2020年10月15日号
次回11月2日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

Emergency Call

会期:2020/04/30~緊急事態宣言解除まで

美術家の大岩雄典が企画した、「電話で聴く」という異色の展覧会。展覧会ウェブサイトに記載された番号に電話をかけ、計45分25秒の「展示」を鑑賞することができる。会期は4月30日から、日本国内の緊急事態宣言が解除されるまで。参加者は、大岩をはじめ、アーティスト、音楽家、歌人や俳人、SF作家、建築家、そしてラジオ体操第一が流れるなどバラエティに富んでいる。

本展の意義は、展示発表の場の代替案だけにとどまらない。コロナ禍を受けて支援金やDVなど各種緊急支援・相談の電話窓口が開設されている状況下で、「アートもまた、緊急時に(こそ)必要とされている」というメッセージ自体を発することに、まずもってその意義がある。また、電話番号の下に記載された「自分が安全だと思う時間・場所でお電話ください」という文言は、「これは『本当の』緊急コール先ではないですよ」というジョークの反面、「今、『安全』な場所はどこにあるのだろうか?『安全』とは何を指すのだろうか?」というシニカルな問いを発する。

「参加作家自身が電話に直接出るわけではない」とわかっていても、電話をかける際に緊張感が走る。通話がつながると冒頭の自動音声案内に続き、ウェブサイトの記載順にそれぞれの「作品」が流れる。ノイズや音楽、時事性を盛り込んだ詩歌の朗読。ラジオ放送のDJ風の「お便り紹介」、ラジオ体操第一、戦前のラジオ英語講座を「再現」した3作品は、電話よりも「ラジオを聴く体験」に近い。肉声もあれば、人工音声もあり、SFのショートストーリーでは、「惑星統合管理委員会」から地球人類に向けて発せられる、「言語の執行権限を強制的に剥奪する」という警告が、「宇宙からの電波」という体裁で人工音声によって語られる。一方、「もしもし?」で始まり、「親しい相手への電話」の体裁をとった親密な語りもある。肉声/人工音声に加え、ラジオ放送/(未知の存在からの)電波の受信/(親しい人への)電話というように、公共性/親密性の振れ幅と、「『声』を聴く、『声』で聴く」さまざまなシチュエーションが提示される。

最も切実さを持つのが、イタリア在住の俳優、大道寺梨乃からの「電話」である。今これを話している4月中旬、一ヵ月以上家にいること。幼い娘と散歩はしていたが、家から出たくなくなり、「外国人で小さな娘の母親」としてふるまうことの期待に疲れたという心境。イタリア人の夫の家族の感染や居住区の封鎖。「電話」に割り込む娘の声がリアルだ。「近しい人にメッセージを送りたい」という彼女の声と、電話というメディアが内包する「遠さ・距離」の乖離が露わに迫ってくる。


また、本展は、内容面とは別に、「展覧会の構造設計」を通して、鑑賞行為を「拘束性と不自由さ」から捉え直す視座を開く。「オンライン上で(聴きたい)作品を(好きな順で)クリックして聴く」手軽で消費的な体験とは異なり、あえてアナログな電話回線を用意したこと(そのアナログ感は、「ラジオ性」の高い作品によってより増大する。「ラジオ」もまた、災害時・緊急時と親和性が高いメディアだ)。「電話で聴く」鑑賞体験は、リニア・単線的であり、(「つまらない」と思っても)スキップや一旦停止ができず、一度電話を切ると、もう一回かけ直して最初から聴く必要がある。鑑賞者は、「45分25秒」というそれなりに長い時間の束縛と、ひたすら傾聴する受動的態度に徹することを強いられる。それは、「長い映像作品を途中で飛ばす」といった(とりわけ映像展や国際展では常態化した)振る舞いを反省的に自覚させ、消費的態度に異議を唱えつつ、「展示装置」が有するある種の強制力や拘束性についても自己言及的に開示している。

[編集部注] ラジオ体操第一の部分は5月11日に取り下げられ、再構成されている。


公式サイト: https://euskeoiwa.com/2020emergencycall/

2020/04/30(木)(高嶋慈)

隔離式濃厚接触室

会期:2020/04/30~無期限に延長

「1人ずつしかアクセスできないウェブページ」を会場とするオンライン展覧会。会期は、「4月30日の24時間」限定(ただし、いったん「会期終了」後、「無期限」に変更されている)。本展では、企画者であるアーティストの布施琳太郎と、詩人の水沢なおの作品が展示されている。

