artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家vol.18
会期:2021/11/06~2022/01/23
東京都写真美術館 3階展示室[東京都]
東京都写真美術館の「日本の新進作家」展も18回目を迎えた。うまくまとまった展示が実現する年と、やや散漫になってしまう年とがあるのだが、今回はバランスがよく、しかも見応えのある企画展になった。
出品作家は吉田志穂、潘逸舟、小森はるか+瀬尾夏美、池田宏、山元彩香の4名+1組。吉田はインターネットで検索した場所を実際に訪れてその落差を探り、潘は「トウモロコシ畑を編む」ように歩くパフォーマンスを展開する。小森と瀬尾は、水害に襲われた宮城県丸森町の住人たちのオーラル・ヒストリーを、写真を絡めて再編し、池田はアイヌ民族の末裔たちのポートレイトをストレートに撮影した。山元は東欧諸国、マラウイ、沖縄などで女性たちを撮影し、彼女たちの身体と無意識との関係を浮かび上がらせようとした。それぞれ異なったアプローチだが、共通しているのは、あくまでも個人的な体験を基点に置いて、他者との関係のあり方を丁寧に模索し、写真作品として再構築していこうとする方向性である。地に足をつけたいい企画だと思うのだが、写真関係者、写真好きの人たち以外にも、強くアピールしていけるような要素はあまり感じられなかった。エンターテインメント性がすべてとは思わないが、多少なりとも華やぎも必要ではないだろうか。
とはいえ、個々の出品作家についていえば、このような企画をきっかけに大きく成長していってほしい写真家たちが揃っている。潘や池田や山元の仕事は、ぜひもう少し大きな規模の個展の形で見てみたい。
2021/11/07(日)(飯沢耕太郎)
平川恒太 「Talk to the silence」
会期:2021/10/02~2021/12/19
カスヤの森現代美術館[神奈川県]
久しぶりに訪れた横須賀のカスヤの森現代美術館。今回は、一貫したテーマの下に多様な作品展開を見せる平川恒太の個展だ。瀟洒な尖塔を持つ教会風の建物に入ると、右手にこれも教会風の木の長椅子が置かれ、その上に黒く塗られた赤いバラ(造花)がシリンダーに挿してあり、脇に聖書が置かれている。赤いバラは同館がコレクションするヨーゼフ・ボイスのアトリビュート(持物)ともいうべきもので、平川のボイスに対する敬意を表わしているようだ。 入り口の正面には《Sarcophagus-トリニティ、トリニティ、トリニティ(ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ)》と題された3つの石の箱が並んでいる。「sarcophagus」は石棺を意味し、「トリニティ」は三位一体を指すと同時に「トリニティ実験」といえば史上初の核実験のことで、核の時代の幕開けを表わす。これら3つの石棺は、向かって左から広島の議院石(国会議事堂の外壁に使われた)、長崎の諫早石、福島の三板石でつくられ、蓋の部分に「Reflection」「Action」「Faith」の言葉と▷△◁の記号が彫られている。これらは過去、現在、未来を表わしているそうだ。
こうした被爆や戦争をテーマにした作品が展示の中心となっている。《Trinitite-サイパン島同胞臣節を全うす》は、藤田嗣治が戦争末期に描いた最後の戦争画を黒一色で再現した大作で、近寄って凝視しないとなにが描かれているのかわからない。この作品は2013年の制作だが、同じ黒い絵画シリーズの新作として《Trinitite-悲しみの聖母》《Trinitite-三位一体の人形》があり、この2作は広島と長崎の被爆を扱っている。ちなみに「trinitite(トリニタイト)」とは、トリニティ実験の際に高温で溶けて固まった人工鉱物のこと。
今回はトリニティに因んだのか3点セットが多く、「何光年も旅した星々の光は私たちの記憶を繋ぎ星座を描く」シリーズも、「夏の大三角形」「こいぬ座」「や座」の3点からなる。これらはいずれも天井から吊るしたモビール状の作品で、重りにした従軍勲章を星座に見立てたもの。敵を倒せば倒すほどたくさんの勲章がもらえるのなら、これらの勲章は倒されて星になった兵士たちを表わしていることになる。「死んだら星になる」のではなく、「殺したら星=勲章がもらえる」のだ。こうした勲章はいまではネットで安く手に入るというから、なにをかいわんや。その領収書を添付した星座のドローイングも出品されている。
