artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

高嶺格:とおくてよくみえない

会期:2011/01/21~2011/03/20

横浜美術館[神奈川県]

最初の展示室で最初に見た作品は、縦長で全面が朱色、上のほうに3つの白い十字形を配した大きめのタブローだった。まずここで頭のなかは「???」。キツネにつままれた状態で歩を進めると、植物パターンの装飾あり、ストライプ模様の抽象あり、フランク・ステラばりのシェイプトキャンヴァスもあって、じわじわと口元がゆるんできた。これは毛布ではないか。毛布をパネルに張ってタブロー化し、それらしきタイトルと作品解説をつけたものなのだ。いやーこれはハメられた、というより、ツボにハマってしまった。別にこの手の作品は珍しいものではないが、ここでは観客が1点1点見ていくうちに徐々に気づいていくよう配置や点数、見るスピードまで計算し、そこで絵画とはなにか、美術館はなにをどのように価値づける場所なのかといったことにまで思いを巡らせるように仕向けている、その手法がじつに巧みなのだ。次の展示室は、2005年の横浜トリエンナーレにも出品された《鹿児島エスペラント》の新ヴァージョン。トリエンナーレのときはゆっくり見る雰囲気ではなかったので、ここでは心ゆくまで堪能。床に土や廃品が置かれ、そこにレリーフ状の文字が並べられ、スポットライトがその文字を追って文章を読み取らせる仕組みだが、これもスポットライトのスピード、音楽のリズム、文章から読みとる意味が見事にシンクロしていた。その後も新作・旧作いくつかあったが、もうこの2部屋で十分満足してしまった。

2011/02/10(木)(村田真)

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北川健次「リラダンの消えた鳥籠」

会期:2011/02/09~2011/02/27

tmh.SLEEP[東京都]

北川健次はキャリアのある版画家、オブジェ作家。以前から作品のなかに写真が登場することが多く(例えばマイブリッジの動物の動きの連続写真)、しかもそれがとても的確に使われているのに注目していた。写真にかなり関心があるとは思っていたのだが、すでに何度か個展の形で写真作品を発表しているということを本人からうかがってびっくりした。今回の個展で発表された作品を見ると、たしかに余技の範囲を超えた仕事である。
恵比寿の瀟洒なジュエリー・ショップの壁に並んでいるのは、2年前にヴェネツィアで撮影したというスナップショット。建築物、彫刻、衣裳などの一部を自在に切り取って、光と影のコントラストの強いモノクローム(一部カラー)の画面にまとめている。プリントの段階で画像を重ねている作品もあるが、むしろストレートなプリントの方が多い。版画やオブジェ作品のように、コラージュ的にイメージを繋ぎ合わせたり衝突させたりする効果を狙うよりも、カメラのファインダーに飛び込んでくる被写体を狙い撃ちしているという印象だ。偶発性に身をまかせる方が、スナップとしての強度は上がってくるという逆説をきちんと踏まえているということだろう。「〈写真〉とは、夢と現実とのあわいに揺蕩う、一瞬の光との交接である」。案内状に記された北川のコメントだが、その通りとしかいいようがない。写真家としての構えが最初からきちんとできあがっているということがわかる。イタリアやフランスに題材を求めるのもいいが、むしろもっと日常的な場面に「一瞬の光との交接」を探り当ててほしいとも思う。
なお、会場の隣室にあたるLIBRARIE6でも同時期に北川の「十面体─メデューサの透ける皮膚のために」展を開催している。こちらは手慣れた版画+ドローイング作品だが、写真作品とはまた違った錬金術的なイメージ操作を愉しむことができた。

2011/02/10(木)(飯沢耕太郎)

横田大輔「indication」

会期:2011/02/07~2011/02/24

ガーディアン・ガーデン[東京都]

