2019年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

田口和奈「エウリュディケーの眼」

会期:2019/05/08~2019/06/01

void+[東京都]

田口和奈の展示を見るのはひさしぶりだ。void+では10年ぶりの個展だという。今回の展覧会は「五島記念文化賞美術新人賞研修帰国記念」として開催されたもので、展示されているのは、田口が現在制作中の本『エウリュディケー』から派生した近作である。

田口は雑誌の画像、ファウンドフォト、自分が撮影した写真などのパーツを組み合わせて架空の人物や場所を描き、それをカメラで撮影して印画紙にプリントするという手法で作品を制作する。どこか錬金術を思わせるそのプロセスによって出現してくるモノクロームの画像の精度、密度は驚くべきものだ。だが、今回展示されている作品は、その制作プロセスの途中経過をそのまま提示したもので、「仮の」状態が生々しく露呈しているものが多い。逆にそのことによって、制作中の田口の思考を覗き見ているような面白さが生じている。タイトルの「エウリュディケー」とは、ギリシア神話のオルフェウスの妻の名前である。オルフェウスは、冥界から彼女を連れ帰ろうとしたが、もう少しのところで果たせずに終わる。展示されている写真には、そのような手が届きそうで届かないもどかしさが、隠喩的に表現されているようにも感じた。

どうやら『エウリュディケー』の制作は難航しているようだが、どんなふうにでき上がるのかが楽しみだ。田口のことだから、おそらく一筋縄ではいかない書物になるのではないだろうか。

2019/05/16(木)(飯沢耕太郎)

開館30周年記念特別展 美術館の七燈

会期:2019/03/09~2019/05/26

広島市現代美術館[広島県]

1989年、公立館としては国内初の現代美術専門館として開館した広島市現代美術館の30周年記念展。19世紀イギリスの美術評論家、ジョン・ラスキンの著書『建築の七燈』にならい、同館の軌跡や美術館に必要な要素、担う役割、今後の課題を「七つの灯り」になぞらえた章立てで構成。「観客(参加型)」「建築」「ヒロシマ」「保存修復」「資料と記録」「リサーチと逸脱」「あいだ」といった切り口から、コレクションや資料、新作インスタレーションが全館を用いて展示された。


全体を見終わって感じたのは、「歴史を編む装置」としての美術館のあり方を、(作品ではなく)自館を対象にインストールし、普段は表に出にくい潜在的な地盤を課題とともに浮かび上がらせた印象を持った。例えば、館の独自性として「ヒロシマ」を扱った作品の収集や制作委託を振り返った章。作家への「制作委託」が、開館時の1期には78作家、被爆50周年にあたる1995年の2期には50作家、1999~2005年の3期には128作家に行なわれたことが解説パネルに記され、着実な積み重ねによって館のアイデンティティが構築されてきたことがわかる。

だが、2006年以降、制作委託による収集はストップし、石内都の撮った被爆衣服、旧広島市民球場に「地蔵建立」した小沢剛、都築響一の撮った路上生活者のポートレートは、個展開催時に「寄贈」された旨が記される。 また、3年毎に開催される「ヒロシマ賞」の歴代受賞作家の紹介でも、近年になるに従い、先細りが目立つ。シリン・ネシャット(第6回受賞者)とドリス・サルセド(第9回受賞者)は収集から抜け落ち、オノ・ヨーコ(第8回受賞者)とモナ・ハトゥム(第10回受賞者)については、大型のインスタレーションではなく小品に留まる。「コレクションを通した館のアイデンティティ構築」という使命が置かれた厳しい状況を、(同館だけでなく)国内の美術館に共通する課題として物語っていた。


また、「『残すこと』作品の修復、コンサベーションの現在」と題された4章も、コレクションが直面する課題について、「保存修復、作品の生と死」をめぐる異なる考え方や対処法を、実作品とともに提示した。「物理的な修復による延命」としては、吉原治良の絵画作品の修復現場を公開。ニス層の除去と再塗布を定期的に行なうことで、表面の汚れや経年による黄変を取り除く。「最小限かつ可逆的な介入」を基本理念に、モノとしてできるだけ現状維持での保存と延命を目指す。



会場風景
[Photo: Kenichi Hanada]


一方、プラスチック製の日用品やトイレットペーパーなど消耗品を「逸脱的・遊戯的に使用」した記録映像とともに、それらの現物を床に散乱させた田中功起の作品は、「大量生産品や永続性のない素材の代替がどこまで可能か」という問いを投げかける。作品に使用された日用品は、台湾で購入された発表当時のままだという。再展示の際に取り換えが可能か、どのような配置が望ましいかは、作家と所蔵者や美術館のあいだで「インストラクション(指示書)」を今後協議する必要がある。こうした指示書は、非永続的もしくは実体的な境界が曖昧な作品を時間の隔たりを乗り越えて何度でも再生させる「譜面」の役割を果たすとともに、「作品のオーセンシティ(真正性)を保証・決定するのは誰か」という問題も含む。



田中功起《everything is everything》  2005-2006
[Photo: Kenichi Hanada]


