2020年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地

会期:2020/01/18~2020/03/31

アーティゾン美術館[東京都]

休館していたブリヂストン美術館が「アーティゾン美術館」に名前を変え、展示スペースも一新して再出発した。「アーティゾン」とは「アート」と「ホライゾン(地平)」をつなげた造語だが、こういう「アート+なんとか」って発想はオヤジっぽくてダサいなあ。あ、BankARTも似たようなもんか。でも、あえてブリヂストンという母体の企業名を排して「アート」を強調したのは、ブリヂストンの企業戦略かもしれない。

旧美術館は戦後まもない時期、本社ビルの建設中に石橋正二郎がニューヨークを視察したとき、MoMAに感銘を受けて急遽ビル内に美術館を入れたというエピソードを読んだことがある。そのため外観からは美術館があることがわからず、天井高も展示空間としては低いのが難点だった。つまりブリヂストン社内の美術館だったのだ。それが、ビルの建て替えで中央通に大きく新美術館のエントランスを構えて新社屋の「顔」とし、その背後に本社機能を据え、ビルの名も「ミュージアムタワー京橋」と称することで、企業よりも美術館を前面に押し出したってわけ。最近流行の「ビジネスに役立つアート」を実践したかたちだ。

美術館は23階建てビルの低層階に位置し、面積は約2倍に増床。1階の広々とした吹き抜けのエントランスを入り、3階で受付を済ませて6階から4階まで3フロアにおよぶ展示室を見ていく。4階の一部は吹き抜けになっていて、5階から見下ろすことができる。2階にはミュージアムショップ、1階にはカフェも完備。これなら気軽に立ち寄りたいところだが、残念ながらチケットは日時指定の予約制なので、気が向いたときに立ち寄れるわけではない。

開館記念展は「見えてくる光景 コレクションの現在地」で、2800点ものコレクションから選りすぐった約200点を、「アートをひろげる」「アートをさぐる」の2部に分けて公開。第1部は、セザンヌ《サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》、ルノワール《すわるジョルジェット・シャルパンティエ嬢》といったおなじみの印象派絵画に始まり、フォーヴィスム、キュビスム、アンフォルメル、抽象表現主義、具体、草間彌生あたりまでほぼ時代順に並べている。印象的だったのは、ピカソの《腕を組んですわるサルタンバンク》とマティスの《縞ジャケット》のあいだに、関根正二の《子供》が置かれていたこと。いずれも100年ほど前に描かれた人物像で、ピカソとマティスはさらりと描いているのに、関根は色彩こそ明るいけどなにかどんよりと重苦しい空気が覆っている。ピカソとマティスはともに40代の脂ののった時期だが、関根はその半分にも満たない年齢だったことを思うと感慨深い。

第2部は、さらに「装飾」「古典」「原始」「異界」「聖俗」「記録」「幸福」に分け、シュメールやエジプトの彫刻から、明の景徳鎮、江戸期の洛中洛外図屏風、レンブラント、モロー、ゴーガン、青木繁、岸田劉生、そしてアボリジニのエミリー・カーメ・イングワリィまで幅広く紹介している。余計なお世話だけど、国公立の総合美術館じゃないんだから、時代やジャンルをもう少し絞ってコレクションしたほうが色をはっきり打ち出せるんじゃない?

2020/01/30(木)(村田真)

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art trip vol.3 in number, new world/四海の数

会期:2019/12/07~2020/02/09

芦屋市立美術博物館[兵庫県]

芦屋市立美術博物館の所蔵品とともに、現代美術作家の作品を紹介する企画「art trip」。前回のvol.2より、出品作家がそれぞれの関心や展覧会テーマに基づいて所蔵品を選び、自作と並置あるいは作品内に取り込む展示形態が採られている。vol.3となる今回は、「数」というテーマを設定。「コレクションとの競演」という要素に加え、「数」「数字」「時間」といったテーマが絡む、複層的なレイヤーをはらんだ展示構造だ。

「コレクションとの競演」の点でそれぞれ興味深いのが、津田道子、久門剛史、中村裕太。津田のインスタレーション《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》では、平行、斜め、直交など異なる角度で吊られた9つの黒いフレームが林立する空間内を鑑賞者が歩き回る。フレームの内側は、鏡、スクリーン、何もない空になっており、自身の鏡像、仕掛けられたカメラがリアルタイムで捉えた映像、透過された向こう側、さらにそれらが鏡に映り込んだ光景が見え、二重、三重の入れ子状態が出現する迷宮的構造を見る者はさ迷う。