美術でも舞台芸術でも、コロナ禍で発表の場が奪われたことの代替手段として「オンライン公開」「バーチャルツアー」「無観客での配信」「Zoomを活用した演劇」などさまざまな試みが行われている。本企画がそれらと一線を画する点は、「オンライン=アクセスの平等性とシェアの思想」を無批判に是とする態度に対する批評的距離である。他人との「濃厚接触」を避け、「ソーシャルディスタンス」を適切に保つため、ひとりずつなどの「入場制限」が課される。そうした現実空間における物理的制約を、「アクセスの平等性が保証されている」はずのオンライン空間に戦略的に持ち込み、反転させること。そこでは、私の「鑑賞の自由」は、見知らぬ誰かの「排除」「鑑賞の不自由」と表裏一体である。あるいは、私の「鑑賞の自由」を阻害する入室者がいても、互いに匿名的存在であり、「排除された誰か」の姿もその数もうかがい知ることはできない。制約と不可視性に根ざした本展の意義は、「社会的隔離」を「ネットによるつながり」によって回復し癒すのではなく、むしろ「分断」を生むという屈折した回路によって「ネットと公共性」の議論を喚起しつつ、「(無数の)他者の排除によって成り立つ自由」という倫理的課題を突きつける点にある。

筆者は4月30日、会場URLを何十回とクリックしてアクセスを試みたが、その都度「他の鑑賞者が展覧会を鑑賞しているため、アクセスできませんでした」というエラーメッセージが表示され、見られなかった。だが、「見られなかった」こともまた、本展のコンセプトに鑑みると、それもまたひとつの鑑賞体験と言えるのではないか。ここで比較対象として想起されるのは、福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域内で、2015年3月11日から開催されている「Don't Follow the Wind」展である。現実空間/オンラインという差異はあるものの、放射能汚染/コロナ禍という外的要因によって、「展覧会」の鑑賞のあり方そのものが変容を被ること。物理的制限を課されつつ、想像のなかで体験すること。そこには、「展示内容」だけでなく、「実際にアクセスできた鑑賞者とできなかった鑑賞者とのあいだに生まれる分断」「共有の不可能性」、そして「私の占有と引き換えに排除された(無数の、不可視の)他者について想像すること」も含まれている。

(追記:会期が「無期限」に延長後の5月3日に、アクセス成功。詳述は控えるが、「オンライン=共有」を徹底して拒む仕掛けにより、「鑑賞体験の一回性・個別性」「隔離と監視」についての問いが、凍結した世界とともに展開[転回]する。死にうっかり触れたような感触を、水沢の詩が、対極の性殖へとじっとり湿らせていく)


公式サイト:https://rintarofuse.com/covid19.html

2020/04/30(木)(高嶋慈)

石場文子「zip_sign and still lifes(記号と静物)」

会期:2020/04/10~2020/04/19

Gallery PARC[京都府]

一見ありふれた生活空間のスナップだが、わずかな空間の歪みのような違和感がよぎる。画面を凝視するうちに、玄関ドアに無造作に立てかけられたビニール傘、キッチンに並ぶペットボトルや缶、床を這う電源コード、植木鉢の「ライン」が、周囲から自らを不自然に切り離すように浮かび上がってくる。石場文子の写真作品「2と3のあいだ」「2と3、もしくはそれ以外」のシリーズは、ある特定の視点から見たときに「輪郭線」が成立するように、黒く塗りつぶした線を被写体に施し、撮影したものである。写真が「二次元への圧縮・置換装置」であることに着目し、現実空間への介入を通して錯視を仕掛ける手法は、例えば、廃墟や取り壊し予定の建築空間に彩色を施し、ある一点から見たときに幾何学的イメージとして成立させるジョルジュ・ルースの写真作品を連想させる。建築物という大がかりなスケールのルースと対照的に、石場の作品は、生活用品が散らばる日常空間や室内の静物を被写体とし、より個人的で親密的だ。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]


また、新作では、テーブルに敷かれた布や皿の上に果物が配置された、「静物画」風の画面構成がなされている。「輪郭線」で区切られた果物やポットは、原色のカラーパネルの背景のフラットな効果とも相まって、平面的に見え、より「絵画」に接近し、「絵画」と「写真」の境界を攪乱させる。それは、写真が内包する「一点透視的視点の強化」を示すと同時に、画像編集ソフトを用いた写真の加工作業を思わせ、「二次元の画像に取り囲まれた視覚状況」についても示唆する。



