artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

東北を開く神話 第2章『第二の道具~指人形』

会期:2013/01/19~2013/02/03

秋田県立美術館 美術ホール[秋田県]


美術家の鴻池朋子が企画した展覧会。昨年の同時期に、同じ美術館で催した「東北を開く神話」の第2回展である。サブタイトルにあるように、今回は「指人形」をテーマとして、32組の秋田の美術家たちが参加した。
土地に残されている古い言葉を無作為に組み合わせた「呪文」をもとに作品を制作し、それらの作者名を伏せたまま巨大な縄で描いた秋田の地図上に沿って展示した点は前回と変わらない。異なっていたのは、いずれの作品にも観客の指一本を入れるための穴が設えられていたこと、会場の随所に土偶や石器、漆器などが作品に混在するかたちで展示されていたこと、そして展示の終盤に大量の指人形が用意され、ひとつずつ観客に持ち帰らせていたことである。
そのおびただしい指人形の迫力はたしかに凄まじい。全体的に見てみると端布やフェルトを縫合したものが多いが、個別的に見てみると色やかたち、素材などさまざまで、なかには指人形の一般的なイメージからかけ離れたものまであって、おもしろい。それらがとぐろを巻いた縄の上に山盛りにされていたのである。
ただその一方で、「呪文」から制作された作品は、おおむね低調だった。それは、おそらく「呪文」が喚起する詩的な想像力に作品の造形力が追いついていなかったことに由来するように思われる。たとえば「粕毛に伝わる 泣きながら尻をまくって 口をすべらせて秘密をばらすもの」や「藤琴に伝わる 尾てい骨と肛門のくぼみに隠れて 赤ん坊に乳を飲ませているもの」など、今回の「呪文」はエロティシズムをくすぐるような言葉が多い。しかも、それぞれの作品には指を入れる穴があるから、指先に伝わる質感や圧力が、そのエロチックな想像力を否が応にも増幅させるのだ。にもかかわらず、物としての作品が押しなべて弱々しく、そうした想像力を飛躍させる物質的な基盤にはなりえていない。「呪文」から広がる想像の世界から、いつまでも物としての作品が取り残されているのだ。
むろん、「呪文」を図解する作品は凡庸以外の何物でもない。しかし、だからといって「呪文」を無視して自己表現に居直るだけでは、わざわざこのようなグループ展に参加する意味はないこともまた事実である。「呪文」が呼び起こす詩的な想像力を引き受け、そのかたちのない想像力に造形によってかたちを与えること。それは、自己を「呪文」という他者に向かって開く、いわば徹底した自己解体の経験を要請するが、しかし、新たな神話に値する物語は、それを糸口として紡ぎ出されるほかないのではないだろうか。次回があれば、奮起を期待したい。

2013/01/30(木)(福住廉)

第61回東京藝術大学卒業・修了作品展

会期:2013/01/26~2013/01/31

東京藝術大学(大学院)・東京都美術館(学部)[東京都]


群を抜いていたのは、高田冬彦と林千歩。それぞれすでに多くの展覧会で発表して作風を確立しているが、いずれも基本的なラインを抑えつつ、集大成というより新たな飛躍を感じさせる挑戦的な映像インスタレーションを発表した。
変態的なパフォーマンスで知られる高田は、壮大なオーケストラの音響にあわせて股間の食虫花を開閉させる作品に加えて、モデルの身体の各部位にとりつけた人形に口頭で指示を出してまぐわせる新作を展示した。荒い鼻息で口にされる甘い言葉には失笑を禁じえないが、しばらく聞いていると一抹の悲哀と愛慕を感じるようになるから不思議だ。
一方、林はミュージカルのような映像作品を上映すると同時に、暗室の空間自体をレリーフや立体造形によって構築することで、映像内の世界観を再現した。インド映画やミュージック・ビデオなどを巧みに引用しながら映像を物語る構成力と、デフォルメした役者の演技を過剰にやり過ぎる一歩手前で押しとどめる演出力がすばらしい。
高田と林の作品に何があるのか、まだわからない。けれども、どんなアーティストであっても、その未知の可能性を私たちに問いかけるからこそ、私たちは新たな作品を期待するのだから、2人が次にどのような展開を果たすのか、注目したい。

