美術館蒐集 真葛香山展」

会期:2016/02/17~2016/02/28

日本橋三越本店新館7階[東京都]

サントリー美術館で始まった宮川香山(真葛香山)展は初代の作品に焦点を絞ったものだが、こちらは初代から三代までの仕事を紹介する展覧会。「超絶技巧」というキャッチコピーとともにチラシにあしらわれた蟹はややミスリーディングで、その言葉と画像から期待される初期の高浮彫はない。出品されている初代の作は釉下彩磁器が中心で、他に大観が絵付けした茶碗など。チラシにある高浮彫の蟹は初期の作品ではなく、東博が所蔵する《褐釉高浮彫蟹花瓶》(明治14年/1881年)を初代香山自身が大正4年(1915年)に再制作したものの1体で、同様のものがサントリー美術館の田邊コレクションにも出ている。香山の仕事の特徴は初代の初期においてはその奇想的な造形にあり、その後は美しい釉下彩磁器を実現した釉薬と焼成の技術にあり、これらを「超絶技巧」と称するのは安易に過ぎよう。また解説パネルは概ね初代の業績について触れているにもかかわらず、その下の展示品が二代三代が混在していることや、個々の作品の制作年代が示されていないことは残念だ。とはいえ、吉兆庵コレクションの作品自体は良いものである。二代三代の花瓶に花を生ける展示は美術館博物館では考えられない大胆さ。「真葛窯展」というタイトルにして、初代から昭和20年5月29日の横浜空襲で三代宮川香山と職人たちが亡くなり真葛窯が途絶えるまでの歴史を追った構成ならばずっと良い展示であっただろうと思う。[新川徳彦]

2016/02/25(木)(SYNK)

ガレの庭──花々と声なきものたちの言葉

会期:2016/01/16~2016/04/10

東京都庭園美術館[東京都]

19世紀末のヨーロッパを彩った装飾様式であるアール・ヌーボーの立役者の一人、エミール・ガレ(1846-1904)は、植物学に情熱を傾けた人物でもある。自邸に設けた広大な庭に3,000種におよぶ植物を育て、植物学と園芸に関する論文を40本以上も発表し、1877年に創設されたナンシー中央園芸協会の創設者のひとりで、事務局長を務めたのちに副会長に就任し、科学者たちとも交流を持っていた。本展はそうしたガレの創造の源泉としての庭、すなわちガレが作品のモチーフとした植物や花、そして虫たちに焦点を当てた企画。北澤美術館のコレクションを中心に、ガラス作品ばかりではなく陶器や家具もあり、またオルセー美術館からは作品のデザイン画が出品されている。アール・ヌーボーの美術というと流れるような曲線を用いた様式化された図案をイメージするが、こと植物モチーフを見るかぎり、ガレの作品は意外なほどその様態を忠実に描き出している。
 2014年11月のリニューアル・オープン以来、東京都庭園美術館本館の展示構成には空間インスタレーションの趣を強く感じる。本展もまた外光あふれる展示室に、邸宅の所有者がコレクションを飾っているかのようにガラス作品が配されている。本館入り口で渡される二つ折りの紙は1904年に白血病で亡くなったエミール・ガレの未亡人アンリエットが来館者に宛てたメッセージ(内容はフィクション)。つまり本館の建物をガレの自邸、窓の外に広がる庭園を「ガレの庭」に見立てているのだ。
 とはいうものの、本館の建物は1933年に建てられたアール・デコ様式の館である。ここがガレが亡くなって約30年後の空間であることを考えると、この建物の所有者だった朝香宮夫妻の父母あるいは祖父母の時代のコレクションが本館展示室に並んでいると見立てることもできよう。また、アール・デコの空間にアール・ヌーボーの作品が展示されたことで、両者の様式の特徴、相違がよくわかる点はこの展示空間の効用だと思う。
 なお今夏にはサントリー美術館でもガレの展覧会が開催される(生誕170周年──エミール・ガレ、2016/6/29~8/28)。日本人は何故にかくもガレの作品を好むのか。それまでに考えておきたい。[新川徳彦]

2016/02/25(木)(SYNK)

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没後100年 宮川香山

会期:2016/02/24~2016/04/17

サントリー美術館[東京都]

近年再評価が進む明治期の輸出工芸のなかでもその特異な造形が異彩を放つ陶芸家・宮川香山(初代、1842-1916)の作品と史料約150点を紹介する展覧会。作品の大部分は宮川香山やその周辺の陶工の作品を50年にわたって集めてきた田邊哲人氏のコレクションで、4階会場はおもに高浮彫と呼ばれる装飾陶器。そして3階会場は香山が後年取り組んだ釉下彩の磁器が並ぶ。やはり目を驚かせるのは高浮彫の壺の数々。ボディとなる器だけを見れば輸出向けの薩摩焼などとさほど変わらないのだが、その表面に絡みつき、あるいは胎土をえぐるような立体的な装飾には驚くばかり。浅浮彫の陶磁なら他にいくらでもある。しかし香炉の上に立体的な猫を乗せるとか、壺の側面をえぐって洞窟に見立てた中に熊の親子を彫り込むとか、騙し絵のように見える半立体の南天と鶉の組み合わせとか、壺から這い出ようとしているかのような2匹の蟹とか、この想像力はいったいどこから涌いてきたのだろうか。香山が高浮彫をはじめた理由は、当初薩摩風の作品を手がけていたけれどもこれは装飾に金を大量に消費するために貴重な金が海外に流出して国家の損害となることを憂い、それとは異なる装飾技法としてこれを生み出したからとされる。そうしたきっかけや彼の志は理解できなくはないが、それがこのような造形となって現われたことについてはもう少し具体的に、たとえば国内外の需要や他の工芸との関わりのなかで説明できないものだろうか。もとより香山が市場を志向していたことは間違いない。京都で代々陶業を営んでいた家の出身者が、陶磁器産地ではない横浜に移り住んだのは、ここが海外への輸出港だったからだろう。本展監修者の服部文孝・瀬戸市美術館館長は、「輸出品々々々と言って特別に外国向の品を作る様に思はれるが私等にはソンナ区別はない、私は何処迄も日本固有なものを保存し度いが一念である」という香山の言葉を引いて彼が「『日本固有の美の保存』を追求し続けていた」とするが(本展図録、8頁)、はたして額面通りに受けとってよいものか。日本固有の美というならば、なぜ伝統のある京都から横浜に出てきたのか。高浮彫の起源は日本の陶磁のどこに求められるのか。なぜ途中で技術が異なる釉下彩磁器へと転換したのか。と、疑問は尽きない。そもそも香山の作品は他の明治工芸同様日本人のためにつくられたものではなく、ほとんどが輸出されたために、コレクターたちが海外から里帰りさせはじめた近年になるまで作品もその名も忘られていたのではなかったか。ともあれ、田邊コレクションの一部はこれまでに神奈川県立歴史博物館でその一部が展示されていたものの、これだけの規模の展覧会は他の方のコレクションも含めて初めてだと思う。研究はこれから進んでゆくに違いない。
 なお、コレクターの田邊哲人氏は「スポーツチャンバラ」の創始者で日本スポーツチャンバラ協会・世界スポーツチャンバラ協会の会長である。世界中にお弟子さんがいるそうで、そのネットワークは貴重な作品の蒐集にも役立っているそうだ。
 本展は大阪市立東洋陶磁美術館(2016/4/29~7/31)、瀬戸市美術館(2016/10/1~11/27)に巡回する。[新川徳彦]

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世界に挑んだ明治の美──宮川香山とアール・ヌーヴォー:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2016/02/23(火)(SYNK)

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