2019年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

松本欣二「媽媽(まま)」

会期:2019/03/28~2019/04/10

大阪ニコンサロン[大阪府]

昨年、KUNST ARZTで開催されたグループ展「家族と写真」で見て注目していた写真家、松本欣二の初個展。「媽媽(まま)」は、10歳の時に何者かに殺害された台湾人の母親との関係を、虚実を曖昧にする写真の力によって再構築する試みである。同展での展示をベースに構成を練り上げ、プリントも大きくなり、見応えが増した。とりわけ、展示を左周りに一巡すると、導入部がラストとループするように重なり合いつつも、新たな意味の再獲得をもって体験される展示構成が秀逸だ。

偶然にも、隣接するニコン運営のスペース、THE GALLERY大阪で同時期開催の「平間至写真館大博覧会」も「家族」をテーマにしていたが、松本の作品との対照性が際立っていた。平野が営む写真館で撮影されたポートレートの多くは「家族写真」だが、「記念写真」の形式性や真面目さといった常識を覆すポップな軽快さに満ちており、寝そべる、ハグし合う、変顔でおどける彼らは、明るく幸福感に溢れた「幸せな家族」の広告の公募モデルを嬉々として務めてみせる。それは、広告写真の演出としても、「家族=幸福」という図式の分かりやすさにおいても、より多くの「いいね」をもらえる写真である。


会場風景

一方、松本の写真の出発点には、「欠落」と「疎外」が根差している。作品は、1)自身の幼少期のスナップや新聞記事といったドキュメント、2)母親の足跡や記憶の「再現」、3)台湾への墓参り、4)現在の自身の家族のスナップから構成される。1)では、幼少期に撮られた3点の写真、母親と一緒に作りに行ったというパスポート、殺害事件を報じる新聞記事といった過去の出来事の証左が複写される。幼少期の写真は「花火」「樹をバックに」「卒園式」という家族スナップの定番で、幼少期の松本が一人だけで写っていることから、撮影者は母親かと推測される。だが、幼い顔には笑顔はない。短い解説文によると、松本は「日本生まれだが、父親は知らず、母親はほとんど家にいず、台湾人ということもあってあまり会話もなく、思い出も少ない」と言う。2)では、そのわずかな記憶を辿り直すように、「母がよく行っていたホテルや喫茶店」「よく頼んだホットミルク」「母が作ってくれた料理で好きだったもの」「住んでいたアパートの扉」「最後に吸ったタバコ」といった断片が「再演」され、証拠写真のように差し出される。現場検証、記憶の再現と反復。だが、いくら辿り直してもそれらは「断片」「欠片」にすぎず、記憶の全体像が回復されることはない。


会場風景

そして、3)台湾への墓参り、骨壺やお供えの花のショットを挟んで、4)現在の自身の家族のスナップが展開されていく。死と不在から(再)生へ向かう展開だが、その眼差しは疎外感や距離感を含み、手の届かなさ、掴めなさをむしろ強調する。カメラに向かって笑顔で歩み寄るのではなく、画面奥の親戚の方へハイハイする、表情の見えない息子。母(妻)と息子のスキンシップは、手前の物越しに捉えられ、母子の幸福な触れあいは、確かにそこに存在するものとして写されつつも、自らはその領域に立ち入ることが拒まれている。あるいは、母(妻)と手をつないだ息子は、電車のドアという遮蔽物を挟んで撮影され、息子の顔はステッカーに隠されて見えない。そして、このまま走り去って視界から消えそうな、遠く小さな息子の後ろ姿。


