artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

植田正治を変奏する RESEARCH/TRIBUTE

会期:2021/11/29~2022/01/29

写大ギャラリー[東京都]

植田正治の写真の仕事は、ほかにあまり類を見ないユニークなものだと思う。山陰の鳥取県に在って、ローカリティに根ざした風物を撮影し続けながら、その写真の世界はむしろグローバルに開かれていて、海外の評価も高い。題材、手法とも驚くほど多種多様で、写真の旨みをこれほど深く味わわせてくれる作家はあまりいないだろう。とはいえ、決して「上手い写真家」という範疇におさまることなく、写真作品を本格的に撮影し始めた1920年代から晩年に至るまで、常に新たな領域にチャレンジし続けていった。

今回の展覧会は、三男の植田亨氏所蔵のヴィンテージ・プリントと、東京工芸大学写真学科教授の田中仁のコレクションを中心に構成されている。「中学5年(昭和5年)カメラ雑誌の表紙で囲ってフォト・モンタージュ風に撮った。手にはピコレットを」と記された初期の実験作から、1983-1993年の「砂丘モード」の連作まで、会場に並ぶ65点の作品を見ると、ひとりの写真家の模索と探究の道筋が浮かび上がってくるように感じる。田中仁が展覧会に寄せた文章で植田のことを「研究熱心な写真家」と書いているが、単純な「研究」というよりは何かに取り憑かれているという印象が強い。今回の展示には、ヴィンテージとモダン・プリントが混在しているのだが、熟考を積み重ね、トリミングや焼きをかなり変更している様子が見てとれる。写真は彼にとって、汲み尽くしきれない表現意欲の源だったのではないだろうか。

今回の展覧会の白眉は、もしかするとギャラリーの外のスペースを使った「植田正治が遺したもの」のパートかもしれない。2021年に、田中仁が植田正治の生家を訪ねて撮影した遺品の写真が、壁にびっしりと並んでいた。手紙、色紙、原稿、アルバム写真、コンタクトシートなどに加えて、カメラ、暗室用品、蔵書などを撮影した写真もある。圧巻は、植田が生前に描いたドローイングやスケッチ類の複写で、画家としての才能も並々ならないことがうかがえた。不世出の写真家の作品世界を、さらに深く読み解いていくためのヒントがたくさん隠れているようで、とても心躍る眺めだった。

2022/01/08(土)(飯沢耕太郎)

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「開館20周年記念 菅木志雄展 〈もの〉の存在と〈場〉の永遠」展ほか

[岩手]

盛岡の出身ということで、もの派の菅木志雄の大型個展「開館20周年記念 菅木志雄展〈もの〉の存在と〈場〉の永遠」展が、《岩手県立美術館》(2000)で開催された。1960年代末からコロナ禍で制作された近作まで含み、およそ半世紀に及ぶ作品を時系列に沿って振り返える内容である。とくに初期から1980年代くらいまでの作品が緊張感を孕み、トンガっており、インスタレーションのみならず、平面系や、矩形のフレームを生かした作品も忘れがたい。また全体的な展示のレイアウトが巧みであり、これらも「もの」の関係性ととらえると、説得力を増すだろう。なお、展示室の外に設置された5作品も、ともすれば、空虚なヴォイドを持て余しがちになりかねない、日本設計が手がけた美術館の巨大な空間に対し、効果的な介入となっていた。屋外の作品は、山を背にしながら、雪景色の中にたつ。2階にあがって、常設エリアの新収蔵作品としては、地元の前衛作家である大宮政郎のほか、深澤省三の絵画《日蝕(アンコールトム)》(1963頃)、舟越親子の版画などが展示されていた。また特別室としては、作風を描き分け、意外に器用な萬鐡五郎、ならびに同級だった松本竣介と舟越保武の部屋が設けられている。



菅木志雄《斜位相》(1969)



菅木志雄作品。手前が《斜位相》(1975)、奥の床に《事位》(1980)



菅木志雄《集向系》(1998)



菅木志雄《集向》(2005)



