2020年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

京芸 transmit program 2020

会期:2020/04/04~2020/07/26

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

京都市立芸術大学卒業・大学院修了3年以内の若手作家を紹介するシリーズ、「京芸 transmit program」。今年度の4名は、「身体性」と「美術史への参照」の二軸で構成されている。

西久松友花は、兜や陣羽織、花魁のかんざし、銅鐸などの祭具、しめ縄や民俗的な神具といった土着的な「装飾」「意匠」を抽出して組み合わせた陶のオブジェを制作している。鮮やかな赤、金銀彩やスワロフスキークリスタルが施され、祝祭的な「ハレ」の雰囲気をまとうなかに、性(生殖)や死に対する祈りと畏怖の感情が顔をのぞかせる。



西久松友花《虚飾》[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


「身体性」と「美術史への参照」の交差する地点にいるのが、菊池和晃だ。菊池はこれまで、筋肉やメンタルの強さを鍛える「トレーニングマシン」兼「描画装置」を自作し、自身の肉体を酷使する行為によって、ポロックや篠原有司男、李禹煥を思わせる「抽象絵画」を制作するパフォーマンスを行なってきた。過去作品《アクション》では、パンチングマシンに両脇を挟まれ、絵具の付いたボクシンググローブに殴られ、飛沫を血のように浴びながら、自らもボクシンググローブで殴り返す/キャンバスに描画していく。篠原有司男の「ボクシング・ペインティング」を思わせる制作方法によって、ポロック風のドリッピング絵画が出来上がる。また、《Muscle》では、スクワットを繰り返すことで、反対側にハケの付いた装置がシーソーのように上下運動し、李禹煥ばりのモノクロームのミニマルな絵画を大量生産する。美術史的規範としての絵画を、泥臭い身体の酷使によってナンセンスに脱構築する試みだと言えるが、「筋トレ」すなわちマッチョな肉体改造への願望は、美術史における男性中心主義やマッチョイズムを文字通り再生産してしまう危うさも秘めている。出品作《円を描く》は、歯車を組み合わせた装置のハンドルを6250回、手動で回すことで、吉原治良を思わせる「黒地に白い円」を描くものだ。今作ではマッチョさは後退し、制作行為を機械的な「労働」に還元するシニカルさのなかに、徒労に近い肉体労働としての制作行為を浮かび上がらせる。



菊池和晃《円を描く》[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


一方、パフォーマンスとその儀式性によって「生と死」に言及するのが、小嶋晶と宮木亜菜。小嶋は、自身の母親の心臓が弱り、洞結節からの電気信号が心房心室にうまく伝わらず、意識を失うほどの徐脈になったため、心臓が元通り動くよう、「生を実感できない」というダンサーに「母親の心筋になる」ことを依頼した。パフォーマンスの記録映像では、電気コードを握りしめて洞結節からの電気刺激を受け取り、小嶋の母親の心臓と疑似的につながった男性ダンサーが、規則的な電子音と光の明滅のなか、激しくのたうち回る。それは他者の痛みを疑似的に引き受ける祈祷的行為であると同時に、ダンサー自身が踊りの根源としての生の充溢に到達しようとするもがき苦しみでもある。



小嶋晶《bpm60》より [写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


また、宮木亜菜は、展示会場にベッド、マットレス、布団、カーペット、ハンガーラックを組み合わせて設置し、「睡眠」のパフォーマンスを毎週行なった。展示された記録写真を見ると、パフォーマンスのたびにベッドや寝具の配置が大胆に変えられていく。布団で覆われた顔の見えない頭部や布団から突き出した両脚の写真は「遺体」を思わせ、眠りと死の連続性を想起させるが、「眠り」と覚醒のたびにインスタレーションは日々の新陳代謝のように生成変化し、床を這ったり垂れ下がる布団は巨大な内臓のようだ。



宮木亜菜《眠りのあきらめ》[写真:来田猛 提供:京都市立芸術大学 ]


生産物としての「作品」の裏側にある肉体の酷使、「死」を通して生の充溢に触れ、生と死の(不)連続性を行き来すること。そのような本展の流れの中で再び西久松の作品を振り返ると、身体や衣服の表面を彩る装飾的モチーフが散りばめられた陶製のオブジェたちは、「不在の身体」として佇み始める。


2020/06/25(木)(高嶋慈)

「クラシックホテル展─開かれ進化する伝統とその先─」、高山明/Port B「模型都市東京」

会期:2020/02/08~2020/08/23

建築倉庫ミュージアム[東京都]

建築倉庫ミュージアムでは、2つの旅の展覧会が開催されている。ひとつは「クラシックホテル─開かれ進化する伝統とその先─」展であり、文字通り、日光金谷ホテルや富士屋ホテルなど、12の建築を詳しく紹介するものだ。展示スタイルもクラシックで、最初の壁に大きな年表を掲げ、模型、図面、写真、家具などを使い、赤を基調とした会場デザインも効いている。



