artscapeレビュー
建築に関するレビュー/プレビュー
アルヴァ・アアルト──もうひとつの自然
会期:2018/09/15~2018/11/25
神奈川県立近代美術館 葉山[神奈川県]
フィンランドの建築家、アルヴァ・アアルトは、自らデザインした家具を工業生産しようと考えなければ、ここまで世界的に有名な人物にならなかったのではないか。本展を観て、あらためてそう思った。アアルトは教会の改修や設計で建築家デビューをする。その後は知人の邸宅や公共施設の設計などに精力的に携わるが、もし活動分野が建築のみにとどまっていたとしたら、一介の建築家で終わっていたかもしれない。建築とあわせて、その空間に設える家具まで設計する建築家はほかにもたくさんいる。しかしアアルトが目をつけたのは、家具の量産化と国際的な販路である。1935年、彼は37歳のときに、妻のアイノ・アアルトや友人たち4人でインテリアブランド「アルテック(Artek)」を設立した。アートとテクノロジーを掛け合わせた造語だというこの社名にこそ、時代の潮流だったモダニズムの精神が表われていた。ヨーロッパを手始めに、アルテックの製品が世界中に広まるのにともなって、アアルトの名も知られていったのである。
例えば、アアルトがデザインした家具の代表作に《スツール 60》がある。これは正円の座面と3本脚で構成された、これ以上、そぎ落とす要素がないくらいシンプルなスツールである。そのため1933年にデザインされてから80年以上が経ついまも、あらゆる家具におけるスツールの代名詞となっている。しかもそのシンプルな形状は、堅牢さや軽さを追求するため、実は手の込んだ構造で成り立っていることが工場の映像を見るとわかる。また、建築と家具両方においてアアルトを一躍有名にしたのが、パイミオ市の結核療養所「パイミオのサナトリウム」だ。この空間に設えられた椅子《アームチェア 41 パイミオ》は、積層合板を使った有機的なラインが特徴で、眺めるだけでも美しいが、実際に座ってみるとその快適さを実感できる。背もたれや肘掛けなど、人間の身体に触れる部分すべてが曲線で構成されているため、人間に非常に優しい椅子なのだ。ちなみに、本展ではこのサナトリウムの病室が原寸大で再現されており、それはそれで見応えがあった。展示の最後には特設コーナー「アアルト ルーム」が設置されており、アアルトの家具に自由に座ったり触れたりできるようになっていた。人間の身体にもっとも近い家具が多くの人々に受け入れられたことが、アアルトが世界中で愛された要因だろう。特設コーナーでの来館者の幸せで満足そうな顔が、それを物語っていた。
公式ページ:http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2018_aalto
2018/09/24(杉江あこ)
磯崎新《京都コンサートホール》
[京都府]
磯崎新が設計した《京都コンサートホール》(1995)を、元所員の京谷友也の案内で見学した。これまで機会に恵まれず、きちんとホールの内部やバックヤードを見学できたのは初めてだ。まだ自治体にお金がぎりぎり残っていた時代にしっかりとつくられた公共建築である。やはり、そうした意味でも建築は時代の産物である。したがって、オープンして20年以上が経つが、材料もあまり劣化していない。コンペでは、磯崎のほか、槇文彦、高松伸、石井和紘らのポストモダンを賑わせた建築家が参加し、1991年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展の日本館でも川崎清がコミッショナーとなって、各案が展示された注目のプロジェクトだった。当時は磯崎が『GA JAPAN』においてデミウルゴス論とビルディングタイプに関する連載を開始した時期に近いが、なるほど彼の案はホールの形式を深く考察しながら、新しい空間を提案することに成功している。
限られたヴォリュームの制限のなかで、大ホールと小ホールをいかに構成するかが課題のコンペだったが、磯崎の提案はユニークである。最初に出迎えるエントランスホールである、螺旋のスロープに囲まれた吹き抜けの上部に、未来的な照明がつくUFOのような小ホールをのせるという解決法だった。京谷によれば、柱が囲む多角形のエントランスホールは、磯崎が好むヴィラ・アドリアーナの「海の劇場」がモチーフではないかという。また敷地に対して、少し角度を振った大ホールは、音響性能にすぐれたいわゆるシューボックスの形式を基本としながらも、ステージを囲むようなワインヤード式の座席を上部に加え、空間に彩りを添えている。また中心軸からずらしたパイプオルガンや空間のフレームも、空間を和らげており、興味深い。