会場風景

そして最後に、「入園式」「花(樹)をバックに」「花火」という、自身の幼少期の写真と似たシチュエーションの息子のスナップが、時間を巻き戻すように、あるいは記憶のフラッシュバックのように繰り返される。自分の幼少期と同様、子どもの成長を記録する「定番の撮影ポイント」を反復し、成長していく息子。写真という装置によって、自身の幼年期と息子への眼差しが重ね合わせられていく。その時、残された写真は、「’91」という過去の具体的な年月を烙印のように刻印されつつ、不可解な遺物(自身が写されながらも容易に接近しえない異物としての過去)であることをやめ、「自分もまたこのように愛情を受けて育ったのだ」という肯定感へと歩み出す。二つの写真群は、写されたシチュエーションにおいて重なり合いつつ、円環が閉じるのではなく、新たな意味の獲得の下に眼差され、変容し、異なる軌道を進み始める。息子の写真もまた、松本自身の自己投影という呪縛から逸れて、自身の生の刻印としての第一歩を歩み始めるだろう。ひとつの映画を見終えたような感覚を与える「媽媽(まま)」は、そこへ至るまでの長い道程の記録である。同時にそれはまた、「被写体である自身に他者性を見出し、あるいは写された他者に自己投影する」という、自他の境界や時制を飛び越えて憑依的に融解させる、写真自体の狂気にそっと触れている。


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2019/04/08(月)(高嶋慈)

大西みつぐ「まちのひかり」

会期:2019/03/26~2019/04/15

ニコンプラザ新宿 THE GALLERY[東京都]

平成の終わりということで、その前の時代、昭和が話題になることも何かと多くなった。ただ、どちらかといえばその風潮は、古き良き時代を懐かしむ「ノスタルジー」の方向に傾きがちだ。大西みつぐの個展「まちのひかり」にも、そんなふうに受け取られても仕方のない要素がたっぷり詰まっている。大西は、これまでメイン・グラウンドとしてきた東京の下町だけでなく、沖縄から青森までいろいろな街を巡り歩き、昭和の匂いのする風物を採集してきた。壁には写真とともに、温度計、ブロマイド写真、雑誌記事などが展示され、棚の上に置かれた古いラジオからは昔懐かしい番組が聞こえてくる。

だが、写真を見ているうちに、そんないかにもノスタルジックなつくりは、確信犯的に仕組まれたものであることが見えてくる。大西は写真展に寄せた文章で、「ノスタルジー」は「決して後ろ向きの情感ではない」という映画評論家の川本三郎の言葉を引き、「近過去はいとも簡単に忘却の彼方に押し込められてよいというものではないはずだ。むしろ『今』を様々な角度から照らす材料にあふれている」と述べる。たしかに、ここに集められた「まちのひかり」の眺めには、彼自身の、むしろこのような光景こそ正しく、あるべき姿をしているという確信が、しっかりと刻みつけられているのではないだろうか。

出品作品のなかに一枚だけ、1994年に東京・人形町で撮影されたポジ・プリントが展示してあった。今回の写真展の「原点」であるという、いかにも職人らしいたたずまいの老人と、その作業場の眺めには、「日々の小さなドラマの集積」が宿っていると、彼はキャプションに記している。それはむろんこの写真だけでなく、今回展示されたすべての作品に通じることで、膨大な視覚、あるいは触覚的な情報を含む事物のディテールを目で追う愉しみを、心ゆくまで味わい尽くすことができた。

2019/04/08(月)(飯沢耕太郎)

へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで

会期:2019/03/16~2019/05/12

府中市美術館[東京都]

「奇想の系譜」の次は「へそまがりの系譜」だ。へそまがりとは言い得て妙だが、ぼくなら「トンチの系譜」としたいところ。いずれも「負けるが勝ち」「ヘタでなにが悪い」みたいな逆転の発想ですね。ま、開き直りともいえるが。 へそまがりのトップを飾るのは禅画。「奇想の系譜展」にも出ていた白隠の《すたすた坊主図》は、腹の出た布袋が裸で文字通りスタスタ走ったり踊ったりする様子を軽快なタッチで捉えた脱力系の墨絵。白隠と並ぶ禅画界のアヴァンギャルド仙厓も《布袋図》では負けていない。これも腹の出た布袋がしりあがり寿の描く目元パッチリのキモカワおやじに変身しているのだ。同じく仙厓の《十六羅漢図》は、最高の悟りに達したはずの羅漢たちを俗物おやじとしてササッと描いているのだが、余白は墨でごまかすいいかげんさ。