津田道子《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》(2016/2019) [撮影:表恒匡]

視線の主体である唯一の「私」は、鏡の反映、カメラの視線、フレーム=(他者の)視線の多重的な配置によって、鏡の乱反射のように解体・複数化される。タイトル中の「あなた」「私」といった人称代名詞や「翌日」「そこ」といった指示代名詞すなわちシフターは、指し示す中身が文脈によって無数に代替可能な「空白地帯」であることを示す。本展では、この不在と実在、視線の迷宮的構造のなかに、津田が選んだ菅井汲の「建築シリーズ」9点が映り込み、角度によって見え隠れする。より興味深いのは、同じく津田が選んだ白髪一雄と村上三郎のダイナミックな抽象絵画について、身体的ストロークの軌跡を分析・図解した「動きのスコア」だ。「(鑑賞者/画家の)身体運動の軌跡による構築物」として「作品」を捉えるあり方は津田作品と通底するが、A4の紙に印刷したものが会場配布されるに留まり、より踏み込んだ自作との呼応や新たな創造にまで至らなかった点が惜しまれる。

また、久門剛史は、吹き荒れる暴風雨のようなノイズと激しい雷鳴のようにライトが明滅するインスタレーション空間のただなかに、田中敦子の絵画を設置し、より物理的な干渉を試みた。傍らには、呼吸のように瞬きを繰り返す電球の集合体と、円を描いて床を這い回る電線が設置され、電球と電気回路を抽象化した田中作品を形態的に模倣、反復、立体化する。激しい音と光による暴力的なまでの干渉は、田中作品の(美術館であるべき)静的な鑑賞を妨げる一方で、文字通り「明滅する光」を当てる行為は、命を吹き込み蘇生を試みているようでもある。



久門剛史《Artist》(2019)[撮影:表恒匡]

一方、所蔵品に対してより解釈的に踏み込み、分解と再構築のプロセスそれ自体を作品化したのが、中村裕太の《かまぼこを抽象する》。中村は、戦前の抽象絵画のパイオニア、長谷川三郎が「かまぼこ板」を版木に用いた版画作品と、版木に整理番号を振って組み合わせを考察した河﨑晃一(元同館学芸課長)の研究に着目。河﨑の数え方に習い、長谷川の手書き原稿の筆跡をいくつかの断片的な造形要素に分解・還元し、それらを版木のように組み合わせて再構築した。かまぼこ板を使用した制作について長谷川が書いた文章を、彼自身の造形手法を参照して再提示したメタな試みであり、同時にそこには画家自身の言葉、研究者の解釈、アーティストの創造と、時間も立場も異なる三者の行為が幾重にも折り重なって堆積する。



中村裕太《かまぼこを抽象する》(2019) [撮影:表恒匡]

このように、「出品作家に選ばせる」ことで所蔵品に新たな光を当て、見え方の活性化を促す本展の企図は、成功していたと言えるだろう。

一方、改めて作品の凄みを感じたのが、今井祝雄が1979年5月30日からライフワークとして継続している「デイリーポートレイト」。「1日1枚、ポラロイドでセルフポートレイトを撮影する」行為の厚みを、アクリルボックスに納めた1年間分の写真の束=物質化された時間の層として提示する。ポラロイドの余白には撮影した年月日が記され、列柱のように並んだ写真の層を辿ると、今井の顔が徐々に若返る/年齢を刻んでいく。会期中も毎日、ポートレイトが美術館に送られ続け、層を形成していく証左として、郵送された封筒がボックスの傍らに積み上げられている。



今井祝雄「デイリーポートレイト」(1979-) [撮影:表恒匡]

だが、この作品の真の恐ろしさは、「前日に撮影したポラロイド写真を手に持って撮影する」仕掛けにある。今井が手に持った「前日に撮影したポラロイド写真」には、「その1日前に撮影した写真」が入れ子状に写り込み、さらにその写真には「もう1日前の写真」が写り込んでおり…というように、「今日、撮影された1枚」には、今井が撮影を開始した日付から流れた時間の総体が(もはや目視できなくとも)圧縮され、封じ込められているのだ。「1枚の写真の表面」にこれまで生きた時間を入れ子状に取り込み、(作者の死という終止点が打たれるまでは)原理上、半永久的に続行可能なシステムの維持に個人の生を飲み込んでしまう。迷宮的眩暈の感覚を突きつける、恐るべき作品である。