横田大輔は第2回写真「1_WALL」展(2010年)のグランプリ受賞者。小山泰介、和田裕也、吉田和生ら、僕が「網膜派」と呼んでいる写真家たちに共通する作風の持ち主だ。デジタルカメラを使い、あまり強固な意味を派生しない被写体の触覚的な要素を強調して撮影し、アトランダムに並べていく。結果として、観客は網膜の表層を引きはがしてそのまま提示したような画像の集積を見ることになる。横田の場合、その作業はかなり意識的に為されていて、どうやら動画モードで撮影した画像から選択してプリントしているようだ。ボケ、ブレ、画像の傾き、ストロボ光による極端な明暗のコントラストなどを多用することで、日常的な視点に違和感を生むのも彼らに共通する手法だ。
大小のプリントを虫ピンで壁に止めていく展示構成は、なかなかスタイリッシュで決まっている。悪くはないのだが、ただセンスがいいだけではこれから先が難しくなりそうだ。展覧会に合わせて発行された小冊子に彼が書いていたエピソードが面白かった。電車の中でたまたま見かけた男女を、横田はてっきり兄妹だと思っていたのだが、実はまったくかかわりのない女の子とストーカー的な男の組み合わせだったというちょっと不気味な話だ。こういう日常的なズレの感覚と「網膜派」の手法を、もっと積極的にかかわらせてみるのはどうだろうか。横田にはいい観察力と、言葉を的確に綴る才能も備わっているようなので、逆に画像の意味づけを強めて「物語」を構築していくと、独特の作風に育っていきそうな気もする。

2011/02/09(水)(飯沢耕太郎)

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わくわくSHIBUYA

会期:2011/01/13~2011/02/13

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

未来美術家の遠藤一郎がコーディネートする「わくわくプロジェクト」の展覧会。トーキョーワンダーサイト渋谷の決してそれほど大きくない空間に、有象無象の表現者たちによる作品が文字どおり鮨詰め状態で展示された。壁面と床はもちろん、階段の途中やその手すりなど、見過ごされがちな空間の隙間まで存分に使い切るエネルギーは凄まじい。原色と安価な素材による作品が多いのは、「100均的」というか「ドンキ的」というか、いずれにせよいま現在の同時代的リアリティーを体現しているのだろう。それらを学園祭的な祝祭性によって一気に爆発させる狙いはわからないではない。けれども、その一方で、若干の物足りなさを覚えないでもない。「わくわくプロジェクト」が現代アートの底辺に仕掛けられた爆発だとすれば、もっとも肝心なのはその爆発によって生まれる新たな遠心力ではないか。「わくわくプロジェクト」の内部で安穏とするのではなく、外部へと躍り出ていくこと。これまでの充実した成果を踏まえれば、すでにその段階に進んでいておかしくはない。

2011/02/08(火)(福住廉)

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小林礫斎 手の平の中の美~技を極めた繊巧美術~

会期:2010/11/20~2011/02/27

たばこと塩の博物館[東京都]

これはすごい。いま超絶技巧という言葉は乱用されているきらいがあるが、それはこの人のためにこそ用いられるべきと誰もが思い改めるにちがいない。礫斎(れきさい・1884-1959)がつくり出したのは、文字どおり手のひらに収まる驚異のミニチュア。茶道具や香箪笥をはじめ、筆、箸、茶碗、火鉢、灰ならし、算盤、印鑑、パイプ、杖など、礫斎は日常的な実用品の数々を細部まで忠実に再現しながらサイズダウンしてみせた。この展覧会は繊細で巧みな造形物という意味で礫斎みずから命名したという「繊巧美術」と、礫斎を中心に極小の工芸品を集めた旧中田實コレクションの中から選りすぐりの逸品などをあわせて一挙に公開するもの。ガラスケースに入れられた極小の造形物を見入る来場者たちは、眼精疲労をもろともせずに驚愕の溜息をあちこちで漏らしていた。注目すべきは、礫斎がただひとりで制作していたわけではなく、礫斎を中心とした職人たちによる共同制作だったこと。それぞれの職人の固有名が溶け合うほど、強い共同性が結ばれていたらしい。しかも、その共同制作を繰り返していくうちに次第に極小への欲望が極限化していく様子がわかる展示になっているのが、おもしろい。百人一首をすべて並べた豆本や爪先にも満たないほどの独楽、当然指には入らない真珠指輪など、職人たちの関心が手のひらから指先へと先鋭化していくのだ。米粒に写経するのは、なんとかまだわかる。けれども、米の籾殻の中に大黒様と恵比寿様を彫り出した微細な象牙を収めた作品を目の当たりにすると、文字どおり開いた口がしばらくふさがらない。狂気と紙一重の創作だったからこそ、後世に残る美術となりえたのだろう。

2011/02/08(火)(福住廉)

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