artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

多摩川で/多摩川から、アートする

会期:2009/09/19~2009/11/03

府中市美術館[東京都]

河口龍夫と同じく、学生時代に『美術手帖』かなにかの図版で見た高松次郎の《石と数字》と、山中信夫の《川を写したフィルムを川に映す》がなつかしい。前者は河原の石に数字を振っていく作品、後者は文字どおり川面を写したフィルムをもういちど川面に映写するイベントで、どちらも無意味な反復や自己言及を繰り返す点で、1970年前後の閉塞的な時代状況を反映している。こうした行為がなぜ隅田川や荒川ではなく、新興の多摩川で行なわれたかといえば、河原が広くて自然が残されていたからということに加え、当時は藝大よりずっと先端的だった多摩美が二子玉川にあり、また近辺にスタジオを構える作家たちが多かったからだろう。

2009/10/27(火)(村田真)

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東京ミッドタウン・アワード2009

会期:2009/10/23~2009/11/03

プラザB1Fメトロアベニュー(東京ミッドタウン)[東京都]

デザインとアートの2部門のコンペで、受賞作品を通路のショーウィンドーのなかに展示している。デザインのほうは「日本の新しい手みやげ」をテーマに、1,322点の応募作品中9点が選ばれた。たとえば、ビールを注げば泡が冠雪に見える裾広がりの《富士山グラス》、気軽に料理を盛りつけられる組み立て式の紙皿《笹船DISH》、羊羹がちょんまげのかたちをしている《チョンマゲ羊羹》など、ウィットに富んだアイデアが多い。ただ昔の「王様のアイデア」を思い出してしまうが。355点の応募作品から4点が選ばれたアートは、彫刻、映像、LEDの光と表現も多彩だったが、いまひとつ決め手に欠けるような印象。村田真賞は、自家製の陶器をはじめ書画骨董をめいっぱい並べた福本歩かな。

2009/10/27(火)(村田真)

藤浩志“Toys Saurus”

会期:2009/10/17~2009/11/21

MORI YU GALLERY[京都府]

近年の藤浩志といえば「かえっこ」プロジェクトに代表される“アートプロジェクトの人”という印象が強い。そんな彼が個展を行なうのは意外な気もした。実際、関西での個展は1993年の芦屋市立美術博物館以来ではなかろうか。作品は、玩具やガラクタを合体させて作った怪獣やお城、乗物など。これまでの活動で発生した廃棄物を上手にリサイクルしつつ、アーティストとしての一貫性を保っている。同時にドローイングも多数発表。意外な(といっては失礼か)絵の上手さにも軽い驚きを覚えた。

2009/10/27(小吹隆文)

入口卓也 ceramic works「はじまりは今」

会期:2009/10/23~2009/10/28

AD&A gallery[大阪府]

複数の陶土の塊を投げつけたかのように合体させ、両手で張ったテグスでカットした陶オブジェ(やきものなので、当然内部は空洞に加工されている)。岩石を連想させるそのフォルムはどこか人為を越えた魅力を放っており、火山地帯の奇景やイヴ・タンギーの絵画を連想させる。床の間に飾ったら似合いそうだし、逆にモダンリビングの部屋でも異彩を放ちそうだ。茶道家や華道家とコラボして新たな可能性を引き出すのもきっと楽しいだろう。

2009/10/26(小吹隆文)

多摩川で/多摩川から、アートする

会期:2009/09/19~2009/11/03

府中市美術館[東京都]

タイトルが示しているように、アートの現場としての多摩川をテーマとした企画展。中村宏らによる観光芸術研究所の「第1回観光芸術展」(1964年)をはじめ、高松次郎の《石と数字》(1969年)、山中信夫による《川を写したフィルムを川に写す》(1971年)、蔡國強の《Project for Extraterrestrials No.1: 人類の家》(1989年)などを振り返ることによって、作品を発表する場ないしは作品を制作する場としての多摩川をクローズアップした。絵画や写真、映像などバラエティに富んだ展示は見応えがあったが、会場を後にして思い至ったのは、作品を廃棄(焼却)する場としての多摩川が展示に含まれていないという重大な欠陥に加えて、そもそも多摩川に限らず現在の河川敷がはたしてどこまでアートの現場となりうるのかという大きな疑問だ。一日限りとはいえ、大きな看板絵を持ち込み、広い土地を展覧会場に見立てた「第一回観光芸術展」がとても現実とは思えないほど、現在の河川敷は徹底的に管理されている。だが、ほんとうに問題なのは、行政による管理の締めつけなどではなく、本来的に誰もが自由に使えるはずの河川敷という空間を表現の現場として活用しようと考えるアーティストが、遠藤一郎らによる「ふつう研究所」などわずかな例外を除いて、意外なほどに少ないという事実である。コマーシャル画廊や美大、そして美術館といった制度が期待されているほどには成熟できていない今こそ、河川敷という本質的に何もない荒野で自らの表現の強さを賭けるべきではないのだろうか。

2009/10/25(福住廉)

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