そして彼らにも増して破壊力があるのが、畏れ多くも徳川三代将軍の家光および四代将軍の家綱なるぞ。家光の《兎図》は縦長の画面の下のほうにちょこんと虫ケラみたいなものが描かれていて、なんだろうと思って近づくと、触角だと思ったのが長い耳だと気づく。下のほうに伸びる羽根のようなものは、ウサギが乗る切り株だそうだ。《鳳凰図》もスゴイ。鳳凰といえば伝説の霊鳥なだけに絢爛豪華に表わされるものだが、これはまるでスズメ。家綱の《鶏図》はいちおうニワトリの特徴を備えているが、それだけにかえってマンガチックに見える。これらは殿様が描いたものでなければとっくに捨てられていたはず。それをわざわざ軸装して大切に保存してきたのだから、殿にとっては思わぬ恥さらしとなったのではないか。

まあこれ以外にも、額がビヨ~ンと伸びた若冲の《福禄寿図》、笑顔がグロテスクな岸駒の《寒山拾得図》、そして現代の湯村輝彦や蛭子能収によるヘタウマまで集めている。でもどうせなら現代のサブカルだけでなく、河原温の「日付絵画」や赤瀬川原平の「模型千円札」、高松次郎の「単体」シリーズなど第一線の現代美術も加えれば、日本美術における「へそまがりの系譜」(それは「トンチの系譜」でもある)も完璧なものになったのに。

2019/04/07(日)(村田真)

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荒木悠「LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」

会期:2019/04/03~2019/06/23

資生堂ギャラリー[東京都]

「見ること、撮ること」がはらむ欲望、視差やショットの複数性の提示、それらを異文化への視線や時代差が内包する偏差と絡めて問う映像インスタレーション。そこには観客自身の眼差し(の全貌把握の不可能性)についての問いも含まれ、映像それ自体への反省的な問いが、極めて理知的な構成によって提起されている。ここでは、メイン出品作品の《The Last Ball》と《戯訳》シリーズについて取り上げる。

映像インスタレーション《The Last Ball》の素材には、フランス語と日本語の2つのテクストが用いられている。ひとつは、明治期に日本を訪れて紀行文を残したフランス人作家、ピエール・ロティの『秋の日本』(1889)の中の「江戸の舞踏会」の章。これは、明治18年に鹿鳴館で開催された舞踏会を訪れたロティによる見聞録で、工兵将校の令嬢と「美しき青きドナウ」を含むワルツを3度踊ったことが記されている。もうひとつのテクストは、このロティの紀行文を下敷きに創作された、芥川龍之介の短編小説『舞踏会』(1920)。ロティのダンスの相手をした17歳の日本人女性、明子が主人公となっている。


「The Last Ball」2019 展示風景 映像
[撮影:加藤健]

ゴージャスでレトロなホール空間。中央に座る四重奏が優雅なワルツを奏でる。だが、その周りをめぐる正装した欧米人男性と日本人女性は、手にしたiPhoneでお互いを撮り合いつつ、自らは相手のカメラに捕捉されまいとして逃げ回っており、優雅なワルツとは裏腹に、「撮る/撮られる」視線の主導権の闘争と逃走のバトルが繰り広げられている。さらにこの記録映像は、壁面と天吊りスクリーンの表/裏の計3面に、それぞれ異なる撮影者やショットのものが投影されており、観客はそれらの視差を含む映像のすべてを一望の下に眼差すことができない。天吊りスクリーンの表にはロティ役が撮影した明子の映像が、裏には明子役が撮影したロティの映像が投影され、淡い残像のように透けつつも重なり合わない二つの映像は、不安定に揺れ動く手持ちカメラの運動と相まって、眩暈のような感覚をもたらす。それは、「相手をイメージとして捕捉する」ことで支配下に置こうとする存在(男性、ヨーロッパ)に対して、眼差しの主導権を奪還しようとする抵抗(女性、アジア)を示唆すると同時に、男性/女性、西洋/アジア、ドキュメント/フィクションのどちらの視座に身を置いて眼差すのか、見る者に選択と自覚を突きつける。