常設の大宮政郎

郊外の住宅地に隣接しているために、自動車を使わない場合、アクセスがきわめて面倒なのが(最寄りのバス停だと、乗り換えパターン)、佐藤総合が設計した《岩手県立博物館》(1980)である。県立美術館のアクセスは、盛岡駅からのバスなら乗り換えなしだが、平日は1時間に1本より少ない(したがって、帰りはタクシーを使った)。むろん、当時は都心のごちゃごゃした環境と切り離し、丘の上の神殿のような存在をめざしていたわけだが、逆にいかに近年のミュージアム、特に美術館の立地が、金沢21世紀美術館の成功を受けて、街なか志向に変化したのかがよくわかる。ともあれ、長い大階段を登り、巨大なアーチをくぐると、博物館が視界に入るが、時代が近いせいか、その外観は《宮城県美術館》(1981)の打ち込みタイルを思いだす。雪に埋もれた公園のような敷地内で、屋外展示の《曲り屋》や《直屋》まで行くのは厳しい。さて、総合博物館だけあって、地質・考古・歴史・民俗・生物など、多岐にわたるジャンルを網羅し、内容は充実している。展示設計は丹青社や乃村工藝社が担当していた。テーマ展の「教科書と違う岩手の歴史─岩手の弥生~古墳時代─」は、日本全体を一枚岩ととらえず、地域の偏差に注目しており、興味深い視点である。なお、東日本大震災からもう10年以上がたつが、現在も被災文化財の修復作業を、別棟のプレハブで継続していたことが強く印象に残る。



岩手県立博物館



岩手県立博物館への道


「開館20周年記念 菅木志雄展 〈もの〉の存在と〈場〉の永遠」

会期:2021年12月18日(土)〜2022年2月20日(日)
会場:岩手県立美術館
(岩手県盛岡市本宮字松幅12-3)

コレクション展

会期:2021年10月23日(土)〜2022年1月23日(日)
会場:岩手県立美術館

「テーマ展 教科書と違う岩手の歴史—岩手の弥生~古墳時代—」

会期:2021年11月23日(火)〜2022年2月6日(日)
会場:岩手県立博物館
(岩手県盛岡市上田字松屋敷34)

2022/01/07(金)(五十嵐太郎)

生誕120年 木村伊兵衛回顧展

会期:2021/11/13~2022/01/23

秋田県立美術館[秋田県]

木村伊兵衛の写真を秋田で見ることには特別な感慨がある。1920年代以来、50年以上にわたる彼の写真家としての経歴をたどり直すと、1952年に「第5回秋田県総合美術展覧会」の写真部門の審査に招かれて以来、1971年まで21回にわたって繰り返し秋田を訪れて撮影した「秋田シリーズ」は、質量ともに最も充実したものといえるからだ。ところが、これまで「秋田シリーズ」を含む木村伊兵衛の代表作を秋田で見る機会はほとんどなかった。その意味で、今回の「生誕120年 木村伊兵衛回顧展」は、特別な意味を持つ展覧会といえる。

展示の全体は、「夢の島──沖縄」「肖像と舞台」「昭和の列島風景」「ヨーロッパの旅」「中国の旅」「秋田の民俗」の6部、132点で構成されている(カタログを兼ねた写真集『木村伊兵衛 写真に生きる』(クレヴィス、2021)には177点を収録)。写真家としての初心を生き生きとさし示した「夢の島──沖縄」から、生涯を締めくくる大作「秋田の民俗」まで、広がりと膨らみを備えた写真世界を堪能することができた。こうしてみると、木村の写真の真骨頂が、人間、とりわけ集団(群れ)としての人間の姿をとらえることにあったことがよくわかる。彼の写真に写っている人間たちは、多くの場合、孤立した個ではなく、互いに結びつき、影響を与え合っている。彼らの表情や身振りなどによって開示される、ダイナミックな関係性、生命力の発露が、融通無碍なカメラワークで見事に切り取られているのだ。木村伊兵衛の「名人芸」についてよく言及されるのだが、単純にシャッターチャンスや構図の素晴らしさだけでなく、人間観察、人間探求の凄みを味わうべきだろう。

