artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

「WHITE 桑山忠明 大阪プロジェクト」展

会期:2011/06/18~2011/09/19

国立国際美術館[大阪府]

国立国際美術館の「WHITE 桑山忠明 大阪プロジェクト」展。大きなスペースに多くの作品を置くのではない。例えば、片面の壁だけを使う。ここまで展示の余白をとらせてもらえるとは、なんとも贅沢な展示だ。ある意味ではほかの作品の排除であり、共存不可能ということだが。ほとんど白い(しかし、違う)表面の作品が反復しつつ並び、むしろそれを包み込む空間が作品化されている。

2011/07/23(土)(五十嵐太郎)

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藤岡亜弥「Life Studies」

会期:2011/07/23~2011/08/20

AKAAKA[東京都]

ニューヨークに居を移して活動している藤岡亜弥の里帰り展である。帰国に合わせて急遽企画された展示だったが、なかなか面白かった。近作の「Life Studies」はニューヨークでの日々の暮らしを綴ったもので、光と影のくっきりとしたコントラストの合間にヒトやモノが寄る辺なく浮遊している。どこで撮影したとしても、光景の片隅へ、片隅へと視線が動いていくのが藤岡の写真の特徴で、その先に現われてくる眺めが、時に傷口を逆なでするような痛みをともなって迫ってくる。タイトルはアメリカの小説家スーザン・ヴリーランドの伝記小説のタイトルを借用したもの。内容的には小説と直接のかかわりはないが、「生の研究」というのは、藤岡の写真家としての基本姿勢といえるのではないだろうか。
同時に展示されていた「アヤ子江古田気分」は、また別な意味で感慨深かった。藤岡は日大芸術学部写真学科に入学した1993年から、8年間にわたって江古田の小さな家の2階で暮らしていたのだという。階下には大家でもある82歳のおばあさんが住んでいた。西陽がきつく射し込む、一畳半の板張りの暗室がある部屋の、どこか奇妙に歪んだ日々の記憶が、ニューヨークであらためて焼き直したというプリントから浮かび上がってくる。誰もが身に覚えがありそうな、不安と希望と悔恨とが複雑にブレンドされた微妙な味わいの日常の断片だが、のちに写真集『さよならを教えて』(ビジュアルアーツ、2004)、『私は眠らない』(赤々舎、2009)で開花する彼女の才能が、既にしっかりと表われている。
なぜ個人的に感慨を覚えたかというと、今回展示された写真の何枚かは僕が最初に藤岡に会った時に見せられたものだったからだ。じわじわと食い込んでくるような写真に妙に引きつけられて、当時編集していた女性写真家16人のアンソロジー写真集『シャッター&ラヴ』(インファス、1996)に収録した。それが藤岡の写真家デビューだったわけだ。これらの写真を見ていると、もうこの時点で彼女の「Life Studies」が開始されていたことがよくわかる。

2011/07/23(土)(飯沢耕太郎)

堂島リバービエンナーレ2011「Ecosophia─アートと建築」

会期:2011/07/23~2011/08/21

堂島リバーフォーラム[大阪府]

哲学者のフェリックス・ガタリが提唱した「エコゾフィー」という概念に基づき、美術家と建築家がコラボレーションを行なった本展。まずは肝心の「エコゾフィー」を理解するのが筋だが、なまかじりでは敵わないことがわかり、早々に降参して会場へと出かけた。美術家と建築家のコラボにもさまざまなかたちがあり、巨大な構築物をつくり上げた展示も見られたが、私自身は建築家が前に出ない展示の方が相性がよかった(例えば、大庭大介さんの展示)。展示は、アニッシュ・カプーアの建築模型のような立体を中心に、地圏、水圏、空圏の3ゾーンが緩やかに連続する形態だったが、3圏の違いや役割についてはあえて明確にしておらず、私自身の「エコゾフィー」への理解不足もあって曖昧な印象がぬぐい切れなかった。ただ、大阪ではこの手の大規模な現代美術展が少なく、しかも美術家と建築家とのコラボなど皆無の状況なので、本展の開催自体は大いに歓迎である。

2011/07/22(金)(小吹隆文)

空っぽ「ぽんぽこりん♪」Vol.3

会期:2011/07/22

Social Kitchen[京都府]

月に一度、ほぼ定期的に開催されている、サウンドアーティストの鈴木昭男とダンサー宮北裕美による音とダンスの即興セッション。去年、別の会場でも見たことがあるのだが、お互いの動作を観察しながら繰り広げられるそのパフォーマンスは激しいものではなく、ゆったりとしたスピードで行なわれる。やや退屈な時間があったり小さなアクシデントがあったりもするのだが、それも愛嬌で、むしろこの二人のライブの魅力だ。「あきにゃん」こと鈴木昭男のコレクションから引っ張りだされてきた民族楽器や創作楽器の軽快な音と、宮北裕美のしなやかな体の動きを見ていると、疲れた自分の体もすっきりとしていく気分になるのが嬉しい。カフェではこの日のスペシャルメニューも用意されていた。食べなかったことを後悔。


宮北裕美(ダンス/手前)と鈴木昭男(音/奥)

2011/07/22(金)(酒井千穂)

八木清「sila」

会期:2011/07/01~2011/08/27

フォト・ギャラリー・インターナショナル[東京都]

八木清は1994年から15年以上にわたって、アラスカ、カナダ、グリーンランドなど、北極圏の厳しい自然の中で生きるイヌイットの人々とその暮らしの諸相を撮影してきた。今回のフォト・ギャラリー・インターナショナルでの展示は、その集大成というべきものである。タイトルの「sila」はイヌイット語で「外にあるものすべて」を意味するが、世界や宇宙そのものの秩序を表わす言葉であるともいう。
8×10インチの大判カメラを被写体の正面に据える、きわめて厳格かつ緻密な手法で撮影されたネガは、19世紀から20世紀初頭にかけて広く用いられたプラチナパラジウムプリントに焼き付けられている。その結果として、八木の写真はきわめて古典的な記録写真のように見えてくることになった。ただし、たとえそれが19世紀末から滅びゆくネイティブ・アメリカンたちの姿をとらえたエドワード・S・カーティスらの写真を思わせたとしても、八木のスタイルは彼らとは異なっているのではないだろうか。カーティスのロマンティシズム、あるいは他の人類学者たちの被写体を上から見おろすように分類していくような視点は彼にはない。八木の写真はもっとつつましやかなものであり、そこには被写体をリスペクトする姿勢が貫かれている。
それがもっともよく表われているのは、イヌイットの人々の生活用具を撮影した写真群であろう。儀式に使う仮面や道具、ホッキョクグマの毛皮のブーツ、水鳥の足を縫い合わせた籠、さまざまな形の銛やナイフなどは、簡素な、だが力強い造形美を強調して丁寧に撮影されている。また雪上に凍りついたホッキョクギツネの死骸やトナカイの頭骨なども強い存在感を放つ。だが、ポートレートや風景では、その古典的な手法が諸刃の剣になっているようにも感じた。実際に被写体の前に立った時の八木の感情の震えが、隅々まできちんと整えられた画面からは伝わってこないのだ。あえて、頑固に「時代に逆行するかのような手法」を貫き通しているのはよくわかるのだが、20世紀末から21世紀にかけての現在の空気感をもっと取り込んだとしても、彼の仕事のクオリティは充分に保てるのではないだろうか。
なお、展覧会の開催にあわせて、写真集『sila』が限定400部でフォト・ギャラリー・インターナショナルから刊行された。印刷に気を配った、ゆったりとした造本の大判写真集である。

2011/07/21(木)(飯沢耕太郎)