2018/09/18(火)(五十嵐太郎)
玉置順《トウフ》、FOBA《ORGAN I 》《ORGAN II 》
[京都府]
京都へのゼミ合宿の機会を利用し、1990年代半ばに登場した2つの建築を見学した。玉置順による画期的な住宅の《トウフ》と、FOBAの拠点である宇治の事務所《ORGAN I 》である。院生だった筆者が現代建築の批評を執筆するようになった時期の話題作だが、いずれも20年ほど前に現地を訪れたものの、なんのアポイントメントもとっていなかったので、外観を見学したのみで帰ったために、内部に入ったのは今回が初めてである。
《トウフ》は名称が示すように、矩形の白いヴォリュームが印象的な住宅であり、公園に面した絶好の立地だ。ただし、今風の開いた建築ではなく、公園があまりに目の前なので、むしろ絞られた開口のみが公園と対峙する。特徴は、外部の白いヴォリュームと内部をえぐったかのような空間のあいだに大きな懐をもち、そこに異なる色味をもったいくつかのサブの空間を設けていること。もともと高齢者向けの住宅として設計されており、確かに中心のワンルームを核にしたバリアフリーの建築でもある。また天井が高いことで、使い倒されても、変わらない空間の質を維持していた。当初から居住者は変わったが、壁の細い穴にぴったり入るマチスの画集も設計の一部らしく、これが残っていたことは興味深い。
FOBAの事務所《ORGAN I 》は、真横に同じデザイン・ボキャブラリーをもつ大きなビル《ORGAN Ⅱ 》が建ち、これも彼らの設計によるものだ。いずれもトラックなどの外装に使われる材料を転用したメタリックな表皮に包まれたチューブがランダムに成長し、あちこちで切断したような造形である。FOBAの事務所は3階建てだが、基本的に全体のヴォリュームを持ち上げ、周辺の環境や形式を意識しながら、開口のある切断面が設けられていた。もっとも、竣工後に周辺にマンションが増えたことで、眺めが変わってしまったところもなくはない。室内には大量の書籍が高く積まれており、事務所の歴史を感じさせる。見学の途中で梅林克が合流し、台湾のプロジェクトや最近の木造住宅シリーズなどの熱いトークに聞き入った。
2018/09/17(月)(五十嵐太郎)
《京都大学吉田寮》
[京都府]
存続をめぐって揺れ動いている京都大学の吉田寮の見学会に参加した。じつは筆者にとって初の訪問なのだが、東京大学の学部生のとき、2年間、駒場寮に住んでいた経験があるので、むしろ懐かしさを覚えるような感覚だった。もっとも、駒場寮は関東大震災後につくられた頑丈なRC造の3階建て、両側にS部屋とB部屋(おそらくSTUDYとBEDの略であり、かつては対で使われていた)が挟む中廊下であるのに対し、吉田寮はさらに古い築105年の木造2階建て、居室が南面する片廊下である。それゆえ、居住者が比較的簡単に増改築できるので、あちこちに独自の変形が起きていた。一方で駒場寮は、そうした増築は難しい代わりに、約24畳の各部屋の内部を、居住者が決めたルールによって、オープンなまま使ったり、ベニアで間仕切りを入れるなどしてカスタマイズしていた。なお、吉田寮は台風で中庭の大木が倒れたことで、屋根が部分的に壊れ、痛ましい姿だった。
筆者が駒場寮に暮らしていた1980年代半ばは、もう当初の定員を大幅に下回り、各部屋に2〜3人がいる状況で、部屋ごとに直接交渉してどこに住むかを決定していた。見学会での説明によれば、吉田寮はまず二段ベットがある大部屋に入り、そこでしばらく過ごしてから(適性がなければ、この段階で寮を出ていく)、どの部屋に暮らすかを決めるという。現在は留学生も多く、女性も住んでいるらしい。おそらく運用の方法は時代によって変化しているが、大学のキャンパス内に存在する有名な自治寮のシステムを詳細に比較すると興味深いだろう。駒場寮は大学によって廃寮扱いを受けてからも、長く存続し、ある時期からは電気の供給も絶たれた。そのときはまわりの建物からケーブルで電気を引っ張り、建物が解体してからも横にテント村を形成し、約半年は粘っていたが、約15年前に完全に撤退した。今後、吉田寮も大学から厳しい処置を受けると思われるが、駒場寮のときはあまり広がらなかった、まわりの支援の輪が拡大するかが存続の鍵になるだろう。
2018/09/16(日)(五十嵐太郎)
東アジア文化都市2018金沢「変容する家」
会期:2018/09/15~2018/11/14
金沢市内広坂エリア+寺町・野町・泉エリア[石川県]
〈9月14日〉
