2019年11月15日号
次回12月2日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

話しているのは誰? 現代美術に潜む文学

会期:2019/08/28~2019/11/11

国立新美術館[東京都]

サブタイトルに「現代美術に潜む文学」とあるが、いわゆる文学作品を視覚化した美術ではなく、現代美術から読み取れる物語性、あるいはそれを読み解くリテラシーといった意味だろう。つまりここでは視覚的なおもしろさより、作品に秘められた意味や物語をいかに読み解くかが問題になる。出品作家は展示順に田村友一郎、ミヤギフトシ、小林エリカ、豊嶋康子、山城知佳子、北島敬三の6人。

最初の田村友一郎は、導入で車のナンバープレートを掲げている。なんだろうと思いながら次の部屋に行くと、ハンバーガーショップらしき建築模型が置かれ、隣の部屋にはナンバープレートがたくさん横たわり、最後の部屋にはハンバーガー店のロゴマーク、櫂、コーヒーカップの写真が展示されている。そこで流れてくるナレーションを聞くうちに、バラバラだった要素がひとつの物語としてつながってくるというインスタレーションだ。



田村友一郎《Sky Eyes》展示風景


小林エリカは暗い部屋のなかで、蛍光色のウランガラスによる$マークの彫刻や、手の先から炎が発する写真や映像、1940年の幻の東京オリンピックで計画された聖火リレーの地図などを展示。これも部分的に見ただけではわからないが、全体を通して戦争と核について物語っている作品であることが了解される。どちらも現代美術の見方(読み方)を知らなければ理解しにくい作品だが、読み解けば世界の見方が少し変わったような気になるだろう。逆にいえば、個々の写真や映像だけ見てもおもしろいものではないし、クオリティが高いわけでもない。



小林エリカ《わたしのトーチ》展示風景


これとは対照的なのが、豊嶋康子と北島敬三だ。豊嶋はほぼパネル作品のみの展示。パネルの上に絵を描くのではなく、表面を削ったり、裏面に角材を貼り付けたりしている。なんだかよくわからないが、支持体であるパネルが作品になっていたり、裏表が逆転していたり、あれこれ考えているうちにおかしさがこみ上げてくる作品だ。これは全体としてひとつのストーリーを構成しているわけではないので、1点1点の作品と向き合う必要がある。

最後の北島は、東西冷戦時の東欧の人々、崩壊前のソ連の共和国、日本各地の風景を記録した3つの写真シリーズを展示。冷戦前後の東側の空気と、3.11前後の日本の風景の変化が読み取れる。それだけでも強く訴えかける力があるが、なにより目を引くのは1点1点の写真のもつ美しさだ。これまで北島の写真をまとめて見たことがなかったが、失礼ながらこんなに美しいとは思わなかった。それはこの展覧会の最後に置くという順序も関係しているに違いない。現代美術は読解力がなければ理解しにくいが、理解できればそれで終わりというわけではない。最後の砦はやはり芸術性なのだ。



北島敬三「UNTITLED RECORDS」展示風景


2019/09/07(土)(村田真)

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メガロマニア植物学

会期:2019/05/21~2019/10/06

JPタワー学術文化総合ミュージアム インターメディアテク[東京都]

人が乗れるほどのオニバス、直径1メートル近いフキの葉、長さ2メートルもあるタビビトノキの葉……。巨大植物の標本ばかりを集めている。生物の姿をできるだけ実物のまま博物館で見せるにはどうすればいいか? 動物なら剥製や骨格標本にできるが、植物の場合は組織が柔らかいためオリジナルの形状や色彩を保つのは難しい。押し花程度ならまだしも、巨大植物を無理に標本化しようとすると、パリパリにひからびて形が崩れてしまいかねない。それなら絵に描いたほうがオリジナルに近いし、なにより美しい。でも博物館屋はあくまで実物標本にこだわる。その結果、なにやら現代美術に近づいたような……。これを延長させると、ボルヘスの「原寸大の地図」にいたるかもしれない。

2019/09/06(金)(村田真)

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松山賢展─縄文風時代─

会期:2019/08/28~2019/09/09

高島屋新宿店10階美術画廊[東京都]

縄文をモチーフにした絵画と土器の展示。もちろん素直に縄文風の土器を描いたり焼いたりしているわけではない。ウルトラマン風があったりいまどきのタトゥーねーちゃんがいたり、イノシシやツチノコや地球の土偶(?)があったり、今年「土器怪人 土偶怪獣 松山賢展」を開いた新潟県・津南町の風景画があったり。サービス精神旺盛な作者らしく、ヴァラエティに富んでいる。なかには、人のかたちをデフォルメしているうちに飛行機みたいな流線型になり、やがてジェット機、ロケットと進化していく過程を土器化したものもある。縄文のロケット土器。そのうちIT土器とかブラックホール土器なんかもできるんじゃないか。

2019/09/06(金)(村田真)

新井卓「Imago/イマーゴー」

会期:2019/08/30~2019/10/18

PGI[東京都]

