artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

庵野秀明展

会期:2021/10/01~2021/12/19

国立新美術館[東京都]

まず第一印象は、出し惜しみがないこと、また意外に撮影可能な展示物が多いことである。じっくり見ると、相当の時間を要する濃密な展覧会だった。全体は五章から構成され、第一章「原点、或いは呪縛」はかつて企画された「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」(2012)のような彼が影響を受けた作品群(ゴジラ、ウルトラマン、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダムなど)、第二章「夢中、或いは我慢」は少年時代からエヴァンゲリオン旧劇版までの作品を豊富な資料で展示している。注目すべきは、やはり学生時代の絵画や映像、そしてプロ初期の作品だろう。すでにこの時点から、あとで開花する庵野の作家性を確認できるからだ。続く第三章「挑戦、或いは逃避」は、実写の映画からエヴァンゲリオン新劇版までを扱い、第三章の巨大な模型が目を引く。第四章「憧憬、そして再生」は今後公開される「シン・仮面ライダー」と「シン・ウルトラマン」の予告であり、第五章「感情、そして報恩」はアニメ特撮アーカイブ機構(ATAC)などの取り組みを紹介する。いわば、過去(第一章)・現代(第二、三章)・未来(第四、五章)という展開になっており、とてもわかりやすい。




第一章 展示風景



第一章 展示風景



第二章 展示風景



第三章 展示風景



第四章 展示風景



第五章 展示風景


もっとも、膨大な展示物に対する個別の解説はもっと欲しいし、テーマなどの設定がなく、第三者からの視点によるキュレーションはやや物足りない。もちろん、読みとるべきラインは無数に存在し、それは鑑賞者のリテラシーに委ねられる。ともあれ、ものづくりに関連する人にとって刺激的な内容であることは間違いない。個人的に一番感心したのは、最後のATACである。というのは、以前、「館長 庵野秀明 特撮博物館」展を見たとき、これは常設で存在して欲しいと思ったからだ。いずれ、そうした公立や国立の施設が誕生するかもしれないが、待っていては手遅れになるかもしれない。ATACは、アニメや特撮を創造する過程で生ずる中間の制作物や資料を文化として可能な限り後世に残したいという目的で設立され、円谷英二の出身地である福島県須賀川市と連携している。しかも、特撮博物館展の全国巡回が契機になったという。つまり、トップ・クリエイターが自らの原点となった過去の作品群への敬意を示し、その恩返しとしてアーカイブ事業を推進している。

2021/10/20(水)(五十嵐太郎)

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小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌

会期:2021/10/09~2021/11/28

東京ステーションギャラリー[東京都]

小早川秋聲(1885-1974)といえば、なんといっても《國之楯》をはじめとする戦争画で知られる日本画家。2年前、《國之楯》を中心に約40点の作品による個展が京橋の加島美術で開かれたが、京都から始まった今回の展覧会は、初期から晩年まで100余点を集めた初の大規模な回顧展となる。

小早川は鳥取県の住職の息子として生まれ、僧籍に入りながら絵を学び、国内外を問わず旅を好んだ。初期のころは武将をはじめ、郷土玩具、旅先の風景などを描いた作品が多いが、目に留まったのは日露戦争に従軍したときの《露営之図》。暗闇のなか焚き火を囲む兵士たちをシルエットで描いたもので、30年後にも同趣の画題を繰り返すことになる。20代から東洋美術研究のためたびたび中国に渡り、1920年代には念願のヨーロッパ旅行を果たし、文化交流のためアメリカにも派遣された。こうした西欧見聞の成果が端的に現われているのが《長崎へ航く》だろう。これは日本に向けて出航するオランダ船を見送る女性たちを後ろ姿で表わしたもの。日本ではなくオランダから見た視点で描くというのは、国際的視野がなければできない発想だ。

小早川の人生が大きく動くのは1930年代に入ってから。1931年に満州事変が起こると中国に派遣され、戦争画に手を染めるようになる。多くの画家が従軍するのは日中戦争が始まる1937年以降のことだから、きわめて早い。以後、かつての《露営之図》を彷彿させる《護国》をはじめ、《御旗》《護国の英霊》《虫の音》《日本刀》《業火 シンガポールの最後》《出陣の前》など数多くの戦争画を制作。なぜ西欧を見聞し、国際的視野を身につけたはずの小早川が戦争画にのめり込んでいったのか、いまから見れば理解に苦しむ。しかし、享楽的で退廃的なエコール・ド・パリで一世を風靡した藤田嗣治が戦争画に転身したのとは違い、父は光徳寺住職、母は三田藩主九鬼隆義の義妹という保守的な家に生まれた小早川にとって、国威発揚のために絵筆を振るうのは疑う余地もなく当然のことだったのかもしれない。