建築倉庫ミュージアムの外観


「クラシックホテル」展に展示されていたホテル年表


「クラシックホテル」展、会場風景

そしてもうひとつは高山明/Port Bの「模型都市東京」展だ。これまで建築展を開催してきた建築倉庫ミュージアムとしても異例のラインナップだろう。事前の情報をあまり仕入れずに訪れたので、彼が具体的に「どんな展覧会をするのか?」という疑問を抱きながら会場に入ったが、すぐに「ああなるほど!」と納得した。建築模型は一切ない。むしろ、ブースを設けて、それぞれの個室で映像を見せる、いつもの手法が用いられている(ただし、今回はイヤホンでインタビューの音声を聴く)。すなわち、ここが倉庫であることを生かし、市橋正太郎、榎本一生、キュンチョメ、吉良光、ケン・ローら、12人の「利用者」の私物を各部屋に持ち込み、逆説的に「模型都市東京」を表現しているのだ。


「模型都市東京」展、展示風景

高山によれば、演劇と模型は相性がよい。なぜなら、演劇は身振りの模倣から始まったものだからだ。だが、今や活きのいい模型は舞台の上ではなく、街の中にある。そうした目で東京を観察すると、オリジナルの建築は少なく、いわば模型に溢れているという。つまり、模型は会場ではなく、都市に偏在する。そこで都市の模型=建築やインフラをオリジナルに使いこなす、移動が多い、非定住的な人たちのアクティヴィティに注目し、前述の12人を「利用者」として召喚した。おそらく彼らの活動によって、貸し倉庫のような状態になった会場の展示物は刻々と変化するのだろう。


渡邉颯のブース


キュンチョメのブース

建築模型が展示されている場合、それを見た鑑賞者は、実際の街にたつオリジナルの建築を想像する。同様に、われわれは、今回の展示において、会場に並ぶ各部屋のさまざまなパターンの私物と所有者の語りから、彼らが都市の中でどのように活動しているかを思い描く。とすれば、会場に置かれているのは、「利用者」の生活の模型だろう。そもそも模型とは何か、を考えさせる企画である。


「模型都市東京」展の会場模型スタディ

2020/06/24(水)(五十嵐太郎)

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操上和美『April』

発行所:スイッチ・パブリッシング

発行日:2020年4月10日

ロバート・フランクは2019年9月9日に94歳で亡くなった。1959年に刊行された『アメリカ人』(The Americans)をはじめとする彼の写真の仕事は、プライヴェートな眼差しを強調する現代写真の起点となるものであり、多くの写真家たちに強い影響を及ぼした。操上和美もそのひとりで、1960年代初めに東京綜合写真専門学校在学中に彼の『アメリカ人』を見て衝撃を受ける。以来、「どれだけじっくり見ても、奥が深くて飽きない」写真集として大事にしてきたという。その操上は、1992年6月に雑誌の仕事で、はじめてニューヨークでフランクを撮影した。そのときに、カナダのノヴァ・スコシアの仕事場にも足を運んだ。さらに1994年4月には、操上の故郷である北海道・富良野への旅にフランクが同行し、数日間をともに過ごした。その3回の撮影の時の写真を、再編集してまとめたのが本書『April』である。

操上はニューヨークやノヴァ・スコシアで、フランクのことを日本語で「お父さん」と呼ぶようになったという。ちょうど操上の父親と同世代であり、写真の先達でもあった彼のことを、親しみとリスペクトをこめてそう呼んだということだろう。普段は隅々まできっちりと組み上げられ、張りつめた緊張感さえ感じさせる写真を撮る操上には珍しく、どこか柔らかなトーンの、リラックスしたスナップ写真が多いのも、そんな二人の関係が作用しているのではないかと思う。知らず知らずのうちに、あの『アメリカ人』の、クライマックスをちょっとずらす写真の撮り方を取り入れているようでもある。とはいえ、写真集の帯に使われている、物陰から鋭い眼差しでこちらを見つめるフランクの顔のクローズアップのような、いかにも操上らしいフォルマリスティックな写真も含まれている。写真家が写真家を撮るという行為の面白さを、あらためて感じさせてくれた写真集だった。

なお、東京・六本木のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで、出版に合わせた同名の展覧会が開催される予定だったが、コロナ禍で大幅に延期され、会期は2020年6月20日〜7月25日になった。

2020/06/22(月)(飯沢耕太郎)

渡辺真也『ユーラシアを探して──ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』

発行所:三元社

発行日:2020/01/21

ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク。異なる出自や作風の二人が、1961年に西ドイツのデュッセルドルフの画廊で出会い、フルクサスへの参加を契機に生涯にわたって展開したコラボレーションを、ボイスの「ユーラシア」構想を軸に読み解こうとする研究書。ヨーロッパとアジアをひとつの大陸として接合させるボイスの「ユーラシア」について、「ヨーロッパとアジア、西と東、または二つの対立するものを一つに結びつけるための抽象的かつアーキタイプ的なメタファー」(12頁)と著者は述べる。