2020/01/25(土)(高嶋慈)

「DOMANI・明日2020 傷ついた風景の向こうに」展

会期:2020/01/11~2020/02/16

国立新美術館[東京都]

「DOMANI・明日展」は、サブタイトルに小さく「文化庁新進芸術家海外研修制度の成果」と書かれているように、文化庁の海外研修(かつて「芸術家在外研修」と呼ばれていたため、以下「在研」)に行った作家たちがその成果を発表する場であり、いわば個展の集合体。と思っていたら、最近は在研の経験のないアーティストも出すようになって、企画性を強めている。とくに今回は11人中5人、つまり半分近くが在研とは無縁の作家たちに占められ、「傷ついた風景の向こうに」というテーマのもと、いつになくメッセージ性の強い作品が並んだのだ。

最初の部屋こそ、これまでの派遣国や地域別人数を記した表を掲げ、同展が在研の展覧会であることを示しているが、次の展示室の石内都とその対面の米田知子は、ともに在研の経験がない作家だ。石内は身体の傷跡を撮った「Scars」シリーズをメインに出しているが、トップを飾るのは、被爆後まもない広島を撮った写真の中央に写る原爆ドームを切り抜き、再度テープでとめて撮影した「ひろしま」シリーズの1点。石内は「傷跡を撮ることは写真をもう一度撮るのと同じかもしれない」と述べているが、被爆地を撮った写真を切ってもういちど撮った写真は、まさに傷だらけ。その向かいの米田は、穏やかな田園や海岸を写した風景写真を出している。が、《道──サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道》や《ビーチ──ノルマンディ上陸作戦の海岸/ソードビーチ・フランス》といったタイトルを読むと、一見平和そうな風景に潜む傷ついた過去が浮かび上がる。どうやらあまり平穏な展覧会ではなさそうだ。

次の藤岡亜弥は在研経験者で、現在の広島を撮った「川はゆく」シリーズを発表。いまの広島を撮りながら、原爆ドームの写真や被爆者の描いた絵などを画中画のように画面に写し込み、過去と現在を同居させている。その次の大きな部屋は、彫刻家の森淳一と若林奮。森は出身地である長崎を襲った被爆を、光と影の視点から彫刻化した作品を出品。若林は、東京都下の山林に計画されたゴミ処分場に反対するために制作した《緑の森の一角獣座》のマケットやドローイングを出している。どちらも地形に印された傷跡を立体的に作品化したものといえるだろう。

ここまでくると、いつもの「DOMANI」展らしからぬ重苦しさを感じるかもしれないが、全体のちょうど真ん中へんに栗林慧の超ドアップの昆虫の映像が流れ、自然の生み出すユーモラスかつ驚きの姿かたちと動きにしばし見とれるはず。その後、被災後の福島をモチーフにした佐藤雅晴のアニメ、枯れ枝と葉のついた枝を対比した日高理恵子の絵画、キンモクセイの葉6万枚を葉脈だけにしてつないだ宮永愛子のインスタレーションと続き、東北3県の津波被災地を撮った畠山直哉の風景写真で終わる。畠山の写真で印象的なのは、荒涼とした背景に部分的に葉を茂らせて立つ1本の木の姿だ。大半が昨年撮ったものだそうだが、自然は7、8年かけてようやくここまで再生したと見ることもできるし、逆にまだここまでしか再生していないと見ることもできるだろう。背景に写る防潮堤や宅地造成地との対比が象徴的だ。

同展のサブタイトルにはもうひとつ、「日本博スペシャル展」というのもついていた。東京オリンピック・パラリンピックの開かれる今年、「日本人と自然」をテーマに、「日本の美」を体現する展覧会やイベントを体系的に紹介していく「日本博」の特別展として、「傷ついた風景」をねじ込んだのはある意味快挙かもしれない。

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DOMANI・明日展PLUS X 日比谷図書文化館 ──文化庁新進芸術家海外研修制度の作家たち |柘植響:トピックス(2017年12月15日号)

2020/01/22(水)(村田真)