また、66台のブラウン管テレビをV字型に積み上げたナムジュン・パイクの《ヒロシマ・マトリックス》は、メディア・アート作品が本質的に内包する「機材の劣化や技術的更新のネガとしての寿命」を浮上させる。ソニーのブラウン管テレビは2008年に生産中止になったが、パイク作品は「(テレビ)映像」の視覚的快楽の称揚とメディア批判に加え、彫刻的性質も併せ持つため、ブラウン管を液晶モニターで代替することは作品の本質を損なう。オリジナルの再生機器であったレーザーディスクはDVDに変換したというが、ブラウン管テレビについては、液晶への代替もやむなしと判断するのか、上映時間を限定して少しでも寿命を延ばすのか、交換用の部品のストックを可能な限り増やすのか、今後の対策と判断にかかっている。



ナムジュン・パイク《ヒロシマ・マトリックス》 1988
[Photo: Kenichi Hanada]


上述した「コレクションによるアイデンティティ構築(と予算的困難)」「保存修復(の異なる考え方)」は、国内外の美術館に共通する役割や課題だが、本展のもうひとつの軸は、「広島市現代美術館それ自体についてのアーカイブ」にある。ヒロシマ賞の歩みの紹介に加え、黒川紀章が手がけた建築のドローイングや模型、ロゴや椅子などデザイン設計、開館紹介の「ビデオサイン」、未完に終わった「比治山芸術公園基本計画」の図面や報告書などの資料が展示される。また、デザインユニットの又又は、美術館の準備室から現在までに残された資料を、インスタレーションとして構成。ポスターやパンフレットなど広報物、オリジナルグッズといった「外の目に触れる」資料とともに、建設時や野外彫刻設営時、公式行事の記録写真、テープカットに使われたハサミやテープ、保管理由不明な謎の品々までをリズミカルに配置。普段は「表舞台」には現われない潜在的な存在が、地層を掘り起こすように露わになった。



会場風景
[Photo: Kenichi Hanada]


また、田村友一郎は、30年前の開館日に撮影された一枚の写真──館内の公衆電話から電話をかける女性たち──を起点に、歴史のある定点からフィクションを生成。写真のなかの空間が舞台装置か撮影セットのように精巧に再現され、男女の会話で展開するストーリーが、イメージを欠いた字幕だけの映画として投影される。これらをとおして、アーカイブは「過去において描かれた未来」という分岐的な未完の像を含むものであり、その解釈行為は、これからの未来にありうる姿を(ただし欠落を含みながら)逆照射する営みであることを浮かび上がらせていた。


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美術館とコレクション──開館30周年記念特別展「美術館の七燈」|角奈緒子:キュレーターズノート

2019/05/15(水)(高嶋慈)

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The Nature Rules 自然国家:Dreaming of Earth Project

会期:2019/04/13~2019/07/28

原美術館[東京都]

その名を耳(目でもいい)にするのは久しぶりのアーティスト、崔在銀(チェ・ジェウン)の発案・構成による展覧会。朝鮮半島を南北に二分する非武装地帯(DMZ)を舞台に、何ができるか、何をすべきか。崔が李禹煥、オラファー・エリアソン、川俣正、イ・ブル、坂茂、スタジオ・ムンバイといったアーティストや建築家に声をかけ、自由に発想してもらったプランを紹介している。DMZは停戦ラインの南北2キロずつ立ち入り禁止の緩衝地帯になっており、300万個ともいわれる地雷が埋められていることもあって、100種を超える絶滅危惧種をはじめ5000種以上の生物が育まれているという。

崔は不要になった鉄条網を溶かして鉄板にし、飛び石状に並べてその上を歩いて行けるようにした。川俣は「ネスト(巣)」シリーズの延長で崖の上に木材を組んで鳥の巣状の展望台をつくり、坂は地雷に触れないように竹で遊歩道を渡して歩くプラン。どっちかというと海外のアーティストが自然科学的アプローチでプランを考えているのに対し、日本人はDMZを観光資源として捉えて提案していて、その違いはどこから来るんだろう。福島県の帰還困難区域で行なわれている「Don't Follow the Wind」にも似た「未完のプロジェクト」。

2019/05/15(水)(村田真)

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北島敬三「UNTITLED RECORDS 2018」

会期:2019/05/07~2019/05/27

ニコンプラザ新宿 THE GALLERY[東京都]

北島敬三は1990年代から各地の風景を厳密な画面構成で撮影していく「Places」のシリーズを制作・発表し始めた。その試みは2000年代に入っても続けられ、2012年、2013年に『日本カメラ』に発表されたときから「UNTITLED RECORDS」と命名されることになる。2014年からは、年4回ほどのペースで東京・新宿のphotographers’ galleryでの連続展が開催され、その度に同名の写真集が刊行されるようになった。その数はすでに15回を数える。今回のニコンプラザ新宿 THE GALLERYでの展示は、2018年に1年間かけて北海道から沖縄まで全国各地で撮り下ろした写真を集成したもので、あわせて写真集『UNTITLED RECORDS Vol.16』(KULA、2019)が刊行された。