今回の秋田県立美術館の展覧会では、3階のギャラリー・スペースで「秋田の写真家たち」と題して、岩田幸助、千葉禎介、大野源二郎の作品、38点が特別展示されていた。秋田県在住の3人の写真家たちは、1952-71年の木村伊兵衛の秋田滞在に際して案内役を買って出て、行動を共にしていた。たしかに、題材、スタイルにおいて、木村の影響を強く受けていることは否めない。だが、そこには秋田という土地に根ざして活動してきた写真家たちに特有の、被写体との細やかで、息の長いかかわりのあり方が、しっかりと写り込んでいる。木村伊兵衛と秋田の写真家たちとの関係のあり方については、次世代の写真家たちも含めて、あらためてより大きな規模での展覧会が考えられそうだ。

2021/12/28(火)(飯沢耕太郎)

わたしは思い出す 10年間の育児日記を再読して

会期:2021/12/04~2022/01/17

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]

「震災の記憶の継承」の試みを、ある女性が綴った「育児日記」という極私的な視点をとおして行なうこと。そこに、「日記の再読」「記憶を再び言葉で語り直す」という時差をはらんだ作業を加えることで、日々の感情の起伏のなかに「震災からの距離」を計測すること。思い出すこと、思い出したくないこと、忘れてしまったことの揺らぎのなかに身を置くこと。そこには同時に、直線的な時間の流れ/回帰する記念日の反復性、未来において「過去」として想起される「現在時」など、記憶と時間についての抽象的な省察も含まれる。その作業を、観客の身体経験をとおして共有へと開いていくこと。これらの結節点を描く本展は、秀逸かつ極めて意義深い試みだ。

本展は、2021年2月~7月にせんだい3.11メモリアル交流館で開催された企画展「わたしは思い出す 10年間の子育てからさぐる震災のかたち」の神戸巡回展であり、建築家ユニットのdot architectsが手がける新たな会場構成で展示された。企画者のAHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]はこれまで、家庭や地域に保存された8ミリフィルムや家族アルバムなど、個人的記憶に着目したアーカイブ活動を行なってきた。特に、ゾウの「はな子」とともに写った記念写真を募集し、撮影日の飼育日誌と写真提供者へのインタビューを並置した書籍『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』(武蔵野市立吉祥寺美術館、2017)や、戦時中に子どもたちが戦地の兵士に書き送った「慰問文」を書き写すプロジェクト「なぞるとずれる」では、動物園の人気者のゾウや慰問文という共有化された装置の向こうに、個人史と記憶の集合体としての「日本人の戦中/戦後」像が浮かび上がってくる。



[撮影:AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]]


本展では、仙台の沿岸部に暮らし、震災の9カ月前、第一子を出産した2010年6月11日から育児日記を付け始めた女性が、10年間の日記の再読をとおして語り直した言葉が提示される。それらは「わたしは思い出す、○○○○○を。」というシンプルなフレーズに統一され、断片性や余白が逆に想像力をかき立てる。冒頭には、出産日を「1」とした経過日数が数字で淡々と示されるのみで、具体的な日付はない。だが、30あるいは31ずつ加算されていく数字の列は、わが子の誕生の日付であると同時に震災の月命日でもある「毎月11日」の反復と時間の積層を示す。



[撮影:AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]]


切り詰められた言葉は、とりとめのない日常の断片のなかに、子どもの成長や親離れの瞬間が垣間見える(「549 わたしは思い出す、ステージへ行こうとひっぱる手を。」「1766 わたしは思い出す、まったく振り返らなかったことを。」)。食卓の光景、休日のお出かけ、季候、初めての制服やランドセル。そのなかに混じって、震災の痕跡が間欠泉のように突然顔を出す(「701 わたしは思い出す、ダッシュボードの罹災証明書を。」「2285 わたしは思い出す、常盤道から見えた原子力発電所を。カーテンをかけた。」)。あるいは、日常の光景のなかに不穏な影がよぎるような予感を与えるフレーズもある(「824 わたしは思い出す、ピッ、ピッ、ピッを。」「1645 わたしは思い出す、絵本を持つ手が震えていたことを。」)。2000台、3000台と数字は続き、第二子の誕生が示され、忘却もまた語られる(「2741 わたしは思い出す、忘れてしまうということを。」)。各数字に対応するエピソードの詳細を記した配布資料も用意され、会場内や帰宅後に詳しく読むことができる。