2013/01/29(火)(福住廉)

高間智子 展─積層彩磁の世界─

会期:2013/01/29~2013/02/03

ギャラリー恵風[京都府]

顔料で着色した泥漿を型に流し込み、排泥しては別の色の泥漿を流し込む作業を何度か繰り返して、複数の色層を持つ器を造形。その表面を針のような道具で掻き落として、植物柄の装飾をまとった皿、花器、ぐいのみなどの磁器作品をつくり上げている。繊細な図柄から作業の細やかさが感じられ、完成度の高さにも感心させられた。一方、これまでにない形態と彫り模様の蓋物も出品されていたが、こちらはいまだ発展途上の趣。ほかには、掻き落とした溝に釉薬を流し込んだ新作もあった。

2013/01/29(火)(小吹隆文)

今井智己「Semicircle Law」

会期:2013/01/26~2013/02/16

タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム[東京都]

今井智己の「Semicircle Law」は、「震災後の写真」のひとつの形を示すものと言える。彼は2011年4月から2012年12月まで、福島第一原子力発電所から30km以内の複数の場所で撮影してきた。言うまでもなく、原発から半径20km圏内は立ち入り禁止の措置がとられている。今井が写したのはあまり特徴のない山並みや、森の木立や、鉄塔や建物が点在する風景だが、カメラは常に原発の方向に向いている。実際に原発の建屋らしいものが、はるか彼方に遠望できる写真もある。
今井の意図は明確であり、その方法論も的確で狂いがない。だが、展示を見て、さらにMatch and Companyから刊行された25点をおさめた写真集のページを繰っていると、どこか割り切れない思いが湧き上がってくる。このようなシリーズの場合、観客は今井のコンセプトに導かれて、ついつい画面の中で原発の所在を探してしまう。それが見つかれば安心するし、見つからなくとも「この風景のどこかにそれはあるのだ」と納得して、それ以上の想像力をシャットアウトしてしまいかねない。もともと今井の風景写真が孕んでいた、多義的な、しかも研ぎ澄まされた画面構成の魅力が、今回のシリーズではあまり伝わってこないように感じた。
このようなシリーズは、むしろ原発事故とは関係なく撮影されていた写真と、何らかの形で関係づけながら見せた方がいいのではないだろうか。また、これで撮影は完了というのではなく、もう少し粘り強く撮り続けることで、何か違った見え方が生まれてくる可能性もあるような気がする。

2013/01/29(火)(飯沢耕太郎)

森栄喜「intimacy」

会期:2013/01/29~2013/02/09

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

かつてゲイの写真家が、自分のセクシャリティを前面に出した写真を撮影し発表していくときには、やや過剰とも言えるような演劇的な身振りをともなうことが多かった。ロバート・メイプルソープやピーター・ヒュージャーの、痛々しいほどに自傷的な表現を思い出していただければよいだろう。それが1990年代以降になると、より自然体で自分と恋人や友人たちとの関係を定着できるようになってくる。ライアン・マッギンレーの、能天気なほどに幸福感あふれる写真はその典型だ。
森栄喜の「intimacy」と題する新しいシリーズの展示を見ると、日本でも何の衒いも気負いもなく、ゲイの若者たちの心と体の揺らぎを写しとることができる世代が、ようやくあらわれてきたことがわかる。いやむしろ、男同士の関係というような色眼鏡で見る必要もないかもしれない。そこに写し出されているのは、撮影者と被写体との間に醸し出される文字どおり「親密な」空気感である。2011年の東日本大震災の後から撮り始められたこのシリーズでは、森は室内の淡い光の中で、ひたすらモデルの身体の各部分を目で撫でていく。だがそこから、これまであまり見たことがなかった景色が立ちあらわれてくる。展覧会のDMにも使われている、若い男性の、首筋を掻きむしったのだろうか、赤く血色を帯びて腫れた箇所を捉えた写真など、細やかで、肯定的で、どこか陶酔的でもある森の視線のあり方をよく示している。
前作の『tokyo boy alone』(自轉星球、2011)と比較しても、表現の深まりを感じとることができた。3月にナナロク社から刊行されるという同名の写真集も楽しみだ。

2013/01/29(火)(飯沢耕太郎)