一見すると、かなり恣意的に「無題の」風景や建物を切り取っているようだが、このシリーズには北島の周到な選択眼が隅々まで働いている。撮影しているのは必ず曇り、雨などの日で、風景にドラマチックな要素を付け加える光はできる限り排除される。被写体として選ばれるのは、あまり地域的な特徴を持たない建物で、テントや小屋などを含む「仮設」の印象を与えるものが多い。建物を単独でクローズアップすることはほとんどなく、空き地や道路のような周辺の環境がかなりのスペースをとって写り込んでくる。このような厳密な手続きを経て定着された眺めは、2011年の東日本大震災以後の日本各地の景観がどのように変貌しつつあるかを、まざまざと指し示している。画面を覆い尽くす「鈍色の輝き」(倉石信乃)は、まさにこの時代の空気感そのものだ。

このプロジェクトは2021年まで、全20回にわたって続けられる予定だが、これら名もなき風景の記録が、50年先には「未来の視覚資料」としての重要な意味を持つことは間違いない。今回の個展はその中間報告的な意味合いを持つものであり、プロジェクトが完結したときには、より大規模な展示を実現してほしいものだ。

2019/05/14(火)(飯沢耕太郎)

オサム・ジェームス・中川「Eclipse:蝕/廻:Kai」

会期:2019/04/13~2019/05/20

ギャラリー素形[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッド・プログラムとして、ニューヨークで生まれ日本で育ち、2国のアイデンティティを踏まえて活動する写真家オサム・ジェームス・中川の個展が開催された。展示内容は、1990年代の初期作品をベースに、トランプ政権後のアメリカ社会の変容を意識して新たに制作した「Eclipse:蝕」と、自身の両親の死や老い、妻の妊娠、娘の誕生といった家族を通して生命と死を考える「廻:Kai」の2つのシリーズから成る。社会批評と極私的なプライベートという2つの対極的な軸から成る構成だが、両者に通底するのは、「写真イメージ」への自己言及性だ。

「Eclipse: 蝕」では、無人の荒涼とした風景のなかに、朽ちかけた巨大なスクリーンが壁のように建つ。これらは、野外の駐車場にスクリーンを設置し、車に乗ったまま映画を鑑賞できる「ドライブ・イン・シアター」の残骸である。1930年代にアメリカで始まった、車社会を象徴する娯楽であり、1950年代末~1960年代初頭に最盛期を迎えた。中川は、ハリウッド映画や大企業の広告が、「アメリカン・ドリーム」という虚構の神話を大衆に浸透させる一方で、宗教や人種的対立、移民労働、経済格差などの不都合な問題を隠蔽している構造への批判から、90年代に「ドライブ・イン・シアター」と「ビルボード」のシリーズを制作した。本展でも紹介されたこれらの作品では、荒れ果てた風景のなかに建つ巨大スクリーンに、KKK(白人至上主義者)のデモや移民労働者のイメージが合成され、「隠蔽された社会的真実が当の隠蔽装置それ自体を用いて上映・広告されるが、誰も見る者はいない」という強烈な皮肉を放つ。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、トランプ政権成立後に制作された「Eclipse:蝕」では、スクリーンには何も投影されず、ただ空白のみが提示される。よく見ると、スクリーンの背後の鬱蒼とした木立や手前に生い茂る植物、散乱したゴミの一部はネガポジ反転され、視界が奇妙に歪む。暗く沈んだ空も時間の把握を狂わせ、「日蝕」のように夜なのか昼なのか、現実なのか虚構なのか判然としない空間が立ち現われる。同一画面におけるネガとポジの入り組んだ混在は、ポジ(ハリウッド映画やメディアが喧伝する多幸的な未来)とネガ(それらが破綻したディストピアの荒廃)が同居する社会の像とメタフォリカルに重なり合う。こうした「Eclipse:蝕」には、90年代の過去作品のネガをデジタルに起こしたものと、新たに撮影されたものとが混在する。それは、アメリカ社会のかつての繁栄と現在の荒廃、自作の過去と現在といった時間の層を何重にもはらみ込みつつ、入れ子状になったスクリーンの空白は、未来の展望の不在、視覚イメージの飽和、不気味な沈黙の圧力、そしてイメージが消去された検閲的状況さえ匂わせる。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]


一方、もうひとつのシリーズ「廻:Kai」では、遺影のようなポートレートが暗示する父親の死や不在、老いていく母親の身体、妊娠した妻、娘の誕生と成長といった自身を取り巻く家族の生と死が、象徴的なイメージとともに紡がれる。ナチュラルな木枠と黒枠のフレームが二対になった構成は、生命/老いや死のイメージを対置させるが、氷漬けにされた写真、その解けかけた様子が示唆する記憶の凍結と解凍、ガラスに反映したカメラを構える自己像、無邪気にカメラで遊ぶ娘を挟んで両脇に落ちる自身と妻の影、スクリーンや皮膜を思わせる存在の挿入など、「写真」への自己言及的な眼差しに満ちていた。


[©︎ Osamu James Nakagawa Courtesy of PGI]

2019/05/12(日)(高嶋慈)

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