artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

北島敬三「UNTITLED RECORDS Vol.20」

会期:2021/10/17~2021/11/13

photographers’ gallery[東京都]

北島敬三は『日本カメラ』2012年1月号から「UNTITLED RECORDS」と題する連載を開始した。2013年12月号まで続いた同連載で、北島は編集部の「震災後の被災地の建物を」という希望に応えつつ、写真とテキストとを掲載していった。この時から、それまでの4×5インチ判のカメラに変えてフェーズワンデジタルパックP65を使い始めている。だが、同連載の終了後もまだ続けたい気持ちがあり、2014年3月から、年3回ほどのペースでphotographers’ galleryでの連続個展を開始した。それが今回のVol.20で完結ということになり、これまで展覧会のたびに発行してきた各16ページの写真集全巻を箱入りでまとめるとともに、全作品を一望できる『UNTITLED RECORDS INDEX〜 vol.1-20 INDEX』を刊行した。

それらを見直すと、この時期に北島が北海道から沖縄まで日本各地に足を運んだことの意味があらためて浮かび上がるとともに、一見バラバラに見える写真群が、一貫した視点と姿勢で撮影・選択されていることが見えてくる。それはたとえば以下のようなものだ。仮設であること:写っている建造物は永続的なものではなく、被災地の建物に典型的にあらわれているように、かりそめの相で定着されている。用途不明であること:それが何のための建物であるかは、ごく稀な場合を除いては明示されない。曇っていること:晴れた日には撮影されていない。曇り空の鈍い光が基調となる。触覚的であること:視覚的な要素よりは触覚的な要素が強調されている。

このような特質を備えた被写体に、緊張感を持って対峙しつつ、北島が常に抱いていたのは、何かが大きく変わりつつあるという実感だったのではないだろうか。1990年代末から進行し、東日本大震災以後より加速しつつある日本の風景の解体は、もはや後戻りできないところにまで達しようとしている。北島は無名の観察者に徹することで、それをまさに「名もない記録」として提示し続けようとした。その成果が全320点の写真群に凝結している。

2021/10/28(木)(飯沢耕太郎)

語りの複数性

会期:2021/10/09~2021/12/26

東京都渋谷公園通りギャラリー[東京都]

インディペンデント・キュレーターの田中みゆきの企画による「語りの複数性」には8人の作家の作品が出展されている。作品はそれぞれに「語りの複数性」、つまり世界の捉え方の多様さを体現するもので、どれも興味深く見た。だが、私にとって個々の作品以上に面白かったのは、展示を順に観ていくことで立ち上がるトータルとしての鑑賞体験だった。建築家の中山英之によって構成された会場を進んでいくことで、鑑賞者である私のなかに世界を捉えるための複数の方法が自然とインストールされ、モードが変更されていくような感触があったのだ。

最初の部屋に展示されているのは川内倫子の写真絵本『はじまりのひ』とそれを壁面に展開したもの。この部屋には加えて、目が見える人と見えない人が一緒に『はじまりのひ』を読んだ読書会の成果物として、目が見えない4人が『はじまりのひ』を読んだ体験を言葉や立体造形などで表現したものが展示されている。展示全体の導入としての具体的な「語りの複数性」の提示だ。

次の展示空間に続く廊下部分に展示されているのは真っ白な空間で落語を演じる柳家権太楼を撮った大森克己の連続写真《心眼 柳家権太楼》。そこに写っているのは全盲の人物が主人公の『心眼』という演目を演じている姿らしいのだが、声が聞こえない写真から私がそれを知る術はない。

だが、百瀬文《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》に出演しているろう者の木下知威は、対談相手である百瀬の口唇の形を頼りに、つまりは視覚を使って百瀬の言葉を「聞き取り」、自身には聞こえない口唇の動きを伴う声を発していた。やがて百瀬の発話には口唇の形は同じでありながら別の音が混ざっていき、それは聴者である私にとっては奇妙な言葉に聞こえるのだが、しかし木下は何事もないかのように会話を続ける。いや、実際に木下にとっては何事も起きていないのだ。百瀬の声がカットされるに至って彼女の言葉を私が知る術は字幕しか残されていないが、それでも二人の会話は続いていく。