[撮影:麥生田兵吾 写真提供: Gallery PARC]



なお、会場のGallery PARCは、新型コロナウィルスの影響による状況変化が数年に及ぶものとの見通しから、5月以降に予定していたすべての展覧会の中止、現会場の閉鎖、事務所機能の移転を発表した。今後は、アーティストとの協働によるオンラインコンテンツ作成、webショップの整備、過去の展覧会資料の整理、外部での展覧会企画、運営母体の企業のパッケージデザインへのアーティスト起用などの活動やサポートに取り組みながら、展覧会活動の再開を目指すという。ギャラリー開設から約10年、現会場に移転して約2年半あまり。ビルの2階から4階にまたがった階層構造を活かした展示やパフォーマンスの試みも生まれていただけに惜しまれるが、サポート活動の継続と将来的な展示再開を待ちたい。

2020/04/10(金)(高嶋慈)

水越 武 写真集『日本アルプスのライチョウ』刊行記念展

会期:2020/04/02~2020/04/26

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

水越武は日本の山岳写真の第一人者で、デビュー写真集の『山の輪舞』(山と渓谷社、1983)以来、数々の名作を発表してきた。撮影の範囲もヒマラヤから熱帯雨林まで世界中にまたがっている。だが、今回新潮社から写真集『日本アルプスのライチョウ』として出版され、ふげん社で刊行記念展を開催したライチョウのシリーズは、人間の営みを超越した「神々の世界」というべき高山の環境に目を向けてきた彼の写真家としての軌跡から、やや外れているのではないかと思う。テーマとなっているライチョウは、むろん日本アルプスの厳しい自然環境で生息している鳥だが、彼らを見つめる水越の眼差しには、冷静な観察者というよりは、どこか哀しみや慈しみの感情が宿っているように見えるのだ。

ライチョウは約1万3000年前の氷河期の終わりとともに、「高山に追い上げられた」のだという。以来、山岳信仰とも結びついて「霊鳥」として崇められ、ほとんど狩猟の対象にはならなかった。そのために、ライチョウは「人間を恐れない」で平気で近づいてくる。水越はそのような、やや特異な人間と鳥との関係のあり方を踏まえて、日本アルプスの雄大な大自然を背景としたライチョウの四季の生の営みを細やかにカメラにおさめていく。その半世紀以上にわたる「対話」の積み重ねが、一枚一枚の写真に結晶している。

地球温暖化の影響で森林限界が上昇していることで、ライチョウたちの生息環境は急速に狭まりつつあり、「絶滅危惧IB種」に指定された。「地球の気候変動の影響を強く受けるライチョウの未来は決して明るくない。存続の鍵を握るのは我々人間である」という写真集の「あとがき」の言葉が、重く心に響く。

関連レビュー

水越武「MY SENSE OF WONDER」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月15日号)

2020/04/09(木)(飯沢耕太郎)

新型コロナ時代のアート

新型コロナウイルスの勢いが止まらない。外出自粛の要請が出され、劇場やライブハウスなどは次々と休止を余儀なくされ、ついに緊急事態宣言まで出てしまった。大きな美術展は2月末以降再三にわたり延期を繰り返し、当分のあいだ再開しそうにない。この春の目玉だった国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」(3/3-6/14)をはじめ、国立新美術館の「古典×現代2020」(3/11-6/1)、東京国立博物館の「法隆寺金堂壁画と百済観音」(3/13-5/10)などは、展示が完了しているにもかかわらず開けられない状態が続いている。このままだと、開催できないまま会期が終了してしまう可能性も出てきた。もったいない。また、4月初旬までは入場者を制限したり、開館時間を短縮したり、週末を休館にするなど工夫しながら開けていた中小規模の美術館も、緊急事態宣言を受けて大半は休館せざるをえなくなった。



[筆者撮影]


ギャラリーも、売買を目的とする大手画廊は3月中旬から休廊が目立ち始め、3月19日から予定されていたアートフェア東京も中止に追い込まれた。売買を目的としない中小の貸し画廊などは、もともと観客が少ないこともあってアポイント制にして細々と続けていたところもあるが、そんな努力も気概も空しく、現在はほぼ壊滅状態。もはや美術界(だけではないが)全体が休止状態に追い込まれているのだ。東日本大震災および原発事故のときも似たような状況だったが、今回は自粛の空気に抗う姿勢を、応援することも非難することもできないのが歯がゆい。