《PRISMEN-約束と祈りの虹(広島)》は、バーコードみたいなモノクロームの斜線が走る正方形の絵画。一見、名和晃平の作品と間違えそうだが、おそらく「黒い雨」を暗示しているのだろう。しかしそれで終わりではない。画材に光学実験用ガラスビーズを用いているため、見る位置によって画面の下方にうっすらと虹が浮かび上がるのだ。なるほど、黒い雨に虹をかけるとは。ことほどさように、平川の作品は解説を聞き、意味を考えながら見ればいちいち納得するものの、言葉なしで見ると近ごろ珍しいほど無愛想な作品ばかりで、取りつく島もない。その落差もまた魅力だといっておこう。
2021/11/07(日)(村田真)
ホー・ツーニェン「百鬼夜行」
会期:2021/10/23~2022/01/23
豊田市美術館[愛知県]
あいちトリエンナーレ2019で発表された《旅館アポリア》、YCAMとKYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNで展示された《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》に続き、アジア太平洋戦争期の日本をシンガポールという「外部」から再批評するシリーズの第3弾。小津安二郎や海軍プロパガンダアニメ映画の引用、セル画アニメの層構造への言及、ロボットアニメが描く「虚構の戦争」やVRに対するメディア批評を織り交ぜ、強烈な身体経験とともに歴史の力学を緻密に再構築してきた。本展「百鬼夜行」でホー・ツーニェンが召還するのは、アニメや漫画でおなじみの「妖怪」である。
展示前半では、闇の中を練り歩く奇怪な妖怪たちが、恩田晃によるおどろおどろしい音楽を背景に、アニメーションによる絵巻仕立てで紹介される。平安末期や幕末、コロナ禍の「アマビエ」など戦乱や災禍の時代に流行した妖怪が世相批判も担っていたように、既存の妖怪が批評的に読み替えられていく。例えば、山や谷で反響音を引き起こす「山彦(やまびこ)」は、共鳴壁で包囲してイデオロギーを増幅させるプロパガンダ装置の謂いとなる。全身に無数の目を持つ「百目」や障子に無数の目が浮かび上がる「目目連(もくもくれん)」は監視網のメタファーだ。油を欲しがる「油すまし」や「化け猫」は「1942年から45年にかけて東南アジアで多く見られた妖怪」とされ、石油資源を求めた日本の侵略に重ねられる。「塗り壁」は過去への道を阻む障壁、経典を食い荒らす「鉄鼠(てっそ)」は歴史資料を食べる妖怪とされ、歴史の健忘症の要因として読み替えられる。魑魅魍魎が跋扈する奇形的空間としての戦時期日本が現在にまで接続され、「百物語」の灯が消えた瞬間に「妖怪が出現する」演劇的な仕掛けも痛烈だ。
展示後半では、百の妖怪のうち「のっぺらぼう」「偽坊主」、そして変幻自在な「虎」に焦点が当てられる。戦争末期、カモフラージュのため多くの日本兵が僧侶に化け、スパイ養成機関「陸軍中野学校」は、変幻自在で顔のないスパイ=のっぺらぼうを生み出した。戦争責任回避のため僧侶に変装した辻政信と、一方、戦友の慰霊のため僧侶として生きることを決意した小説『ビルマの竪琴』の水島上等兵。「マレーの虎」もまた多重的に分裂した像を見せる。シンガポール攻略の司令官の山下奉文と、中野学校出身のスパイから軍の諜報活動に勧誘された日本人の義賊、谷豊の2人である。作品中の映像は、記録画像/映画(フィクション)の引用/アニメが多重露光的に重なり合い、輪郭が曖昧にブレ、虚実の境界を揺るがせることで、「これが(隠された)真実だ」というプロパガンダとの同質化を回避する。彼らの「顔」は匿名的に消去されているが、僧侶姿の元水島上等兵が現地に残る決意を竪琴の演奏で戦友たちに伝えるシーンでは、顔の表情が回復され、「のっぺらぼう」が、戦争による人間性の抹消も示していたことに改めて気づく。
また、「虎」は、時代の要請を受けて変幻自在に何度でも蘇る。千人針に縫い込まれた「虎」。「マレーの虎」のひとり、谷豊は戦時中にプロパガンダ映画で英雄化され、1960年代のテレビドラマや、日本が経済的にアジアに進出した80年代には映画で、「怪傑ハリマオ」として蘇る。タイガーマスクや『うる星やつら』のラムちゃんなど、ヒーローや超自然的能力を持つ存在もこの列に加えられ、時代の無意識的な欲望とその亡霊性が示される。