続く映像作品も対話を映したものだ。山本高之《悪夢の続き》では二人一組の出演者の一方がこれまでに見た悪夢について話し、もう一方がその続きを考えてハッピーエンドにするというルールで対話が行なわれる。続きを考えるはずが相手の夢に対して別の解釈をしはじめる人、ハッピーエンドが思いつかない人、提示されたハッピーエンドに対してあからさまに納得していない顔で「なるほど」と応じる人、などなど。なかにはコンセプトをきちんと実現している対話もなくはないのだが、多くの対話には何らかの形で「うまくいかなさ」が滲み、それが微苦笑を誘う。

小島美羽の作品は小島が遺品整理や特殊清掃の仕事を通して触れてきた孤独死の現場から要素を抽出しミニチュアとして再構成したもの。あらゆるコミュニケーションには不全が潜在しているが、小島のミニチュアにはそれが凝縮されているように思えた。誰にも見られずに誰かが亡くなった孤独死の現場のミニチュアをよく見ようと覗き込むことの後ろめたさ。その行為は見過ごされた死の穴埋めにはならないが、それでも知ろうとする態度にはつながっている。

緻密な世界を覗き込む姿勢は岡﨑莉望の緻密なドローイングへの鑑賞態度に引き継がれ、岡﨑の線の運動は展示空間を泳ぐようにダイナミックに吊られた小林沙織《私の中の音の眺め》の五線譜のそれへとつながっていく。音を聴いたときに浮かんだ情景、色彩や形を描いたものだというそのドローイングを見ていく私の体には自然と、五線譜に導かれるようにして運動が生じている。音は視覚と運動へと変換される。

導かれた先には最後の作品、山崎阿弥《長時間露光の鳴る》が展示されている部屋がある。そこで聞こえてくるのはそこにある「窓から視界に入る範囲と、聞こえてくる音の源泉を録音範囲として、複数の時間と季節、天候のもとで」録音した音を編集したもの。一瞬、窓の外の街の音が聞こえてきているのかと錯覚するが、音に集中しはじめるとそれは私に見えている風景とは一致せず、むしろ窓の外の風景の方がずれているような奇妙な感覚が生じてくる。

この部屋は展示空間の突き当たりにあり、ということは、鑑賞者である私は来た道を今度は逆に辿っていくことになる。すでに作品はひと通り見終えているので真っ直ぐに出口に向かってもいいのだが、順路を逆に辿りながら見ていくことで作品が別の姿を現わすこともある。例えば、初見ではその緻密さに目が行った岡﨑莉望のドローイングが、小林沙織《私の中の音の眺め》の後に見ると線の運動としてより強く体験される、というように。「語りの複数性」ということがさまざまなレベルで体感される優れた企画と会場構成だった。


「語りの複数性」:https://inclusion-art.jp/archive/exhibition/2021/20211009-111.html

2021/10/28(木)(山﨑健太)

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T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO

会期:2021/10/22~2021/10/31

東京スクエアガーデンほか[東京都]

写真雑誌や写真教室を企画・運営してきたシー・エム・エスを母体とするTOKYO INSTITUTE PHOTOGRAPHYが主催する写真イベント「T3 PHOTO FESTIVAL TOKYO」が、東京駅周辺のいくつかのスペースを会場として開催された。同イベントは2017年には上野公園界隈で開催されたこともあり、地域的に拡散しがちな写真フェスティバルを、限られた場所に集約して行なうというアイデアは悪くないと思う。今回は「仮囲いやオフィスビルの公共空間(公開空地等)を使い、東京という都市を見つめてきた日本の写真家たちの作品と言葉を『雑誌』のように展示」するという「Tokyo Photographers Wall Magazine 2021」を中心に、いくつかの写真展、フォトマーケット、オンライントークなどが開催された。

