2021年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

竹内公太「Body is not Antibody」

会期:2020/07/18~2020/08/15

SNOW Contemporary[東京都]

DMを見ると、拙い文字で「Body is not Antibody」と書かれていて、Aの部分だけ手に持った明かりを動かして撮った「光跡写真」であることがわかる。会場に赴くと、この光跡写真に基づいて制作したフォントが並んでいる。竹内は昨年から福島県の帰還困難区域で警備員の仕事につき、交通整理のために赤く光る誘導棒を振っていたが、これで空にアルファベットを書いて長時間露光で撮影し、フォントをつくったという。バイト中その場にあるものから次の作品を発想し、制作までしてしまうという、これぞアーティストの鑑。

反対側の壁には、このフォントで作成した人の形を貼っている。これは、トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』の表紙に描かれた巨大な王様の輪郭を抜き出して、フォントで埋めたもの。もともと表紙には王様の上半身が無数の人民の集合体として描かれており、それがフォントに置き換えられたかたちだ。竹内によれば、人民は国家が危機に瀕したとき、国という身体を外敵・異物から守るため自ら「抗体(antibody)」になるという。つまり相手が戦争であれ震災であれ新型コロナウイルスであれ、人民が同じ方向を向いて抗体となり、国家の免疫システムとして起動するというわけだ。ちなみにこの王様は王冠(コロナ)を被っている。

しかし、「Body is not Antibody」というタイトルは「身体は抗体ではない」、つまり自分の身体は国家に尽くす抗体ではないと否定する。では、自分の身体とはなんなのか。竹内は、ひとつの答えとして「エイリアン(部外者)」、とりわけ、もともと異物だったのに身体の一部と化してしまったミトコンドリアを例に挙げる……。こなれていない部分はあるものの、きわめて刺激的な見立てではないか。

2020/08/13(木)(村田真)

あしたのひかり 日本の新進作家 vol.17

会期:2020/07/28~2020/09/22

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

東京都写真美術館で毎年開催されている「日本の新進作家」は、今回で17回目を迎えた。いつも楽しみにしている企画だが、今年は特に感慨深い。いうまでもなく、コロナ禍で開催が危ぶまれていたからだ。出品作家たちも、この状況下で展覧会を開催するということを意識しつつ、作品を選定、構成したことが充分に伝わってきた。

出品作家は岩根愛、赤鹿麻耶、菱田雄介、原久路&林ナツミ、鈴木麻弓の4人+1組である。東日本大震災で被災した宮城県女川町の実家の写真館から流出し、拾い集められた写真群、遺された実父のレンズで撮影した街の風景などで構成された鈴木麻弓の展示は初めて見たが、あとはこれまでずっとフォローしてきた写真家たちだ。とても嬉しかったのは、彼らがそれぞれ新たな方向に向かう意思を明確に表明した作品を出品していたことだった。

岩根愛は、2020年の春に郡山、一ノ関、北上、遠野、八戸など、東北各地で撮影した桜と祭礼の写真を「あたらしい川」というタイトルで展示している。赤鹿麻耶は、実在するという「氷の国」についての写真、スケッチ、メモ、言葉、音などを混在させて、時空を越えた物語を構築した。菱田雄介は静止画像と動画の中間形というべき「30sec」シリーズを含めて、「border」をテーマに撮影してきた写真群をまとめ直した。新聞記事、TV画面、街のスナップなどを1枚のパネルにおさめた「Corona」からは、「いま」を表現したいという意欲が伝わってきた。原久路&林ナツミは、現在住んでいる大分県別府で、子供から大人へと変貌していく少女たちを撮影した「世界を見つめる」を出品した。

鈴木麻弓も含めて、ポジティブな世界観を表出している作品が多い。それもおそらく、怖れや不安が世界中を覆っているこの時期だからこそではないだろうか。岩根愛は、展示にあわせて写真集『A NEW RIVER』(bookshop M)を刊行したが、ほかの出品者たちの力作もぜひ写真集にまとめてほしい。

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2020/08/06(木)(飯沢耕太郎)

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画廊からの発言 新世代への視点2020

会期:2020/07/27~2020/08/08

ギャラリー58+コバヤシ画廊+ギャラリーQ+ギャラリイK+ギャルリー東京ユマニテ+ギャラリーなつか+GALERIE SOL+藍画廊[東京都]

1993年の初回は10画廊が参加し、タイトルも「10画廊からの発言」となっていたが、第10回から11-12軒に増え、第17回で最大の13軒を記録。しかし21回めを迎える今年は8軒に減った。そのうち、初回から参加しているのは4軒のみ。寂しいけど、栄枯盛衰は世の習い。なにより猛暑の真夏に行なわれるから、見るほうとしては少ないほうが身体のためにはいい。