日中韓の3カ国が毎年それぞれの都市で文化芸術イベントを実施する「東アジア文化都市」。今年の日本は金沢が舞台で、その核となるのが市内の公共スペースや空き店舗を使った野外展「変容する家」だ。日中韓から22組のアーティストを招き、3つのエリアで作品を制作・公開している。プレスツアーは金沢21世紀美術館から出発。まず美術館周辺(広坂エリア)の川俣正、ミヤケマイ、チウ・ジージエを見る。
久しぶりに空きビル丸ごと1棟に材木や建具を絡ませた川俣のインスタレーションが圧巻だ。5階建てビルを縦に貫くように、市内から集めた障子や襖、ドアなどを逆円錐形に組み上げ、屋上に材木で巨大な鳥の巣のようなかたちをつくっている。見る者は階段を上りながら(エレベーターは止められている)、各階で異なる素材によるインスタレーションに驚き、円形劇場のような屋上でホッと一息つく仕掛け。上下に移動しつつ作品を鑑賞するというのも珍しい体験だ。川俣は80年代から廃屋での作品制作を続けてきただけに、手練手管のインスタレーションは見事というほかない。ちなみに川俣は当初、金沢城跡に天守閣みたいなものをつくりたいと提案したそうだが、さすがに許可が下りなかったという。
美術館の南西、犀川を渡った寺町・野町・泉エリアの町家で、宮永愛子の《そらみみみそら》を見る、いや聴く。2階の床を取っ払った吹き抜けのむき出しになった梁の上に、ガラス板を渡して十数点の陶器を置いたもので、じっと耳を澄ませていると“ピン”というわずかな音が聞こえる。これは釉薬にひびが入るときの「貫入音」だそうだ。宮永は例のナフタリンを使ったオブジェも出しているが、この「サウンドインスタレーション」のほうが心に染みた。中国のソン・ドンはお寺に作品を設置。まず山門に「在家」「出家」と書いた赤い提灯をぶら下げ、本堂看板をディスプレイに置き換えて「少林寺」と墨書する様子を流している。堂内にはおそらく中国の故事に基づくものだろう、鏡の間や「到此面壁」と描かれた白い壁、自撮りのように鏡を持った無数の手首、とぐろを巻いたウンコの先っぽが指になっている磁器などが畳の上に並んでいる。一つひとつの意味はわからなくてもおもしろさは伝わってくる。
韓国のハン・ソクヒョンは、住宅街の緑地に緑色のペットボトルや瓶の山を築いた。《スーパーナチュラル》と題されたこのゴミの山は高さ3メートルほど、裾野は長径10メートルくらいあるだろうか。これは金沢市内で1日に出るリサイクルゴミの量だという。いくら緑色で、いくら洗ったとはいえゴミはゴミ、美しいとはいいがたいが、消費社会への批判を込めたメッセージには耳を傾けなければならない。しかしこんな美観的にも安全性の面でも問題がありそうな作品展示をよくやらせたもんだと感心する。おそらく許可を得るために水面下ではシビアな交渉が行われたに違いないが、そんな苦労をおくびにも出さずゴミの山はそびえている。ハン・ソクヒョンもキュレーターも金沢市民も、見上げたもんだ。
〈9月15日〉
昨日見きれなかった石引エリアへ。このエリアで特筆に値する作品は、金沢在住の山本基による《紫の季節》。がん患者や家族が集うサロンの2階の床を赤紫色に統一し、塩で花や網目や水流のようなパターンを線描したインスタレーションだ。山本は妹を若くして亡くしてから、大切な人の記憶を留めるために塩の作品を始めたという。迷路状の入り組んだ線描に始まり、近年は鱗や泡を思わせる編目模様が増えてきたが、今回のように目立つ色の床に花模様というダイナミックな線描は初めて見る。この変化は一昨年、妻をがんで失ったことが大きいようだ。会場のサロンはかつて山本が暮らした地域にあり、また妻と散歩した道には春になると紫木蓮の花が咲いたという。タイトルの《紫の季節》はそれに由来する。そういわれてもういちど絵を見直すと、人体内部の細胞や血流にも見えてこないだろうか。ちなみに、使った塩は会期が終われば集めて海に流し、作品は跡形もなく消えてしまう。
さて、これらの作品の大半は空きビルや空き店舗などに設置されている。こうした廃屋を作品展示に利用する例は、越後妻有の「大地の芸術祭」や直島のベネッセアートサイトでも見かけ、昨今の流行にもなっているが、違うのは越後妻有や直島が過疎地であるのに対し、ここは有数の観光都市であり、しかもその中心に近い市街地であること。今回ツアーで回ったとき、これらの場所だけでなくあちこちでシャッター街を目にした。金沢には北陸新幹線が開通して観光客が押し寄せ、街はにぎわっていると聞いていたが、にぎわっているのは21世紀美術館を含む一部の観光地だけ。逆に新幹線の開通は地元の人たちを別の都市に誘い出す役割も果たしており、周辺の商店街は閑古鳥が鳴いているのだ。この街なかの展覧会が実現できたのも、皮肉なことに、こうした空きビルや空き店舗がたくさんあったからにほかならない。
2018/09/15(村田真)