2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

佐藤華連「I 波と影」

会期:2020/07/02~2020/07/19

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

1983年、神奈川県生まれの佐藤華連は、2010年に「だっぴがら」で同年度のキヤノン「写真新世紀」グランプリを受賞した。その後の活躍が期待されたのだが、次の展開がうまく見つけられず、悩んでいた時期が長かったようだ。2016年のKanzan Galleryでの個展「I」(ワン)の頃から、ようやく手応えを感じるようになり、今回のふげん社での個展に結びついた。

佐藤も「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展(埼玉県立近代美術館)の出品作家たちと同様に、現実世界をそのまま写しとるのではなく、写真をコピーして複写するという行程を重ねることによって、画像を改変していく。だが、Nerholや牧野貴や横田大輔の作品が、次第に「像」としての強度を失って拡散していくのに対して、佐藤の場合はむしろ写真に写っている個々の事物の存在感が増してくる。それは佐藤が、画像をあくまでも「自己のフィルターを通して変容」させようとしているからだろう。あらわれてくるのは、モノ、風景、絵画の一部など、断片的な表象なのだが、それらは彼女の「認識や記憶」にしっかりと錘を降ろしているように見えるのだ。

ただ、それぞれの「像」があまりにもバラバラで、相互のつながりがうまく見えてこない。そのあたりをもう少し思い切りよく整理して、「像」の組織化を進めていけば、より緊密に組み上げられたシリーズに成長していくのではないだろうか。「自己のフィルター」の精度を上げ、被写体の幅を狭めてみることも考えられそうだ。

2020/07/03(金)(飯沢耕太郎)

New Photographic Objects 写真と映像の物質性

会期:2020/06/02~2020/09/06

埼玉県立近代美術館[埼玉県]

コロナ禍で開催が延期されていた埼玉県立近代美術館の「New Photographic Objects 写真と映像の物質性」展を見て、『プロヴォーク』の写真を思い出した。『プロヴォーク』は中平卓馬、多木浩二、高梨豊、岡田隆彦(2号から森山大道が加わる)によって1968年に創刊された写真同人誌である。彼らの写真のスタイルは「アレ・ブレ・ボケ」と称された。被写体を忠実に描写するのではなく、画像を荒らしたり、ブラしたり、ピントをぼかしたりして改変していく。それは、1960年代末の「政治の季節」を背景にして、彼らを取り巻く現実世界が確固たる手応えを感じられるものとは思えなくなっていたためだろう。「アレ・ブレ・ボケ」の写真こそが、彼らにとってはむしろリアルに思えたということだ。

本展の出品者である迫鉄平、滝沢広、Nerhol(田中義久/飯田竜太)、牧野貴、横田大輔にとっても、事態は同じであると思える。2020年代における彼らと現実との関係も、大きく揺らぎ、流動化しつつあるからだ。彼らもまた、とめどなく解体し、錯綜し、記号化していく現実世界を、写真というメディアによって何とかつなぎ止めようとしている。ただし、1960年代と違って、彼らの手元には従来の手法だけでなく、さまざまなデジタル・ツールがある。それらを使いこなすことで、写真による表現の可能性は大きく拡張していった。そのことが、今回の展示にもよくあらわれていた。

とはいえ、それらが展覧会のチラシに記されているような「ラディカルな再考と更新をめざす『新しい写真的なオブジェクト』」になりえているのかといえば、やや疑問が残る。写真を切り貼りしたり、ドローイングを加えたりしてシルクスクリーンで製版する(迫)、鏡に映った像を撮影した写真と、鏡の表面をハンドスキャナーでスキャンした画像を並置する(滝沢)、数百枚のインクジェットプリントを重ね貼りし、その表面をグラインダーで削りとっていく(Nerhol)、200回以上重ねた映像を、大きなスクリーンで上映する(牧野)、ラブホテルの部屋を撮影した写真の前に、抽象的な色彩の画像をプリントした大判シートを吊るす(横田)といった操作を経て出現してきた作品は、どれもクオリティが高いが、どこか似通って見えてくる。写真の描写性に疑いを差し挟み、それを注意深く避けることで、結果的に均質な見かけになってしまったということだ。

『プロヴォーク』の「アレ・ブレ・ボケ」は、激動の「政治の季節」の終焉とともに有効性を失い、ある種の「意匠」となってしまった。中平卓馬はそのことを自己批判し、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する……植物図鑑」(『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』晶文社、1973)を提起するに至る。本展の出品者たちも、もしかすると同じ道を辿るのかもしれない。

2020/07/02(木)(飯沢耕太郎)

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古典×現代2020 時空を超える日本のアート

会期:2020/06/24~2020/08/24

国立新美術館 企画展示室2E[東京都]