だが一方で、従軍中に戦死した兵士の火葬に立ち合い、読経の供養もしたという小早川は、「惨の惨たるもの之あり候」と戦争の悲惨さを嘆いてもいる。従軍画家として戦意を煽りながら、仏教徒として生命を愛おしむというジレンマ。その葛藤の狭間に生まれたのが《國之楯》ではなかったか。寄せ書きのある日章旗を顔に被せた日本兵の遺骸を描いたこの作品は、陸軍が依頼したにもかかわらず受け取りを拒否されてしまう。遺体の描写は戦意を喪失させる、というのが理由だった。

戦争初期において日本兵の死を描くことはタブーだったが、戦況が悪化するにつれ戦死者は「殉教者」に祭り上げられ、全滅は「玉砕」に読み替えられ、死体の描写などの悲惨な場面も容認されていく。しかしそれが戦意を高揚させるか、厭戦気分を増幅させるかは微妙だ。藤田嗣治の《アッツ島玉砕》は悲惨な描写ゆえに圧倒的な支持を受けたが、それはギリギリの線を狙った藤田の戦略勝ちといえる。だが小早川にはおそらく戦略などなく、ただ画家であり仏教徒でもあるという二面性がこの作品で図らずも露呈してしまったということだろう。

戦後、小早川は戦争に協力したことを反省し、《國之楯》の遺体の上に散っていた桜を塗りつぶしてしまう。少しでも愛国的な要素を消そうとしたのだろう。そのため現在ではこれを「反戦画」として見直す人もいるそうだが、頭上と身体全体にうっすらと光輪をかぶせることで、遺体を「英霊」として聖化させていることは否定できない。戦後は戦争画を描いた画家としてその画業は忘れられていたが、半世紀たって《國之楯》が掘り起こされ、再び美術史に浮上して今回の回顧展につながったのだから、まことに戦争と美術の関係は一筋縄ではいかないものだ。

関連レビュー

小早川秋聲─無限のひろがりと寂けさと─|村田真:artscapeレビュー(2019年10月01日号)

2021/10/19(火)(村田真)

西野壮平×GOTO AKI写真展 写真家はどこから来てどこへ向かうのか─世界を歩き、地球を変換する写真

会期:2021/10/12~2021/11/20

GALLERY FOREST[神奈川県]

横浜市港北区(日吉)の東京綜合写真専門学校4FのGALLERY FORESTでは、1年に1回ほどのペースで企画展が開催される。今年は同校講師の池谷修一のキュレーションで、西野壮平とGOTO AKIの二人展が開催された。

どちらも広い意味での風景写真の作り手だが、作風はかなり違う。西野は移動しながら撮影した無数のスナップ写真をコラージュしてつなぎ合わせ、大画面のプリントとして再構築する。今回はイタリアのポー川の源流から河口までを撮影した「IL PO」シリーズ(2018)のコラージュ作品(8面)と、流域の建物、風景、人の姿にカメラを向け、個々の作品として提示した写真群を出品していた。GOTO AKIは主に日本の風景を切り取り、抽象化した作品を発表してきた。今回は海中の穴から吹き出す泡や水流、地中深くにある粘土や泥水が噴出した泥火山などを撮影している。

対照的な二人の作家だが、意外なほどの相性の良さに驚かされた。どちらも、旅と移動を作品制作のベースにしていること、風景をスタティックな視点ではなく「動態」として捉えようとしていることに共通性があるからだろう。また、これまで主に都市をテーマとしてきた西野が、「IL PO」では自然を積極的に取り込むようになってきたり、GOTOも水流や泥火山のようなよりコントロールしにくい被写体にカメラを向けたりと、二人が新たな領域に大きく踏み出そうとしている時期にあることも、ちょうどうまくフィットしたのではないだろうか。西野とGOTOの作品を見ていると、日本の風景写真の分野も大きく変わりつつあることがわかる。よりダイナミックな展開を期待したい。

関連レビュー

GOTO AKI「event horizon ─事象の地平線─」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年07月01日号)
西野壮平「Action Drawing: Diorama Maps and New Work」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年01月15日号)

2021/10/19(火)(飯沢耕太郎)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMN 和田ながら×やんツー『擬娩』

会期:2021/10/16~2021/10/17

京都芸術センター[京都府]