展示全体を通して、「過去への遡行」としての妖怪像を提示する本展。ちなみに、百の妖怪のうち、家の障子を震わせる「家鳴(やなり)」は《旅館アポリア》で展示会場の日本家屋を暴風雨/空襲のように揺らす仕掛けも示唆し、「不可知の雲」のビジュアルは《未知なる雲》(2011)のセルフパロディであるというように、ホー自身の「過去作」も取り込まれている。
妖怪が見せる変幻自在なトランスフォームは、アニメが得意とするところであり、本展は、《旅館アポリア》と《ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声》の前2作に比べると、エンターテイメント色が強く楽しめる。だが、なぜそもそもホーは、戦時期日本を対象化するにあたり、「妖怪」を参照したのか。例えば、「道に迷った」を「狐に化かされた」と言い換える表現があるように、妖怪(姿が見えず、人智の及ばない存在)のせいにすり替えることで、主体や責任の在りかを曖昧化してしまう。「さまざまな妖怪が戦前の日本に取り憑き、現在も目を眩ませて健忘症を引き起こす」、すなわち「行為の主体性と責任」が見えないことこそが、本作の指し示す、真に恐るべき事態である。
関連レビュー
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声(後編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
あいちトリエンナーレ2019 情の時代|ホー・ツーニェン《旅館アポリア》 豊田市エリア(前編)|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年09月15日号)
ホー・ツーニェン『一頭あるいは数頭のトラ』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年03月01日号)
2021/11/06(土)(高嶋慈)
関口敦仁展 手がとどくけど さわれない
会期:2021/10/16~2021/11/23
O美術館[東京都]
O美術館へは、たぶん4半世紀ぶりぐらいの訪問となる。学芸員の天野一夫さんがいた90年代前半まではよく通っていたが、行かなくなった理由はただひとつ、おもしろい企画展をやらなくなったからだ。最近はせいぜい品川区にゆかりの作家を企画展として取り上げるくらいで、あとは貸し会場化していたらしい。そんな「美術館」で関口敦仁の個展が開かれるというから唐突に感じたが、なんのことはない、関口は品川区大井の出身、地元ゆかりの作家なのだ。
関口敦仁といえば、80年代のアートシーンを牽引した作家のひとり。「ニューウェイブ」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは関口の名前と作品だ。もの派やミニマルアートを引きずったような70年代の禁欲的な表現(非表現といってもいい)を払い除けるように、既視感のない流動的なイメージを奔放な色彩と構成で表現してみせ、新しい時代の到来を予感させたものだ。しかし1990年前後からメディアアートに軸足を移し、またパリに長期滞在した後、岐阜のIAMAS(情報科学芸術アカデミー)の教授に就任してからは、少なくともぼくの視界から消えてしまった。同展には1979年の《水中花1》《水中花2》から新作まで、約60点の作品が時代順に並んでいるが、ぼくになじみがあるのは前半を占める80年代の絵画、レリーフ、半立体状の作品たちだ。
最初の《水中花》の連作は学部生のころの作品で、波紋のような青と白の円弧が画面を埋め尽くし、画面の左右には垂直線、上方には2本の斜線が入ってている。円弧はフリーハンドで奔放に絵具を滴らせ、左右の垂直線はそれを制御するような役割を果たす一方で、上方の斜線と相まってどこか日本の伝統絵画を想起させもする。当時の絵画に対する関心ごとを見事に反映させた作品といえる。1981年の《自画像》でセザンヌ風のモチーフとシェイプトキャンバスが現われ、《食卓の夢》や《水の中から》では、金属や樹脂など異素材を組み合わせたレリーフ状の作品に発展していく。