温故知新とはこのことか。古典作品と現代作品とを対にして展示する、ユニークな試みの展覧会である。言うまでもなく、我々は過去の歴史の延長線上に生きている。したがって何かを創作する際に完全なオリジナル性というのはあり得ず、過去の遺物や作品から何かしらの影響を大なり小なり受けているものだ。その点で古典作品を現代作家が見つめ、インスピレーションを得たり、引用したり、パロディーにしたりすることは大いに結構だと思う。古典には伊藤若冲、葛飾北斎、仙厓義梵、円空、尾形乾山、曾我蕭白らの巨匠作品が並び、対する現代は川内倫子、鴻池朋子、しりあがり寿、菅木志雄、棚田康司、田根剛、皆川明、横尾忠則の8作家が参加し、計8組の展示で構成されていた。ご覧のとおり現代作家には美術家のみならず、写真家、漫画家、建築家、デザイナーとさまざまな分野のクリエイターがいる点も面白い。

なかでも凄みがあったのは、「仏像×田根剛」の展示である。滋賀県の西明寺に安置されている日光菩薩と月光菩薩の仏像2体を使ったインスタレーションだ。西明寺では、光差す池の中から薬師如来と脇侍である日光菩薩、月光菩薩が現われたと伝わっているという。場所や土地の記憶をリサーチし、未来の建築を思考することで知られる建築家の田根剛は、実際に西明寺を訪れ、そこで「時間と光」「記憶」などのテーマを見出した。具体的には真っ暗闇の中で、自動昇降する照明器具を使い、全身を金箔で覆われた仏像2体に上から下へ、下から上へと光を滑らせるように当て、なんとも言えない荘厳な雰囲気をつくり上げていた。暗闇の中で上から下へと光が移動する様子は日没を思わせ、逆に下から上へと光が移動する様子は日の出を思わせる。昔の人々もこのように日の出や日没時に仏像を眺め、祈りを捧げていたのではないかとさえ思えてくる。ホワイトキューブの中で、俗世から切り離された瞬間を味わった。

「仏像×田根剛」の展示風景[撮影:上野則宏](左)《月光菩薩立像》、(右)《日光菩薩立像》

また「乾山×皆川明」はとても完成されていた。江戸時代の陶工、尾形乾山がつくった華やかな器が、皆川明が主宰するブランド「ミナ ペルホネン」のテキスタイルや洋服と一緒に並べられると、まるで乾山の器までもがミナ ペルホネンの作品のように見えてくるから不思議だ。有機的な造形や自然に着想を得た模様、温かみのある雰囲気など、いくつもの類似点が示されているが、これほど世界観が似ていたとは。ほかにも「北斎×しりあがり寿」はクスクスと笑えてしかたがなかったし、「花鳥画×川内倫子」はその透明感に心をハッとつかまれた。新たな発見があり、楽しく鑑賞できた展覧会だった。

「乾山×皆川明」の展示風景[撮影:上野則宏]

「北斎×しりあがり寿」の展示風景[撮影:上野則宏]


公式サイト:https://kotengendai.exhibit.jp/

※一部展示替えを行なうため、内容が変更になる場合があります。
※混雑緩和のため、本展では事前予約制を導入しています。入場にあたってはすでにチケット等をお持ちの方も含め、オンラインでの「日時指定観覧券」もしくは「日時指定券(無料)」の予約が必要です。


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[特別編:比較して見る]コロナ退散せよ! 葛飾北斎×しりあがり寿|影山幸一:アート・アーカイブ探求(2020年05月15日号)

2020/06/29(月)(杉江あこ)

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弘前れんが倉庫美術館「Thank You Memory─醸造から創造へ─」

会期:2020/06/01~2020/09/22

弘前れんが倉庫美術館[青森県]

新型コロナウイルスの影響によってオープンが遅れていた弘前れんが倉庫美術館を訪れた。この場所は奈良美智の「A to Z」展(2006)以来なので、14年ぶりの再訪になる。これは注目の若手建築家、田根剛による日本国内の最初の公共施設となるが、およそ築100年になる建物の外観はほとんど変えていない。彼の署名のように、エントランスに特殊な煉瓦積みを試みたり、金色に輝く屋根に葺き替えたりしたくらいだ。また内部も長い歴史の記憶をとどめるかのように、壁の質感を残し、二階の旧事務室・旧研究室では木造の壁やガラスなど、来館者が見えない部分でもオリジナルを保存している。



田根剛による日本国内初の公共施設、弘前れんが倉庫美術館


弘前れんが倉庫美術館のエントランス


美術館二階の左手が旧事務室・旧研究室にあたる

日本のリノベーションは、完成すると小綺麗になってしまいがちだが、遺跡のように残った倉庫の雰囲気をよくとどめた空間だ。そういう意味では、ヨーロッパ的なスタイルを感じさせる。もっとも、ただ保存したわけではなく、美術館において新しく挿入した階段をあえてエイジングしたり、カフェ・ショップ棟は正面の外壁以外は新築だが、既存の倉庫と調和する煉瓦を用いるなど、いろいろ工夫をしている。



手前の建物がカフェ棟


美術館のエントランスホールに、奈良の《A to Z Memorial Dog》が展示されている

さて、同館のオープニング展は、もともと酒造工場だったことから「醸造」というキーワードが用いられ、弘前という場所の記憶をめぐる作品群によって構成されていた。特に冒頭の畠山直哉+服部一成は、倉庫の歴史をリサーチしつつ、過去に使われた建築の断片を紹介していた。天井高が15mに及ぶ展示室3の大空間に面するナウィン・ラワンチャイクンと尹秀珍も、弘前の人物や街をテーマに作品を新規に制作していた。もっとも、コロナ禍のため、海外在住の作家はリモートでの設営となり、大変だったらしい。地元出身の奈良美智は、めずらしく写真の作品を展示していた。潘逸舟は、かつて弘前にて芸術で暮らした経験と記憶をもとにインスターレションを出品していた。