また、壁面の映像は、撮影監督がステディカムで撮った映像、俯瞰とローアングルによる映像、主役2人と撮影監督をさらに外側から撮った映像、の3つが切り替わる。ステディカムによる臨場感ある映像はドキュメンタリー性を強調する一方で、俯瞰(ヨーロッパ映画の舞踏会シーンでよく用いられるアングル)とローアングル(日本映画でよく使われるアングル)の挿入は、劇映画性(とその複数の形式)を主張する。さらに、主役2人と撮影監督を同時にフレーム内に収めた引きの映像は、「お互いを撮り合う」2人を「撮影する者」をさらに外側から撮影する視点(非人称のカメラ)という視線の入れ子構造を形成し、視線の無限的な連なりを暗示する。そして観客は、異なる複数の主体、撮影スタイル、機材による多視点が同時並置される迷宮のただなかに身を置きつつ、すべてを一望で把握する「全能の視点の欠如」を反省的に突きつけられるのだ。

一方、映像作品《戯訳》シリーズでは、同じくロティの『秋の日本』から抜粋された三編のテクスト「聖なる都・京都」「日光霊山」「江戸」が引用される。ロティの眼差しを追うように、130年以上前に記述された場所を、映像は淡々と記録する。だが、映像の中の現在の光景はテクストと時に呼応しつつ、解消不可能なズレとのあわいを往還しながら、クリアな焦点を結ぶことをどこまでも逃れていく。「寂れた寺院に続くひとけのない参道」と字幕は告げるが、画面に映るのは行き交う観光客のにぎわいであり、「神聖な仏像や神像」は土産物屋に並ぶ安価なフィギュアに裏切られる。見ているうちに、見聞を記録したテクストの方が、「フィクション」性を帯びて虚構へと近づいていく。それは、両者を隔てる時代差という不可避の差異によりながらも、記述者のロティ自身が異文化へ向ける視線に内包されたオリエンタリズム的幻想性を示唆する(この手法は、マルコ・ポーロの《東方見聞録》のテクストを、現代の同地域の映像とオーバーラップさせたフィオナ・タンの《ディスオリエント》とも共通する)。

他者や異文化への眼差しを、映像それ自体への再帰的な眼差しとともに解体/再構築した、秀逸な個展だった。


資生堂ギャラリー「荒木悠展:LE SOUVENIR DU JAPON ニッポンノミヤゲ」展示風景
[撮影:加藤健]

2019/04/06(土)(高嶋慈)

兼子裕代「ガーデン・プロジェクト」

会期:2019/04/02~2019/04/20

Gallery Mestalla[東京都]

タイトルの「ガーデン・プロジェクト」とは、1992年に弁護士のキャスリン・スニードが、アメリカ・サンフランシスコ郡刑務所の第5庁舎に隣接する敷地で立ち上げた農場経営のNPOである。キャスリンは低所得者やマイノリティ・コミュニティの人々に職を与え、地域に貢献する目的で有機野菜や草花を育て、ホームレス・シェルターや高齢者施設に寄付する活動を始めた。カリフォルニア州オークランド在住の兼子裕代は、縁があって2016年から「ガーデン・プロジェクト」のスタッフとなる。同施設は「おそらく政治的な背景で」、2018年に閉鎖に追い込まれたという。

兼子が展覧会に寄せたコメントで認めているように、スタッフとして仕事をしながら撮影された写真群は、ドキュメンタリーの仕事としてはやや厚みを欠いているように見える。だが、6×6判のカメラで撮影され、柔らかい調子でプリントされたカラー写真には、そこで働く人々の姿だけでなく、「光や風、木々や花、そして土地から受ける自然のエネルギー」がしっかりと写り込んでいる。白人とアフリカン・アメリカン、中南米やアジア系の人々が混じり合って、自然を相手にして働くことで醸し出されてくる、不思議な安らぎに満ちた空気感の描写がこの作品の魅力といえるだろう。2017年に銀座ニコンサロンで開催された「APPEARANCE──歌う人」展でも感じたのだが、兼子のカメラワークは、被写体となる人たちの身振りの定着の仕方に特徴がある。瞬間ではなく、その前後の時間をも含み込んだ「途中」の動作を写しとめていることが、彼女の写真に余韻と深みを与えているのではないだろうか。

2019/04/04(木)(飯沢耕太郎)

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