artscapeレビュー

建築に関するレビュー/プレビュー

せんだいデザインリーグ2018

会期:2018/03/05

せんだいメディアテーク[宮城県]

今回は渡辺顕人による被膜が生き物のように動く建築が日本一に選ばれたが(本当に蠢く模型はインパクトがあったけれど、内部空間のデザインはひどく、学部1年レベル)、審査が終了しても、赤松佳珠子が不満を述べたように波乱含みの展開だった。おそらく審査委員長の青木淳による巧みな誘導によって、アンチ・ヒューマン派が結束し、ヒューマン派・空間系の票が分裂し、切り崩されたことが、この結果につながったように思う。ちなみに、前者が動く建築、金継ぎ的にハウスメーカーの家をつなぐシステム(谷繁玲央)、富士山の環境が導く建築(山本黎)、後者が住宅地の基礎に注目する提案(平井未央)、塩から始まる島の未来構想(柳沼明日香)、防災地区ターザン計画(櫻井友美)である。本来は対立する両者の激論をもっと見たかったが、最終投票が前者vs.後者の構図にならなかったこと、また本当に動く建築を選んでよいかを議論する時間がなかったことが、結果のもやもや感をもたらした。もっとも、個人的に今年は一押しがなく、政治的に正しくない案が日本一になったことは興味深い(まさか動く建築が一位になるとは思わなかったが)。

思うところがあって、2年前から本選の審査には関わることを止め、なるべく多くの学生の案を講評し、学生との飲み会がセットになるエスキス塾を始めたが、3回目は本選とエスキス塾の垣根がほぼ消えたことが印象に残った。例えば、ターザンは本選に残らないだろうと思って、エスキス塾の候補にしたら、ファイナリストになった。また日本三となった金継ぎの谷繁や特別賞の平井も、ファイナルに残ったために、エスキス塾の候補から外されたが、当日に飛び入りで参加した。さて、朝から夕方まで40人の学生の案を講評し、二次会までの飲み会では、さらに突っ込んだ個別の議論とせんだいデザインリーグへの生の意見を聞くことができた。学生を目の前に個別に案を掘り下げ、意見を交わすと、前日の10選の入れ替え可能性をいろいろ想像させるが、特にデザインの可能性では、熊本大学の福留愛による詩人の世界を体感するミュージアム《窓の宇宙》は突出して、空間の新しい形式に対する創造性への意欲を感じた。

2018/03/05(月)(五十嵐太郎)

くまのもの ──隈研吾とささやく物質、かたる物質

会期:2018/03/03~2018/05/06

東京ステーションギャラリー[東京都]

建築家の隈研吾に私は何度かインタビューをしたことがあるが、そのなかで印象に残っている発言が「コンクリートは嫌い」である。私が言うに及ばず、隈のコンクリート嫌いは有名なようだ。その理由は、コンクリートが20世紀モダニズム建築の象徴であるから。コンクリートは世界中どんなところにも建てられる利便性から、グローバリゼーションのうねりが起きた20世紀に一気に広まった素材だ。しかし木や石のように土地の固有性がないため、面白みに欠ける。また重く固いコンクリートは周囲の環境に威圧感を与える。「負ける建築」を標榜する隈としてはそれにも耐えられないのだろう。

本展は、隈が着目する10種の物質(素材)を取り上げた興味深い内容だった。10種の物質とは、竹、木、紙、土、石、瓦・タイル、金属、樹脂、ガラス、膜・繊維である。つまりコンクリート以外の物質で、いかに建物を建てられるのかという挑戦の記録のようにも見てとれた。例えば中国・北京郊外に2002年に竣工した《竹の家》では、CFT(コンクリート・フィルド・チューブ)という技術にヒントを得て、節を取った竹の内部にコンクリートを流し込み、それを柱にした。2019年の竣工を目指す《新国立競技場》は、「大きなスタジアムを小径木の集合体としてデザインした」という。また糸のようによったカーボンファイバーを用いて、既存のコンクリートの建物に耐震補強を施した。