この美術館は特別なコレクションをもってスタートするわけではなく、こうした展覧会を通じて新規に制作された作品を収集するという。とすれば、活動を継続することによって、弘前の地域資産を掘り起こしながら、それを蓄積していくことになるはずだ。



「Thank You Memory」展示風景(畠山直哉と藤井光の部屋)


「Thank You Memory」展示風景(手前が笹本晃、奥がナウィン・ラワンチャイクン)

2020/06/28(日)(五十嵐太郎)

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京芸 transmit program 2020

会期:2020/04/04~2020/07/26

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

京都市立芸術大学卒業・大学院修了3年以内の若手作家を紹介するシリーズ、「京芸 transmit program」。今年度の4名は、「身体性」と「美術史への参照」の二軸で構成されている。

西久松友花は、兜や陣羽織、花魁のかんざし、銅鐸などの祭具、しめ縄や民俗的な神具といった土着的な「装飾」「意匠」を抽出して組み合わせた陶のオブジェを制作している。鮮やかな赤、金銀彩やスワロフスキークリスタルが施され、祝祭的な「ハレ」の雰囲気をまとうなかに、性(生殖)や死に対する祈りと畏怖の感情が顔をのぞかせる。



西久松友花《虚飾》[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


「身体性」と「美術史への参照」の交差する地点にいるのが、菊池和晃だ。菊池はこれまで、筋肉やメンタルの強さを鍛える「トレーニングマシン」兼「描画装置」を自作し、自身の肉体を酷使する行為によって、ポロックや篠原有司男、李禹煥を思わせる「抽象絵画」を制作するパフォーマンスを行なってきた。過去作品《アクション》では、パンチングマシンに両脇を挟まれ、絵具の付いたボクシンググローブに殴られ、飛沫を血のように浴びながら、自らもボクシンググローブで殴り返す/キャンバスに描画していく。篠原有司男の「ボクシング・ペインティング」を思わせる制作方法によって、ポロック風のドリッピング絵画が出来上がる。また、《Muscle》では、スクワットを繰り返すことで、反対側にハケの付いた装置がシーソーのように上下運動し、李禹煥ばりのモノクロームのミニマルな絵画を大量生産する。美術史的規範としての絵画を、泥臭い身体の酷使によってナンセンスに脱構築する試みだと言えるが、「筋トレ」すなわちマッチョな肉体改造への願望は、美術史における男性中心主義やマッチョイズムを文字通り再生産してしまう危うさも秘めている。出品作《円を描く》は、歯車を組み合わせた装置のハンドルを6250回、手動で回すことで、吉原治良を思わせる「黒地に白い円」を描くものだ。今作ではマッチョさは後退し、制作行為を機械的な「労働」に還元するシニカルさのなかに、徒労に近い肉体労働としての制作行為を浮かび上がらせる。



菊池和晃《円を描く》[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


一方、パフォーマンスとその儀式性によって「生と死」に言及するのが、小嶋晶と宮木亜菜。小嶋は、自身の母親の心臓が弱り、洞結節からの電気信号が心房心室にうまく伝わらず、意識を失うほどの徐脈になったため、心臓が元通り動くよう、「生を実感できない」というダンサーに「母親の心筋になる」ことを依頼した。パフォーマンスの記録映像では、電気コードを握りしめて洞結節からの電気刺激を受け取り、小嶋の母親の心臓と疑似的につながった男性ダンサーが、規則的な電子音と光の明滅のなか、激しくのたうち回る。それは他者の痛みを疑似的に引き受ける祈祷的行為であると同時に、ダンサー自身が踊りの根源としての生の充溢に到達しようとするもがき苦しみでもある。



小嶋晶《bpm60》より [写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


また、宮木亜菜は、展示会場にベッド、マットレス、布団、カーペット、ハンガーラックを組み合わせて設置し、「睡眠」のパフォーマンスを毎週行なった。展示された記録写真を見ると、パフォーマンスのたびにベッドや寝具の配置が大胆に変えられていく。布団で覆われた顔の見えない頭部や布団から突き出した両脚の写真は「遺体」を思わせ、眠りと死の連続性を想起させるが、「眠り」と覚醒のたびにインスタレーションは日々の新陳代謝のように生成変化し、床を這ったり垂れ下がる布団は巨大な内臓のようだ。



宮木亜菜《眠りのあきらめ》[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


生産物としての「作品」の裏側にある肉体の酷使、「死」を通して生の充溢に触れ、生と死の(不)連続性を行き来すること。そのような本展の流れの中で再び西久松の作品を振り返ると、身体や衣服の表面を彩る装飾的モチーフが散りばめられた陶製のオブジェたちは、「不在の身体」として佇み始める。


2020/06/25(木)(高嶋慈)

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