本書は、二人の生い立ちにも紙幅を割き、「ユーラシア」に関連するボイスの作品やアクションを年代順に辿りながら、パイクのソロ作品やパイクとのコラボレーションを間に挟んでいく。本書で紹介される「コラボレーション」は、パイクのプリペアド・ピアノを(予告せずに)ボイスが斧で破壊した《ピアノ・アクション》(1963)に始まり、フルクサスのイベントでそれぞれが発表したパフォーマンス、ボイスが制作した《チェロのための等質湿潤(通称フェルト・チェロ)》がパイクのビデオアート作品《ガダルカナル鎮魂曲》に登場したこと、1977年のドクメンタ6でパイク(シャーロット・モーマンとの共演)、ボイス(社会彫刻についてのスピーチ)、そしてダグラス・デイヴィスの3人が各自のプログラムをライブ衛星放送で中継した《サテライト・テレキャスト》、ジョージ・マチューナス追悼コンサートにおける「ピアノデュエット」とその派生物、そして東京の草月ホールで1984年に開催され、最後のコラボレーションとなった、パイクの即興ピアノとボイスによる《コヨーテⅢ》のボイスパフォーマンスと多岐に渡る。

本文450頁以上にのぼる大部の著作であり、想像上の境界や分断を超えていくものとして二人のアーティストの協働に光を当てる試みの意義は大きい。ただ、実証性よりも連想を重視した叙述は、「ユーラシア」の混沌とした神話的世界像を紡ぎ出す一方で、連想の糸に拡散してしまう恣意性の危うさを感じる。また、ボイスの生まれ育ったクレーヴェがキリスト教化以前のケルトの影響が色濃く残る神話と伝説の地であること、少年期にヒトラー・ユーゲントに所属し、第二次大戦中に搭乗した戦闘機がクリミア半島で墜落し、タタール人の手当を受けて瀕死の重傷から回復したこと(「アジア」と遊牧民との出会い)、同僚のパイロットの死のトラウマといった自伝的要素に強く依拠した作品解釈にも、疑問が残る(パイクについても同様に、日本統治下のソウルで財閥企業家の息子として生まれ、父親が日本の植民地支配に協力していた証拠の隠蔽や武器貿易への関与、朝鮮戦争勃発後の日本への避難といった「戦争の心理的な傷」とその回復が、作品解釈の基底をなす)。ケルトや北欧、ゲルマン、古代エジプト、ギリシャ、シベリアの神話や伝承、遺跡、インドの仏教説話、ジェイムズ・ジョイスの文学、「数字」に込められた象徴的・暗号的な意味など、本書はさまざまな前キリスト教的イメージや隠喩を次々と投与して連想の輪を広げていくが、それらは「分断された東と西(アジア/ヨーロッパ、西側の資本主義/東側の共産主義、北朝鮮と韓国)を統一し、戦争の傷を癒す」という解釈(単一の物語)へと収斂し、「秘教的なシャーマン」としてのボイス像の再神話化に与してしまう。

また、アジアとヨーロッパを統合した超国家的なひとつの大陸という壮大なヴィジョンは、(渡辺自身が「はじめに」で警戒するように)「大東亜共栄圏」の亡霊の召喚に加え、よりアクチュアルな事態としては、中国が提唱する「一帯一路」構想を想起させる。半世紀以上前のアーティストのラディカルな夢想は、今や、社会主義体制と新自由主義が両輪となってインフラ、物流、情報の流通網と軍事拠点の覇権的掌握をめざす巨大な経済圏に飲み込まれ、凌駕されつつある。

2020/06/20(土)(高嶋慈)

New Zen Foto Book Series Launch Exhibition THREE CITIES Shanghai / Hong Kong / Tokyo

会期:2020/06/05~2020/06/27

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

東京・六本木のZen Foto Galleryでは、これまで展覧会を開催するごとに写真集も刊行してきた。内容・デザインともにクオリティの高いものが多いのだが、少部数のためどうしても価格は高くなってしまう。今回新たにスタートした写真集シリーズは、そのあたりに配慮したもので、20センチのスクエアサイズに大きさを統一し、4,500円(税込)という比較的安い値段におさえた。むろん、印刷や造本には以前と同じように気を配っており、より広がりのあるラインナップが期待できそうだ。

その「New Zen Foto Book Series」の第一弾として、須田一政の『現代東京図絵』、中田博之の『上海 四肢五体』、周生(Chow San)の『No Teacher But I Can Take Photos』の3冊が刊行され、東京、上海、香港の三都市をテーマとするお披露目の展覧会が開催された。須田の『東京現代図絵』は『アサヒカメラ』(1982年1月号〜83年3月号)に連載されたシリーズで、例によって東京のエアポケットのような光景を採集している。1999年から中国・上海に住む中田の『上海 四肢五体』は、2008年から撮り続けている勢いのあるストリート・スナップ写真である。1982年生まれの周生は、2010年頃から独学で写真を撮影し始め、肩の力が抜けた飄々とした撮影のスタイルを作りあげた。

三人の三都市の写真はまったくバラバラだが、こうして会場に展示され、写真集の形でまとめられると、それほど違和感なく目に飛び込んでくる。東アジアという風土的な共通性だけでなく、多層的、多面的な状況に分け入り、興味深いイメージをつかみ取ってくる「都市写真」の文法が、現代写真家たちに共有されていることのあらわれともいえるだろう。

2020/06/19(金)(飯沢耕太郎)

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