その既成概念にとらわれない柔軟な発想には感心するばかりである。いずれも隈が建築に求めるのは優しさや柔らかさ、暖かさといったもので、それを表現しうるのが10種の物質というわけだ。しかもそれぞれを積む、包む、支え合う、編む、粒子化、螺旋、多角形、格子という8つの方法に分類し、各物質をどのように使って建物を建てたのかを図式で示していた。「竹を編む」「石を積む」などといえば、建築の専門用語がわからない一般人でもなんとなくイメージがつく。さらに物質ごとに建築事例が写真と模型、モックアップ(原寸大の部分模型)で紹介され、本物を見なくとも、頭のなかでその全体像がイメージできる展示内容となっていた。

《Great (Bamboo) Wall》(2002)[Photo: Satoshi Asakawa]

《COEDA HOUSE》(2017)[Photo: Kawasumi・Kobayashi Kenji Photograph Office]

公式ページ:http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201803_kengo.html

2018/03/03(杉江あこ)

名古屋城 本丸御殿

[愛知県]

名古屋城にて、6月に全体を一般公開する本丸御殿を見学した。名古屋城は、1945年まで天守も本丸御殿も残っていたが、空襲によって焼失し、戦後に天守を鉄筋コンクリート造で復元し(1959年に完成)、本丸御殿は木造で復元している。数年前に表書院までが一部公開されたときに訪れて以来だが、今回は取材のため、工事中の上洛殿も足を踏み入れることができた。ここは将軍を迎えるために増築された一番奥のエリアであり、欄間の彫刻、折上格天井の装飾など、もっとも豪華絢爛な空間をもつ。なお、本丸御殿は近代を迎えると、陸軍、宮内省、名古屋市と管轄が変遷しているが、焼失前に調査が行なわれたおかげで、実測図面、野帳、写真などの資料が数多く残されていたこと、また江戸時代にあまり使われなかったことで保存状態が良かったことや、戦時下に障壁画を外して避難させていたことによって、精度が高い復元が可能だったことは特筆に値する。

本丸御殿では、近世書院造という一定の型を反復しながら、奥性や雁行の配置、床と天井の高さや仕上げによる空間の差異を演出している。すなわち、垂直方向の空間表現が強い西洋建築とは違い、平屋のなかで展開する日本的な空間の格式の表現が行なわれている。これは接客の儀礼を重んじる武家の慣習が、空間デザインに結実したものだ。したがって、部屋ごとに同じ部位がどのような違いをもっているかを注目すると興味深い。障子からの明かりや、なまめかしく照り返す金箔など、昔の光の感覚もうかがえる。同じ近世の書院造という点では、寛永期の状態に復元した本丸御殿を、明治以降も豪華な装飾を加えた二条城の二の丸御殿と比較できるだろう。本丸御殿は遺構の礎石が残る敷地に、大規模な木造建築を復元した大変な工事だが、次は天守も木造で復元する日本初のプロジェクトに取り組む予定だ。都市のシンボルである城にかける名古屋の気合いの入れ方は半端ではない。


天守

表書院 一之間から上段之間を見る

左=玄関 一之間、《竹林豹虎図》、右=対面所 上段之間

2018/03/02(金)(五十嵐太郎)

BankARTスクール2018 2月-3月期 横浜建築家列伝vol.4 五十嵐太郎+磯達雄

会期:2018/02/12、02/26

BankART Studio NYK[神奈川県]