予算規模の問題が大きいのだろうが、残念なことに活気のあるイベントとしては成立していない。石川直樹、尾仲浩二、藤岡亜弥、野村佐紀子、有元伸也、山谷佑介、インベカヲリ★など、いいメンバーが参加しているにもかかわらず、彼らの写真や言葉を一定のスペースに囲い込み、同じレイアウトで提示することで、メッセージが均一化してしまっているのだ。30人ほどの展示パネルを、バラバラに見せるだけでは物足りなさが残る。もっと人数を増やすか、逆に絞り込んで一人あたりの点数を増やすことも考えられそうだ。これも管理上むずかしいかもしれないが、ゲリラ的に建物や街路全体を埋め尽くすような展示ができないだろうか。とはいえ、このような企画にまったく可能性がないとは思えない。展示場所の設定を含めて、試行錯誤を繰り返すことで、実りの多い成果に結びつくことを期待したいものだ。

公式サイト:https://t3photo.tokyo

2021/10/24(日)(飯沢耕太郎)

高岡で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき

会期:2021/09/14~2021/10/31

高岡市美術館[富山県]

今年は「ボイス+パレルモ」展や「ランス美術館コレクション 風景画のはじまり コローから印象派へ」をいずれも三会場で見るなど、巡回展を違う美術館で鑑賞することで、改めて空間の与える影響について考えさせられたが、山形美術館から富山に巡回した「高岡で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき」展は特別な体験だった。キュレーションを担当した国立西洋美術館の学芸員、新藤淳氏に確認すると、これは正式な「巡回」展なのだが、あまりにも異例なのは、およそ2/3の内容が入れ替わることである。すなわち、地元のアーティストを絡めた第一章と第三章は、ほとんど違うものとなり、西洋美術館のコレクション史の形成を紹介する第二章のみが同じだ。もともとカタログは、上下に山形と高岡のテキストを並行させる構成であり、両館で展示される作品も紹介されていたが、高岡市美術館も訪れることで、ようやく完結したという充実感が得られた(両方見た人がどれくらい存在するか謎だが)。また上野ではなく、地方都市で西洋美術館のコレクションがどのように形成されたかを初めて知るというのも興味深い。


高岡市美術館


さて、高岡の第一章では、森鴎外による「西洋美術史」や「美学」の講義ノートのほか、これまであまり活用されていなかった富山県美術館が所蔵する本保義太郎の資料を導入しつつ、彼が憧れのロダンと実際に面会し、その直後ミケランジェロのデッサンを行なったエピソードなどを紹介していた。そして第三章では、パリ万博で通訳として活躍した高岡出身の美術商、林忠正を通じた西洋と日本の美術の邂逅、また彼が「西洋美術館」の構想をもっていたことなどをとりあげる。したがって、これは展覧会史を踏まえつつ、巡回展の枠組を再構築した知的な冒険であり、説明文の入れ方を含めて、今年もっとも大胆な企画展だろう。にもかかわらず、おそらく会場で鑑賞していたほとんどの人は、普通にコレクション展として楽しんでいた。こうした複数の層が共存する、ただならぬ異様な雰囲気をもつ展覧会であると同時に、日本から見た西洋、山形や高岡から見た西洋、もし過去の美術家がその後の未来を見ていたらどう考えるか、逆にわれわれが過去をどう見るかなど、さまざまな視角から空間と時間が隔てられた世界をどう想像するかを問いかけてくる。


関連レビュー

山形で考える西洋美術──〈ここ〉と〈遠く〉が触れるとき|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2021年09月15日号)

2021/10/24(日)(五十嵐太郎)

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アントワーヌ・ヴィトキーヌ『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』