しかし1990年前後からCGプリントや映像インスタレーションなどメディアアートに移行し、作品自体も少なくなっていく。作品リストで数えてみたら、80年代までが26点、90年代が16点、2000年代が7点、10年代以降が18点と、徐々に減りつつ近年再び増加に転じているのがわかる。もっともこれは出品点数であって制作点数ではないが、おおむね作品量を反映していると見ていい。
ところで、1990年前後に作品形態は大きく変わったと書いたが、コンセプトはほとんど変わっていないようだ。それはなにかというと、関口の場合とても難しいのだが、カタログの言葉を援用すれば、「自身の存在自体に目を向けようかと思ったり、創造衝動と存在の確認を重ねてみたりと、極めて内向きな視線を外の世界に接続させよう」とすることだろう。それがタイトルの「手がとどくけど さわれない」感覚につながるのではないか。
もうひとつ変わっていないものがある。それはコンセプトにも関係するかもしれないが、「円」への偏愛だ。もちろんお金じゃなくて丸のほう。最初期の《水中花》の連作では円弧の連なりとして現われ、《自画像》《ピークトルク》では赤いリンゴとして描かれ、その後も《みぬま》《食卓の夢》《ガラス球》など大半の作品に円が登場する。メディアを変えてからも、「笑いの回転体」シリーズは円形をしているし、《地球の作り方 赤道》は赤道という円環だし、《景観新幹線》は円環状のレールの上を模型の鉄道が走り、《知覚の3原色123》は3色の円形だけで成り立っている。最後の《赤で円を描く》はタイトルどおり、画面を赤い円で埋め尽くした絵画だ。そしてこの作品が、会場を一周して最初の《水中花》の連作に向かい合うように展示されているのは偶然ではないだろう。彼自身の制作もぐるっと回って円環状につながっているに違いない。
2021/11/06(土)(村田真)
阿部航太『街は誰のもの?』
グラフィティは80年代前半ニューヨークで最初のピークを迎えたが、ニューヨークがジェントリフィケーションによって下火になるのと引き換えに、世界各地に飛び火していく。そのひとつがブラジルのサンパウロだ。この映画はサンパウロのグラフィティやスケートボードなどのストリートカルチャーを、デザイナーの阿部航太が追ったドキュメンタリー。
グラフィティを扱った映画は『WILD STYLE』や『INSIDE OUTSIDE』など、フィクション・ノンフィクションを問わず何本もあるが、違法にもかかわらず公共空間に書くことの意味を問うたり、依頼制作の合法的グラフィティ(それは「グラフィティ」ではなく「ミューラル=壁画」という人もいる)との違いについて語られることが多い。この映画も違法行為を繰り返すグラフィティライターを追いかけ、インタビューしていくなかで、タイトルにあるように、次第に街(公共空間)は誰のものなのかを問うようになっていく。ライターたちの言い分は、自分たちは無償で街を美しく飾っているのになにが悪い? ということだ。これはニューヨークでもヨーロッパの都市でも同じで、公共空間イコール自分たちの場所(だからなにやってもいい)という考えだ。実際、映画には路上で服や食べ物を売ったり、大統領に反対するデモを行なったり、地下鉄でギターをかき鳴らしたり、ホームレスが窮状を訴えたり、思いっきり街を活用している例が出てくる。
こういうのを見ると、やっぱりラテン系は騒がしいなと疎ましく思う反面、うらやましさを感じるのも事実だ。だいたい日本人は公共空間をみんなの場所(それはお上が与えてくれた場所)だから、自分勝手なことをしてはいけないし、自己表現する場所でもないと考えてしまう。だから、ゴミ拾いくらいはするけれど、街を美しくしようとか楽しくしようとか積極的に行動することはあまりない。これを国民性や文化の違いとして片づけるのではなく、表現の自由に対する自己規制や無意識の抑圧として捉えるべきではないかと思ったりもした。日本の街にグラフィティが少ないのは、必ずしも誇るべきことではないのだ。
さて、映画は後半以降グラフィティから離れてスケートボードの話に移るが、スケボーも同じストリートカルチャーではあるものの、とってつけたような蛇足感は否めない。映画としてはグラフィティだけでまとめたほうがよかったように思う。
公式サイト:https://www.machidare.com
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