世界最古の写真技法、ダゲレオタイプ(銀板写真)で作品を制作する新井卓は、2016年から「明日の歴史」と題するシリーズに取り組みはじめた。「わたしたちは未来を予測することができるか、という単純な疑問」から発想したというこのシリーズでは、14〜17歳の少年・少女たちをモデルとする。彼らは、真っ直ぐにダゲレオタイプのカメラに視線を向けて立ち尽くしている。ダゲレオタイプで肖像を撮影するには、通常数秒〜十数分の露光時間がかかるのだが、新井はそれを短縮するために数万ワットのストロボ光を彼らに浴びせた。そのことで、彼らの一瞬の表情が金属板の上に定着され、モニュメンタルな「Imago/ イマーゴー」=像として提示されることになる。

新井が撮影したのは、広島在住、あるいは2011年の東日本大震災を福島県で経験している少年・少女たちである。いうまでもなく、彼らに共通しているのは自分、家族、あるいは同じ地域の人々の「被曝」の記憶を受け継いでいるということだ。そのような過去の共通体験が、彼らの現在と未来にどのような影響を及ぼしているのか。新井はそれを検証するために、もうひとつの仕掛けを用意した。彼らの肉声を録音し、その一部を会場で流したのだ。写真の上の裸電球が灯ると、その声が流れるようにセットされている。ダゲレオタイプは、ネガとポジとが一体になっているので、光で照らし出さないとくっきりとしたポジ像としては見えてこない。画像と声が同時に、順を追って目と耳に飛び込んでくるインスタレーションが、とても効果的に働いていた。

ダゲレオタイプは1839年に発明が公表されたので、今年はちょうど180年目の年にあたる。当時のダゲレオタイプが現存しているので、少なくとも180年の寿命は保障されているということだ。そう考えると、新井が展覧会に寄せたコメントに、ダゲレオタイプは「数百年後の未来へむけて彼女/彼たちの姿を運ぶ、最も信頼できる記憶装置となる」と書いていることが説得力を持つ。「数百年後」を待つまでもなく、あと数十年後に自分の姿を見て、声を聞いたときに、彼らがどんな思いにとらわれるのか、それが知りたくなった。

2019/09/06(金)(飯沢耕太郎)

We are bound to meet: Chapter 1. Many wounded walk out of the monitor, they turn a blind eye and brush past me.

会期:2019/08/09~2019/09/08

Alternative Space LOOP[韓国、ソウル]

「歴史的トラウマの傷」をテーマにした若手作家のグループ展。「We are bound to meet」というタイトルには、「自己と他者」という対立軸ではなく、「私とあなた」を共に含む「We」という単位によって歴史を考えることで、傷の本質に近づく端緒が開ける、という思いが込められている。日本の植民地支配の歴史を「we」の問題として考えるために、同じトラウマを共有する韓国と台湾の作家の作品を集め、多角的な検証を行なっている。本展は3部構想で計画されており、その第1章が開催された。

台湾と韓国それぞれにおける象徴的な建築物を通して、国家と国家、国家のナラティブと個人の記憶の関係を見つめる点で共通性と対称性を示していたのが、Liang-Pin TsaoとChung Jaeyeonの作品である。Liang-Pin Tsaoは、台北にある忠烈祠(辛亥革命など中華民国建国や日中戦争での戦没者を祀る祠)が、植民地期は護国神社であった史実に着目。ライトボックスに仕立てた写真は片側がカラーによる現在の忠烈祠、反対側がモノクロで撮られた護国神社の写真資料で構成され、「国家的イデオロギーへの奉仕」という点で両者が表裏一体であることを示す。鳥居を背にした軍服姿の男性や整列した女学生の集合写真。一方、カラフルな中華風の門と観光客の群れ、現存する神社をフォトジェニックなロケ地と見なしてコスプレや結婚式の記念撮影に興じる若者たちのスナップは、「(負の)歴史遺産のロマンティックな消費」「文化的アイデンティティのハイブリッド性」について問いかける。

一方、「国家的イデオロギーの象徴としての建築」をより個人的な経験のレベルから問うのが、Chung Jaeyeonの映像作品《A Sketch for a Foundation》。記録映像と現在の光景を織り交ぜながら彼女が静かに語り始めるのは、かつて朝鮮総督府だった建築をめぐる幼少期の記憶である。朝鮮総督府の建物は、日本の敗戦後、アメリカ軍の接収、政府庁舎を経て国立中央博物館に転用されたが、その歴史を知らずに博物館を訪れた幼い頃の彼女にとっては「宮殿のような美しい場所」であり、1995年に爆破解体のニュース映像が流れた時には悲しみを覚えたという。政治的、歴史的、集合的な記憶と個人的な記憶との断層を見つめる語りは、「歴史の消去」という企ての愚かしさ、国家的な単一のナラティブを多面的に解体すること、「過去」を当時生きた人々とは異なる視線で眼差す可能性、「真正な文化的アイデンティティ」への疑義をめぐる省察へと昇華されていく。

このように、歴史的トラウマを、(直接的には体験していない世代による)「現在」の視線で見つめ直し、冷静かつ多面的な視点から検証し、思考の共有地を開くような展覧会こそ、現在の日本に最も必要なのではないか。

2019/09/05(木)(高嶋慈)

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