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HER/HISTORY

会期:2020/01/17~2020/01/28

岸和田市立自泉会館[大阪府]

アーティストの稲垣智子がキュレーターを務める、「歴史」をテーマとしたグループ展。「HISTORY」の前に付けられた「HER」が示唆するように、「男性」「権力」「単一性」によって語られてきた大文字の歴史/物語を、周縁性や複数性の視点からズラし、いかに語り直すことが可能かという問いが本展の基底にある。

この問いに正面から向き合い、秀逸だったのが、mamoruと長坂有希。mamoruの映像作品《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》は、太平洋戦争末期の1945年1月、空襲下の台湾にて発掘作業を行なった日本人の考古学者の残した記録資料を基軸に、「国家が(他者の)文化を奪うこと」と「戦争という暴力を先住民が別の形へと変容させること」について語る、映像音楽詩とも言える美しい作品である。興味深いのは、リズミカルに編集されたシーンの展開に応じて、異なる「語りの視点や文体」が採られ、複数の「声」「主体」によって織り上げられている点だ。「彼は」という三人称視点のナレーションで始まる映像は、台湾に残る遺跡を撮影したモノクロ写真を入れ子状に映し出し、物語世界としての対象化と隔たった距離感をまずは提示する。だが、語りが「私は」という一人称視点に切り替わるとともに、見る者は、視点の同一化によって語られる物語のなかへと迎え入れられ、「台北帝国大学所属の考古学者である私」が抱える、学問的な探求心と「研究成果が国家の植民地政策に利用される」ジレンマを聞くだろう。

一方で一人称の語り手は、事務的な発掘日誌を淡々と読み上げていく。発掘作業の進展と、度重なる空襲による作業中止の報告。先住民による合唱の挿入。彼らは、米軍機が落とした弾丸を拾い、溶かして地に注ぎ、装身具に作り替えていたこと。それは、戦争という暴力を溶かし、新たな形と力を与える一種の変身であり、度重なる侵略と抑圧を潜り抜けて受け継がれてきた、軽やかな抵抗の作法ではないかとナレーションは語る。当時の記憶を持つ人々のインタビューを挟んで、終盤では、リズミカルなラップに乗せ、国家的暴力に対する抵抗、同調圧力や自己欺瞞の包囲網、その孤絶感のなかで続く自問自答の戦いについて歌い上げられていく。資料のリサーチ、インタビュー、複数のナラティブの形式の並置により、可視化されてこなかった歴史を多面的に語り直す本作はまた、先住民の歌声や爆撃音、ラップのリズムと同期した字幕編集など、音楽的編集が際立つ。



mamoru《私たちはそれらを溶かし地に注ぐ》(2020)[撮影:植松琢麿]

一方、長坂有希の作品では、波打つ海面の映像を背景に、語り手は一貫して「あなた」という親密な呼びかけで語り続ける。呼びかけの相手は、エーゲ海の島から海を渡って大英博物館に運ばれた大理石のライオン像である。前足と口、そして宝石が嵌められていたであろう光輝く目を失い、傷ついたその姿は、故郷から引き離された難民や移民のディアスポラとしての生や、奴隷貿易のメタファーともとれる。「あなたの目になって、あなたが見ていたものを探しに行くことにしたの」と言い終える語り手は、他者の痛みに向き合うことは、「あなた」という親密な関係性のうちでしか成しえないのではないかと告げる。映像の背後の黒板には、地中海の簡略な地図や旅先の風景と思われるドローイング、「序章」と「終章」という単語が断片的に描かれるのみであり、その物語は、私たち自身が「目」となって痛みの共有と親密な関係性を想像的に結び直しながら、投影しなければならないのかもしれない。



長坂有希《手で掴み、形作ったものは、その途中で崩れ始めた。最後に痕跡は残るのだろうか。02_ライオン》(2020) [撮影:植松琢麿]

物語的叙述、内省的主観、業務的な記録、記憶をもつ当事者の語り、抵抗のラップの歌声など多層的な声の(再)配置と、「あなた」への親密な語りかけ。対照的ながら、「負の記憶にどう向き合うか」という問いに対峙し、その向き合い方を開いていく語りの作法の開発が、静かに提示された展示だった。

2020/01/22(水)(高嶋慈)