筆者が建築ジャーナリストの磯達雄と担当するBankARTスクールの横浜建築家列伝のシリーズ、第4弾が行なわれた。2月12日は坂倉建築研究所の萬代恭博を招き、お話しいただく。1960年代に建設された神奈川県庁の新庁舎の免震による増改築プロジェクト(場所を移転し、高層ビルを新しく建てる横浜市庁舎とは対照的)、シルクセンター、ポストモダンの時代を反映し、装飾的な記号を導入した人形の家や山下公園再整備など、横浜の作品をひもときながら、同時代の渋谷や新宿のプロジェクトが紹介された。改めて坂倉準三は、日本では珍しく単体としての建築を終わらせず、都市デザインを展開しようと考えていた建築家だということがよくわかる。また興味深いのは、かといって丹下健三とは違い、家具レベルのヒューマン・スケールも同時に設計したり、鉄道会社や百貨店など、民間の事業に取り組んでいたことだ。

2月26日は、tomato architecture(冨永美保+伊藤孝仁)をゲストに迎えた。富永はまだ20代だから、シリーズでは最年少だろう。《CASACO》ほか、東ヶ丘のまちにおける一連の仕事や真鶴の改修など、せざるをえないリノベーションの世代である。《CASACO》は筆者が企画した「3.11以後の建築」展の「住まいをひらく」のセクションに入るようなプロジェクトであり、この展示を契機に着想した「リレーショナル・アーキテクチャー」の概念にどんぴしゃの活動を行なう。実際、彼女が東京藝術大学の助手を務めたときの被災地の雄勝町でのヒアリングが影響したらしい。冨永が学部3年次に企画した建築女子展で初めて知り、その後、2011年にせんだいデザインリーグで審査を担当したときに日本一に選ばれたが、味のあるドローイングは変わらない。伊藤孝仁は筆者がお題を決めたTEPCOインターカレッジデザイン選手権のコンペで2度優秀賞を獲得していた。学生のときから間近で目撃した建築家である。

2018/02/26(月)(五十嵐太郎)

姫路の建築《姫路モノリス》《アルモニー・アッシュ》《姫路文学館》ほか

[兵庫県]

建築合宿の講評に参加し、明石に足を運ぶ機会があったので、姫路で久しぶりに建築めぐりをした。ピンポイントでは何度か来ていたが、一日かけてまわるのは学生のとき以来である。太平洋戦争時に空襲を受けたけれど、爆撃で狙われないよう黒く塗られた姫路城は無事だったし、地震はなく、《姫路モノリス》(旧逓信省の施設、1930)や《アルモニー・アッシュ》(旧三和銀行、1959)など、近代建築もウエディングの施設などに転用されながら、いくつか残っている。また丹下健三、黒川紀章、安藤忠雄らが手がけた現代建築もある。特に1991年にオープンした安藤の《姫路文学館》(1991)は、彼にとっても初期の公共建築であり、屋外の空間を歩く体験が楽しい傑作だ。今回、気になったのは、戦後に登場した昭和建築が消えようとしていたことである。例えば、村野藤吾が設計し、長く親しまれてきた《ヤマトヤシキ百貨店》(1951)は、いよいよ2月末で閉店だった。

1966年の姫路大博覧会にあわせて、駅前と手柄山の会場をつなぐ建設されたモノレールは、1970年代には運休していたが、現在も街中にモノレールの橋脚が残り、シュールな風景を生みだしていた。支えるものがなく、橋脚だけが並んだり、建物を貫く橋脚群も目撃した。ただし、公団と駅を合体した《高尾アパート》は最近、解体されたようである。手柄山中央公園の回転展望台も、博覧会の施設だった。上部は約14分で一周する回転レストランになっており、コアの部分はエレベータと螺旋階段のみで、トイレは外部のものを使う。アーチなどの曲線が印象的なデザインは、昔懐かしい未来を連想させる。しかし、これも3月には閉鎖するという。展望台の向かいには姫路市立平和資料館と、不戦を意味すべく刀を地中におさめた造形の太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔があるのだが、ほとんど来場者がいなかった。まさに昭和は遠くになりにけり、という趨勢を実感した。


《ヤマトヤシキ百貨店》


モノレール橋脚跡



手柄山中央公園 回転展望台(姫路博テーマ塔)

2018/02/23(金)(五十嵐太郎)