「舞台上で行なわれる行為は、すべて擬似的な再現である」という演劇の原理を忘却・隠蔽しないこと。「儀礼」という演劇の起源のひとつへと遡行すること。この2つの秀逸な交点にあるのが、『擬娩』である。「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする」という実在の習俗「擬娩」を着想源とし、演出家も含めて出産未経験の出演者たちが「妊娠・出産を身体的にシミュレートし、他者の身体に起こる変容や痛みを想像すること」が、本作のコンセプトだ。本作のもうひとつのクリティカルな核は、手垢にまみれた「感動的な出産のドラマ」を消費することを徹底して排除し、「産む性」と切り離して「妊娠・出産」という行為を極私的に想像しようとする点にある。

2019年に初演された本作は、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 AUTUMNにて、出演者と舞台美術のコラボレーターを大きく入れ替えてリクリエーションされた。初演の出演者は30代の男女の俳優・ダンサー4名だったが、今回は初演の2名(うち1名は声のみの出演)に加え、公募による10代の出演者3名が新たに参加した。また、舞台美術はメディア・アーティストのやんツーが新たに担当した。筆者は初演時のレビューを執筆しているが、大きく印象が変わったリクリエーション版について、本稿では、初演との比較を行ないつつ、大幅なアップデートが見られた点とジェンダーの視点からは批評的後退と感じられた点について述べる。


出演者たちが自身の身体的特徴を列挙しながら、「個体差」のなかに次第に第二次性徴(初潮の遅さ、生理不順)が登場し、つわりの症状の多様性へと展開していく。「私のこの身体」にフォーカスしつつ、同時に匿名性を帯びる語りの並置と集積が、初演の前半部分を構成していた。一方、リクリエーション版では、出演者たちはそれぞれ、起床、着替え、朝食、通学、授業や部活、家事や仕事、帰宅、入浴、夕食、友達への電話など普段の日常生活のルーティンを同時多発的にマイムで淡々と再現していく。一周目が終わると「妊娠検査薬のシミュレーション」が挿入。「陽性反応の線が出た」出演者たちが二周目、三周目を繰り返す日常生活が次第に変容を被っていく。「つわりによる吐き気でご飯が食べられない」「階段がきつい」「部活に参加できない」「頭が重くてテスト勉強に集中できない」……。「実際にはそこに存在しないが、『ある』と仮定して振る舞う」演劇の原理に、「妊娠による体調・体形・体重・知覚の変化」というレイヤーがもうひとつ加わる、秀逸な仕掛けだ。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


初演の出演者たちはプロのパフォーマーであり、嘔吐の苦しげなうめき声、膨れたお腹を抱えた歩行の困難さ、そして分娩の耐え難い痛みの表現は迫真的であった。一方、リクリエーション版の10代の出演者たちは、不快感や痛みを懸命に表現しようとするが、演技としてはぎこちなさや硬さが残る。だがその「懸命に想像しようとしているが、『リアル』に再現できない」ことのリアリティこそが、「演技としてのリアルさ」よりも『擬娩』という作品の核に迫るものだったと思う。「私に属するものであるのに、私の意思で完璧に制御できない不自由な身体の他者性」を否定せず、引きずったまま存在することこそが、「理不尽な身体的変容」としての妊娠・出産と通底するからだ。

ぎこちない身体を(文字通り)引きずる出演者たちとともに並存するのが、やんツーによる舞台美術=自動化された機械の運動だ。擬人化されたセグウェイが舞台上を徘徊し、「5人目の出演者」としてつわりや日常生活の変化を想像的に語る。ルンバが床上を旋回し、台車の上では臨月へ向かって赤い風船が次第に膨らみ、3Dプリンタが上演時間の90分をかけてゆっくりとリンゴの形を成形していく。舞台美術として効果的・多義的に作品に奥行きを与えていたのは初演の林葵衣の方だが、ドラマトゥルギーに回収されない「異物」と舞台上でどう共存するかという点から新鮮な投げかけを与えていた。

ラストシーン、初演では出演者たちは手枷をはめ、出産の国家的管理、生殖医療の高度発達や産業化、性暴力、「女性なら産むのが自然」という社会的圧力などを呪詛のように唱え続け、「管理と搾取と暴力と闘争の場」としての女性の身体をめぐる政治的力学へと一気に跳躍した。一方、リクリエーション版では、出演者たちは一列に並んで客席と相対し、「ははも ははのははも…そのまたははも はらんではるはらにはらはらしながらはるばるとつきとおか…」という言葉遊びの詩のような一節を唱和し、語感の軽やかさやリズム感も相まってポジティブな印象を残した。また、上演を通じて舞台中央にはスマホ画面を模したスクリーンが屹立し、つわりの症状緩和の検索に始まって、アドバイスのまとめサイトや出産経験を綴ったブログ、「#マタニティマーク」「#陣痛バッグ」などさまざまなハッシュタグが次々と表示され、痛みの緩和対策や便利アイテムなど妊娠・出産経験者からの膨大な助言が経験知の集合的蓄積として表示されていく。(何かに対して闘っているわけではないので「連帯」という言葉は適切ではないかもしれないが)それでもやはり経験知を共有する連帯的な場としてのネット=「現代の妊娠・出産」像を示していた。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]