第44回伊奈信男賞 岩根愛「KIPUKA」

会期:2020/01/16~2020/01/22

ニコンプラザ大阪 THE GALLERY[大阪府]

戦前にハワイに渡った日系移民と、そのルーツである福島県民。サトウキビ製糖産業の衰退とともに廃れていく移民墓地と、震災後の福島の帰宅困難区域。ハワイの毎夏の盆祭りでいまも熱狂的に踊られている「ボンダンス」のひとつ「フクシマオンド」と、その元歌である「相馬盆唄」。国家の移民政策によって、あるいは原発事故によって故郷から強制的に隔てられた両者をつなぐ「盆踊り」を基軸に、10年以上に渡る精力的なリサーチと撮影を続けている岩根愛。その成果がまとめられた写真集『KIPUKA』(青幻舎、2018)で昨年、第44回木村伊兵衛写真賞を受賞し、ニコンが運営するギャラリーで個展が開催された。その展示が、年間の最優秀作品に選ばれたため、約半年後に同じ会場にて再び個展が開催された。


個展タイトルは変わらないものの、展示構成は大きく変更を加え、自身の企図をより深く伝える熟考の跡が感じられた。前回の個展では、ハワイ/福島を明確に分け、対置させる意識が強かった(向かい合った展示壁面の片方にハワイを、もう片方に福島を対置。それぞれの盆踊りで「乱舞する手」のクローズアップを360度のパノラマカメラで捉えた超横長の写真が背中合わせで吊られ、両者のあいだを対角線上に区切る。それぞれレンズにカラーフィルタを付けて撮影されたそれらは、ハワイ=熱狂的なエネルギーの奔出を伝える「赤」に、福島=死者への哀悼や深い哀しみを想起させる「青」というように、対照的な色に染められている。対置や背中合わせの構造も相まって、「私たち」と「彼ら」、「日本人」と「日系人」といった分断を強調しかねない展示構成には疑問が残った)。


だが、今回の展示構成では、ハワイと福島が分断ではなく連続性を保ちながら円環状につながり合い、その延長線上に生と死が循環する相さえ感じさせる、充溢した空間が立ち上がっていた。



会場風景

展示はまず、福島の帰宅困難区域をパノラマ撮影したモノクロ写真で始まる。倒壊したまま無人化した家屋やビニールハウス。時間が凍結したかのような光景の上を、繁茂する自然が覆っていく。その様相は、溶岩流に巻き込まれた墓石が傾いたり、自然の力に飲み込まれて荒廃していく日系移民の墓地の光景へとスライドしていく。そして、夜のサトウキビ畑のざわめく葉の上に投影された、かつてそこで働いていた日系移民の家族写真は、亡霊の召喚を告げる。重なり合った葉の合間に見え隠れする、目鼻立ちや輪郭が曖昧に溶け合って個人としての顔貌を失い、自然と同化しつつある亡霊的存在。亡霊の出現は、美しさと熱気と畏れを合わせ持つ盆踊りの光景へとつながっていく。漆黒の闇の中に福島の「青」が浮かび上がり、それは美しい色彩のグラデーションを描きながら、次第にハワイの「赤」が鮮烈さを帯びて立ち現われ、熱狂と命の奔流は壁の終わりで頂点に達する。本展の白眉と言えるこの壁面では、福島とハワイ、「こちら」と「あちら」、彼岸と此岸の境界がなだらかに交じり合って溶け合う。



会場風景

「死」の凍結から始まり、福島からハワイへ、死者の霊の召喚から「生」の祝祭へと、二つの土地を往還しながら円環状に展開する本展は、「生」の高揚が最高潮に達する終盤のハワイから再び冒頭の福島へとつながり、生と死もまた円環状につながり合う。移民の歴史、ディアスポラの悲哀、土地と身体に根づく歌と踊りの生命力を捉え、その果てに壮大な「生と死の循環」を描き出す本展は、「KIPUKA」というタイトルに込められた意味──「溶岩の焼け跡に生えた植物」、再生の源となる「新しい命の場所」を意味するハワイ語の言葉──をより内在的に浮かび上がらせていた。

関連レビュー

岩根愛「KIPUKA」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年11月01日号)
第44回 木村伊兵衛写真賞受賞作品展 岩根愛「KIPUKA」|高嶋慈:artscapeレビュー(2019年07月15日号)

2020/01/22(水)(高嶋慈)

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