今年は絵画が版画も含めて6人もいた。初期のころは笠原恵実子や高柳恵理や藤浩志ら立体やインスタレーションが多かったので、隔世の感がある。しかも今回、6人中3人が下地を塗って和紙を貼ってその上に描いたり、描いた上に和紙を貼るといった重層的な画面づくりをしている。川名晴郎(ギャラリーなつか)、黒宮菜菜(コバヤシ画廊)、小野木亜美(ギャラリー58)だ。レイヤーとしての効果を得るために和紙を用いたのだろうが、そのため色彩がくすんで日本画のように見える(川名は日本画出身だが、黒宮と小野木は洋画出身)。こういうのがいまどきの流行なのか。

だから逆に、カサハラメイ(ギャルリー東京ユマニテ)のストレートな抽象画が新鮮に映った。その作品は、すべて正方形の画面にどこからか抽出した直線や曲線を引き、3色でフラットに塗り分けるというストイックな方法で制作される。なんか昔どこかで見たことがあるような。その意味で新鮮に映ったというより、懐かしさを覚えたといったほうがいいかもしれない。たとえは悪いが、周回遅れのランナーが一瞬トップに立ったみたいな。

あと2点、今年特筆すべきは、男性作家が2人しかいないことと、外国人が2人もいたこと。同じ2人だが、もちろん前者は少ない、後者は多いという意味で。この傾向はますます拍車がかかり、いずれ外国人の女性作家ばかりになる可能性もある。それはそれで楽しみだ。外国人は、香港出身の雷康寧(ルイ・ホンネイ/ギャラリイK)と、韓国出身の金昭希(キム・ソヒ/ギャラリーQ)。雷は、鳥やヘビや人間などさまざまな生物が混ざり合った妖怪みたいな異形の彫刻を丁寧につくっている。金は、段ボール箱に台所、バスルーム、寝室など日常の場面を収めるように絵に描くほか、マスクをテーマにした版画も出品。2人とも日本の美大で学んだせいか、発想や技巧は日本人とほとんど変わらない。もはや性差や国別で作品は判断できないし、する必要もない。


公式サイト:http://www.galleryq.info/news/news_newgeneration2020.html

2020/08/05(水)(村田真)

木邑旭宗「DRIFTERS」

会期:2020/07/25~2020/08/09

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

海辺に打ち上げられた漂流物は、写真の被写体としては珍しいものではない。ビーチを歩いていると、プラスチックや発泡スチロールや各種のネットなどの廃棄物がどうしても目についてくるからだ。多くの場合、それらは自然と対比され、現代文明の象徴といったネガティブな意味合いを帯びて描かれることが多い。だが、木邑旭宗(きむら・かつひこ)が、2016〜20年に千葉県・九十九里浜、静岡県・下田、長崎県・壱岐などで撮影し、今回、コミュニケーションギャラリーふげん社で展示した「DRIFTERS」には、環境問題を告発するような視点は感じられない。漂流物たちは、穏やかで広々とした海辺の空間で、気持ちよく自足しているように見えてくる。

木邑は元々、ニューヨークでデザイナーとして仕事をしていた頃から、コニーアイランドやロングビーチの海岸に足を運ぶことに、心の安らぎを覚えていたのだという。今回のシリーズもその延長上にあることは明らかで、結果として、ありそうであまりない海辺の光景の写真シリーズになった。木邑は展覧会のリーフレットに、「私は、海が織りなす自然と人工物のハーモニーを発見すると小さな喜びを感じます」と書いているが、まさにそういう写真だと思う。その「自然と人工物のハーモニー」を、観客もまた木邑とともに味わうことができる。写真展には漂流物以外の作品も何点か出品されていたが、それらの波や海鳥の写真にも、彼の「小さな喜び」が息づいていた。

2020/08/02(日)(飯沢耕太郎)

ニューミューテーション#3 菊池和晃・黒川岳・柳瀬安里

会期:2020/07/11~2020/08/30

京都芸術センター[京都府]

活動歴5年未満の若手作家を紹介する本企画。3回目の今回は、自身の身体的なパフォーマンスによって制作する3名が選出された。特に菊池和晃と柳瀬安里は、「身体の酷使をとおした美術史の再現・引用」が共通する点で興味深い。菊池作品の特徴は、「トレーニングマシン」兼「描画装置」を自作し、筋肉やメンタルの強さを鍛える行為に従事することで、美術史上の「抽象絵画」(ただしすべて男性作家)を模倣的に生産する点にある。メインの出品作「円を描く」シリーズは、直近に開催された「京芸 transmit program 2020」展のレビューでも取り上げたので、本評での詳述は省く。