このように何重にもアップデートされたリクリエーション版だが、最後に、ジェンダーの視点から批評的後退と感じられた2点について指摘したい。上述の「擬人化されたセグウェイ」は、「妊娠・出産から最も程遠い存在としての、性別のない機械身体」という点でポストヒューマン的な視点を切り開いたと言えるが、「女性の声」で話すことの意味や必要性がどこまで考慮されていたのか疑問が残る。「産む機械」の文字通りの実装による批判性が見えてこなかった。

また、「クライマックス」としての分娩シーンを担うのは、初演時は男優であったが、リクリエーション版では女子高校生に変更された。日常生活の再現マイムで「鼻歌を歌いながら鏡の前で楽しそうにメイクし、付き合っている彼と一緒に下校」する彼女の振る舞いは、「シスジェンダーかつヘテロセクシュアル女性であること」を強く印象づけ、出演者のなかで最も「妊娠・出産の現実的可能性が高い」人物にあえて担わせた点に疑問が残る。「他者の身体に起こったことを習俗/演劇のフレームを借りて想像的に引き受ける」ことが本作の要だが、いったん(機械を含めて)限りなく広げた想像の域を、再び「自然的性」(と想定されるもの)に閉じ込めてしまったのではないか。例えば、分娩シーンを複数人でリレー的に分担する、いっそセグウェイに演じさせてみる、などの選択肢もあったのではないかという思いが残る。



[撮影:白井茜 提供:KYOTO EXPERIMENT]



関連レビュー

したため #7『擬娩』|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年01月15日号)

2021/10/17(日)(高嶋慈)

池内美絵「コサージュ」

会期:2021/10/12~2021/10/17

KUNST ARZT[京都府]

展示の妨害や中止を訴える攻撃や嫌がらせに対し、作家は「作品の制作」という本領でもってどのように応答できるのか。

池内美絵の《コサージュ》は、薄緑色の紙でつくった菊の花のコサージュを、リバティプリントの布で仕立てた上品な小箱に収めた作品である。花びらの一枚一枚には印刷された文字が見え、ディティールを引き伸ばした写真作品を見ると、「トリエンナーレ」「除外」「率直なご意見」といった文言がうかがえる。


この《コサージュ》の素材は、2019年秋、ART BASE百島での企画展「百代の過客」に池内が参加した際、あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」の騒動が飛び火し、展示会場に何者かが置いた抗議ビラである。「百代の過客」展には、「表現の不自由展・その後」の出品作家の大浦信行と小泉明郎が参加し、ART BASE百島の設立者であり自身も出品した柳幸典は「国家」の虚構性を問う作品群を制作してきたことから、同様に抗議対象となった。

また、抗議は池内の作品の「素材」にも及んだ。池内はこれまで、自身の排泄物、尿、経血、恋人の精液などを素材に、「汚物」「不潔」と見なす価値観を裏切るような、美しく繊細で宝物のような造形作品をつくってきた。例えば、《アリス》はミニチュア人形を飲み込み、排泄後、バラバラになったパーツを組み立てたものだ。純白の花の輪の《リース》の素材は精液の染み込んだティッシュであり、経血は砂糖と卵白を混ぜてスイーツやバラのアイシングに仕立てられる。宝石や高級スイーツのように美しい化粧箱に丁寧に収められたそれらは、むしろ「愛おしいもの」「大切な宝物」として聖別化されている。そこには、特に女性の身体に対して一方的に向けられる「美/醜」「不快」「隠すべきもの」という価値判断に対して、「誰が私の身体(の一部)を『汚い』と判断するのか」という抗議が込められている。

このように池内の過去作品を踏まえて改めて《コサージュ》に眼を向けると、「右翼の攻撃を、彼らが絶対視して掲げる『菊の花』に転換する」という毒のあるユーモアとともに、より本質的な反転の操作が見えてくる。つまり、排除の論理や排斥しようとする力それ自体を「排除されるべき対象」に反転してしまう。そのうえで、そうした「他者や異物の排除の論理」を自らにも内在するものとして見つめ直し、咀嚼するのだ。それは、理不尽な暴力に対する、作家の本分による痛烈かつ誠実な応答である。さて、抗議ビラの主はこの《コサージュ》を胸に飾るだろうか。



[撮影:高嶋清俊]



[撮影:高嶋清俊]


2021/10/17(日)(高嶋慈)