2017年、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる《サルバトール・ムンディ》がオークションで、美術作品の最高額を大幅に更新する約510億円で落札されて世界を驚かせた。しかもこの作品、2005年にわずか13万円で売買された代物。その後、修復してレオナルドの真作である可能性が高いと判断されたとたん、一気に値が釣り上がり、最終的に510億円で落札されることになった。わずか12年間で40万倍(!)にも高騰したことになる。この映画は、なぜ作品価格がこれほど釣り上がったのか、その裏ではなにが起きていたのか、そしてこの作品は現在どうなっているのかを、関係者の証言を交えながら追跡したドキュメント。 以前から専門家のあいだでは、レオナルド工房の《サルバトール・ムンディ》という絵があるといわれていたが、レオナルド本人が制作に関与したかどうかは不明だったし、そもそも作品自体も見つかっていなかった。裏を返せば、レオナルドの真作がどこかに存在する可能性がゼロではなかったことが、今回の狂騒のキモだ。

発端は、ニューヨークの美術商が競売会社のカタログを見て「これはひょっとして」と思い、13万円で購入。美術商はこれを知り合いの修復家に預けたが、彼女は修復の範囲を超えて加筆修整まで施してしまう。その甲斐あってか(?)、ロンドンのナショナル・ギャラリーで複数の専門家が鑑定したところ、真作であるとの意見が多数を占めたため、同館の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に新発見の真作としてお披露目された。ナショナル・ギャラリーといえば美術界の権威中の権威、彼らがお墨付きを与えたということで、2013年には別の美術商が100億円で購入し、ロシアの大富豪に157億円で転売する。これが不当な売値であるとして富豪は美術商を提訴。ここまでで上映時間の半分以上を費やしている。

そして2017年、大富豪はオークション会社のクリスティーズにこの作品を委ねるのだが、クリスティーズの「煽り」がすごい。まず、美術オークションは通常「古典」「近代」「現代」の時代別に行なわれるが、《サルバトール・ムンディ》は古典美術ではなく現代美術の部門で扱われたのだ。理由は、現代美術の顧客は古典の知識が乏しいこともあってさほど真贋にこだわらないこと、また、芸術性よりも話題性のある作品、値の上がりそうな作品に興味を示すからだ。さらにクリスティーズは、オークション前の内覧会で作品の脇にカメラを据え付け、絵に見入る人たちの表情を捉えてPV化した。暗い背景の中で呆然と見つめる者、驚嘆する者、涙を拭う者などさまざま。同名のよしみか、ディカプリオも登場する。そんな宣伝効果も手伝ってか、《サルバトール・ムンディ》はオークション史上最高値の510億円で何者かによって落札された。

映画の終盤は、これを落札した人物と、《サルバトール・ムンディ》の行方を追う。落札者はその後、サウジアラビアの皇太子ムハンマド・サルマーンと噂される。同国のジャーナリスト殺害に関与したと疑われるヤバイ人物だ。作品は2019年にパリのルーヴル美術館での大規模な「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に出品される予定だったが、所有者側は《モナ・リザ》の隣に展示されることを望んだのに対し、美術館側はあくまで「参考作品」としての扱いだったため交渉は決裂、出品されずに終わった。結局この作品、超高値で売買されたにもかかわらず真作か否か曖昧なままで、落札されてから一度も公開されていない。ひょっとしたら、皇太子は偽物をつかまされたってんで頭にきて破棄したんじゃないかとぼくはにらんでいる。そもそもイスラム国の指導的立場の人間が、救世主イエス・キリストの絵を大枚はたいて買うこと自体ありえない話。所有者の素行を見る限り、この絵を標的に「ダーツ遊び」しても不思議じゃないからなあ。

ぼくは実物を見たことないけど、報道を読んで《サルバトール・ムンディ》にレオナルドの手が入っている可能性はフィフティ・フィフティだと思っていたが、映画を見た後は限りなくゼロに近くなった。結局この映画が教えてくれるのは、レオナルドの偉大さでも芸術の奥深さでもなく、世界を躍らせるアートマーケットの耐えられない軽薄さであり狡猾さである。

公式サイト:https://gaga.ne.jp/last-davinci/

2021/10/22(金)(村田真)