菊池和晃《円を描く I─マシン》(2020)[撮影:表恒匡]


柳瀬安里もまた、自身の身体的パフォーマンスによる、美術史的作品や上演テクストの「再演」を、しばしば政治的緊張をはらんだ場において行なうことで、「今ここ」と歴史的記憶との衝突や輻輳を発生させ、見る者に突きつけてきた。《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会議事堂周辺の安保反対デモのなかを歩きながら、道路にチョークや指で「線を引いていく」パフォーマンスの記録映像である。路上に歩行の痕跡を刻み付けていくパフォーマンスとして、例えば、氷の塊が解けるまで押して歩くフランシス・アリス《実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)》(1997)や、ブーツの靴紐を足首にくくりつけて足枷のように引きずって歩くモナ・ハトゥム《ロードワークス》(1985)が想起される。柳瀬作品は、そうした美術史的過去を想起させつつ、デモに集った群衆を攪拌/分断し、地震の断層、「原発20km圏内」、警察の規制線、当事者/非当事者の境界線など複数の意味を胚胎させる。また、沖縄の高江のヘリパッド建設工事のゲート前を、エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。』を暗唱しながら歩く《光のない。》では、「私/あなた/私たち」の座を占める主体が、柳瀬の歩行とともに、日本/沖縄/アメリカ、あるいは柳瀬自身/機動隊員/鑑賞者と絶えず揺れ動き、書き換えられ、多重的に立ち上がる。戯曲の言葉が「声」として発話されることで初めて受肉化されることを示すとともに、「私/あなた/私たち」の境界画定が、分断と排除の論理が支配するあらゆる周縁化された場所で起こっていることを可視化していた。また、ウーライ/マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス《Breathing In/Breathing Out》(1977)を「再演」した《息の交換》では、柳瀬と協力者の男性が、一見キスに見える「互いの呼気を吸い合う」行為に挑み、「失敗」を繰り返す。



柳瀬安里《そこに、なにが映っていても目に見えない》(2020)[撮影:表恒匡]


本展出品作《そこに、なにが映っていても目に見えない》で参照されたのは、ヨッヘン・ゲルツによる不可視のモニュメント《2146個の石―ザールブリュッケン反人種差別警告碑》(1990-93)である。これは、ドイツの都市ザールブリュッケンで、ゲシュタポの支部が置かれていた旧領主の城館の前の広場の敷石を剥がし、その裏面に、ナチ時代に破壊されたユダヤ人墓地の名前を刻んだプロジェクトだ。今年3月に現地を訪れた柳瀬は、石畳の長さを歩幅から割り出し、ビデオカメラで撮影した石畳の映像から一つひとつの敷石を取り出すように静止画に置き換え、繋ぎ合わせて布に転写し、広場の石畳の一部を「再現」した。薄暗い展示会場では、横幅約3m×縦幅20mの「石畳」の道が床に伸び、歩数を数える柳瀬の音声が聴こえてくる。本作が過去作品と大きく異なるのは、柳瀬自身の身体がそこに現前しないことだ。この不在性は、「敷石の裏に刻まれたユダヤ人墓地名が見えない」こととも呼応し、一見「模範回答」に見える。

だが、ゲルツ作品の要は、「忘却と抹消、不在」それ自体を体現する「不可視性」「表象の禁止」に加え、「どの敷石の裏にどんな名前が刻まれているのか」わからないまま、「その上を踏みつけて歩かねばならない」点にある。私たちは、踏みつけられた者たちの姿も見えず、その痛みもまったく感じることなく、歩くことができる。敷石の上を歩くという身体的接触/徹底した断絶というアンビバレンスがゲルツ作品の賭け金である。それは、鑑賞者を、文字通り「踏みつける」暴力を一方的に行使する抑圧者の立場に強制的に転位させてしまうのだ。

しかし、柳瀬作品において鑑賞者は、凹凸のない滑らかな布の表面に転写された石畳の画像に対して、その上を踏みつけて歩くのではなく、ただ厳かに眺めるだけだ。「身体を媒介したトレース」による「今ここ」への召喚だが、鑑賞体験のコアにある「身体性」とそれがはらむ真の暴力性への反省的自覚はむしろ損なわれ、零れ落ちてしまうのではないか。

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2020/08/01(土)(高嶋慈)

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