[撮影:AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]]


本展の秀逸さは、各数字とフレーズを、高さ2.7メートルの木材に縦一行で記し、等間隔でずらりと二列に並べた展示構成にある。一見すると、柵や檻、視界を塞ぐ壁を思わせるそれは、ベビーベッドの柵であり、被災した沿岸部につくられた巨大な防潮堤であり、規則的に刻まれる人生の里程標であり、日常の崩壊を防ごうとする心理的な防壁でもある。だが、この「柵=壁」を一周し、中へ入ると、全体が「ハ」の字型になった通路でもあったことがわかる。開けた視界のなか、私は文字を追いながら奥へと進む。そのとき、「日記」という他人に見せることを前提しない個人的な記録は、時間の歩みを歩行で辿る身体化された行為を介して、記憶を共有するための「通路」としてまさに開かれていくのだ。



[撮影:AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]]


ここで興味深いのは、最後の10本が、「3958 わたしは思い出す、   」「3988 わたしは思い出す、   」というように、「空白」のまま示されている点である。記述のラストは、震災から10年目の2021年3月11日を振り返った「3927 わたしは思い出す、誰もいないダイニングで10年前に書いた日記を読み返したことを。」で終了している。この「3927」からさらに30~31ずつカウントされていく数字の列は「4233」で終わり、本展会期終了の2022年1月11日に対応する。空白のまま積み上げられていく数字の列は、「日記の再読作業」終了後も続いていく彼女の人生を表わす。その「空白」は、まだ見ぬ未来の可能性であると同時に、「現在」がやがて記憶の書き込みを待つ余白であること、さらには忘却や、言語化・共有の不可能性の謂いでもあり、多義性に満ちている。「わたしは思い出す、」のリフレインはまた、トラウマ的な記憶の反復的な回帰をも思わせる。「忘れない」ではなく、「思い出す」。その繰り返しがはらむ揺らぎと苛烈さを、本展は神戸というもうひとつの震災の地で示していた。

なお、本企画をまとめた書籍『わたしは思い出す』が、2022年3月に刊行予定されている。


*書籍『わたしは思い出す』の刊行予定は2022年6月11日に変更されました。(2022年1月21日編集部追記)

公式サイト:https://aha.ne.jp/iremember/

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2021/12/24(金)(高嶋慈)

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石原友明「蝿とフランケン」

会期:2021/12/04~2021/12/29

MEM[東京都]

石原友明がこのところずっと続けている「自画像」シリーズが、よりスリリングな展開を見せはじめた。2016年にMEMで開催された個展「拡張子と鉱物と私。」では、頭髪をスキャンしたデータをプリントしたり、3Dスキャンした自らの身体の部位をスライスして重ね、再構築したりする作品を発表した。今回の個展では、その作業をさらにエスカレートさせている。

「I.S.M.―代替物」では、3Dプリンタで1.7倍の大きさに拡大した身体のパーツを、あたかもフランケンシュタイン博士が死体をつなぎ合わせて人造人間を作り上げるような手つきで積み上げてみせた。さらに、もうひとつのシリーズ「犠牲フライ」では、死んだ蝿をフィルムの上に無造作に並べてフォトグラムを作成し、それをポジに転換してプリントしている。さらに別室には、皮の球体をつなぎ合わせた自作の彫刻作品を、口からぶら下げるように装着して撮影したセルフポートレート作品「Ectoplasm#4」も展示されていた。

これらの仕事から見えてくるのは、自らの身体を、素材として徹底的に解体・消費・再構築していこうとする石原の志向性である。あたかもマッド・サイエンティストのような、ナルシシズムのかけらもないその作業によって、身体とは、生から死に向かうプロセスの一断面を掬いとった状態でしか提示できないことが多面的、多層的にさし示されていく。スキャナーや3Dプリンタのような、デジタル機器を積極的に使用することによって、以前にも増して自由な発想を形にすることが可能になってきた。まだこの先に、思いがけないやり方で、新たな身体性を開示する表現が出てくるのではないかという期待がふくらむ。

2021/12/23(木)(飯沢耕太郎)