ただ美術に関していえば、ほかの文化ジャンルに比べれば、まだ希望が持てるほうかもしれない。というのも、音楽にしても演劇にしても映画にしても、ひとつの密閉空間にたくさん人が集まって鑑賞するものなので、感染の危険性が高いといわれる「密閉空間」「密集場所」「密接場面」の三つの密に当てはまるが、美術はそうでもないからだ。「三つの密」とはいかにも代理店の考えそうなキャッチフレーズだが、語呂がいいので使わせてもらう。以下に、観客の「密」度の違いをジャンル別に表にしてみた。音楽はライブハウスでのロックから大ホールでのクラシックまで幅が広いので二つに分け、また、スポーツ、博覧会、デモなどの大規模イベントも加えた。


ジャンル別「密」度比較 (◎きわめて高い ○高い △ほどほど ✕低い)

イベント 密閉度 密集度 密接度
ロック系コンサート(屋内)
演劇(演芸、ミュージカルを含む)
スポーツ(サッカー、野球など)
デモ
クラシック系コンサート
映画
博覧会・見本市(アートフェア)
展覧会(美術館、ギャラリー)
芸術祭(屋外)

基本的に音楽、演劇、映画は音や光が漏れないように密閉した空間で行われるのに対し、展覧会や博覧会は空間的に密閉されているものの、出入口はそのつど開閉されるため比較的開放的だ。また音楽、演劇、映画は不特定多数の観客が固定席で鑑賞するため密集度は高く、とくにスタンディングのコンサートでは、人々が密着したり叫んだりするため密接度も上昇する。逆にクラシック音楽や映画は座席が一定の距離を保ち、静かに鑑賞するため、密接度はそれほどでもない。その点、展覧会や博覧会は固定席がなく、人々もまばらに移動していくだけなので、密集度も密接度も比較的低い(ただし「ゴッホ展」のような人気展は例外だが)。

もちろんだからといって、美術は感染の可能性がないということではない。現にアートフェアも展覧会も芸術祭も延期・中止を余儀なくされているのだから。とくにアートフェアや芸術祭は、グループでわいわい言いながら見て回ることが多いので、密接度は美術館より高いかもしれない……。なんてことを考えていたとき、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーのディレクターであるハンス・ウルリヒ・オブリストが、新型コロナウイルスの影響で仕事の減ったアーティストを支援するため、数億円規模の「パブリックアート・プロジェクト」を提唱しているという記事をネットで目にした。一読して「なるほど」と思ったのは、1930年代にニューディール政策の一環として実現したフェデラル・アート・プロジェクトを思い出したから、というだけでなく、メディアとしての「パブリックアート」に着目しているからだ。

なるほど、パブリックアートは基本的に屋外に設置され、周囲に人々が集まる機会もほとんどなく、その前で議論したり騒いだりすることもないだろう。密閉度、密集度、密接度のどれをとっても低い。上の表に当てはめるとこうなる。


イベント 密閉度 密集度 密接度
パブリックアート

つまりパブリックアートは、鑑賞する側にとって感染の危険性が低い芸術形式であり、新型コロナ時代にこそ有効性を発揮できるメディアではないか、ということだ。これはもちろん半分本気だが、半分冗談でもある。パブリックアートが密閉度、密集度、密接度ともに低いのは、いいかえれば、吹きっさらしのなかでだれの気にも留められず、無視されていることの証なのだから。逆にいえば、「密」度の高い音楽や演劇やスポーツはいずれも関心度が高く、観客とプレイヤーおよび観客同士の一体感や連帯感が味わえるイベントだということにほかならない。それゆえに感染の危険性が高いのだ。そう考えれば、新型コロナウイルスというのは、人々の「ふれあい」や「きずな」を食い物にしてわれわれの連帯感を断ち切り、世界を分断する反動的災禍と捉えることができるかもしれない。

そこでパブリックアートが有効性をもつとしたら、果たしてどのようなパブリックアートなのだろうか。駅前でしばしば見かける女性ヌード像や、どこでも似たり寄ったりの抽象彫刻などは論外として、近年のリレーショナル・アートにしても、ソーシャリー・エンゲイジド・アートにしても、不特定多数とリレーションしたりエンゲージすることが忌避される現状では有効性をもたない。分断されつつある世界において、距離を保ちながらつながり、連帯できる「公の芸術」とはなにか。そんな「パブリックアート」の概念を更新するような新たなパブリックアートが求められているのだ。なんてことを書いているうちにも、事態はどんどん進んでいる。

2020/04/09(木)(村田真)

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