2019年07月15日号
次回8月1日更新予定

artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

KG+ 前谷開「KAPSEL」

会期:2019/04/05~2019/04/30

FINCH ARTS[京都府]

カプセルホテルの壁に描いたドローイングとともに、全裸のセルフポートレートを撮影した「KAPSEL」を2012年から継続的に制作している前谷開。「六本木クロッシング2019展:つないでみる」にも出品された同シリーズが、KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベントの個展で展示された。

白くクリーンだが無機質なカプセルホテルの個室内に座り、こちらを見据える全裸の前谷。その手には遠隔でシャッターを切るレリーズが握られ、個室の入り口の前に据えられたカメラが、四角い窓の向こう側に開いた異空間のような光景を切り取る。個室内の壁を接写したカットには、女性のヌードや男根的な突起などエロティックなドローイングや、謎めいたイメージや象徴的な目が写っており、不鮮明なブレと相まって、カプセルホテルで過ごした一夜に見た夢の感触を描き殴った夢日記のようにも見える。また、「まだ、死なないで」「Keep in touch」といった断片的な言葉も添えられる。孤独や傷つきやすさを抱えた存在、一糸まとわぬ全裸の姿がより強調するヴァルネラビリティ(被傷性)、他人や社会から遮断し保護してくれるシェルター的空間、妄想が護符のように描かれた壁、その閉鎖性や内向性を強く印象づける。



会場風景

こちらに向けられた前谷の眼差しは、無防備さと緊張感が入り交じり、凝視しているがどこか虚ろさを感じさせる。シャッターを操作するのは前谷自身だが、自分ではファインダーを覗けないため、カメラに向けられた眼差しや表情は、鏡を見るときのように完全にコントロールされたものではない。

ここで、対極的な作品として想起されるのは、横溝静の写真作品「ストレンジャー」である。横溝は、路上に面した窓のある家に住む見知らぬ住人に手紙を送り、指定した撮影日時に部屋の灯りを点けてカーテンを開けた窓辺に立ってもらうよう要請し、撮影協力に応じた彼らのポートレートを、夜の窓越しに撮影した。カメラを構える写真家の姿は夜の闇に沈む一方、灯りの点いた部屋のなかでは、窓ガラスは外界への通路ではなく、自身を映し出す「鏡」となる。見知らぬ他人(写真家)の視線に晒されていることを意識しつつ、鏡面となった窓ガラスに映る自分を眼差し続ける彼らは、自己と他者、見る/見られるという緊張感、カメラが視界に入らないという安堵と「いつ誰に撮られているかわからない」という緊張感を行き来しながら、シャッターを切ってイメージとして捕捉する決定権を写真家に無防備に委ねている。横溝は、文字通り「フレーム」として両者を区切る窓という装置を挟んで相対しつつ、「自身を凝視する眼差し」そのものを抽出する。被写体であり、かつ見る主体でもある彼らにとって、「ストレンジャー」は写真家を指すだけではなく、コントロールを外れた状態でかすめ取られた、自己像の不意打ち的な提示でもある。一方、前谷の場合、「自身を凝視する視線」の提示は、レリーズによるシャッターの遠隔操作によって他者をまったく介在せずに行なわれ、「カプセルホテル」という空間が、その閉鎖性や内向性をより強調する。

だが、「カプセルホテル」という空間は、「セルフヌード」であることとも相まって、外界からの遮断や閉鎖性、シェルターへの希求と親和性が高いだけに、そうした内向的心理と密着しすぎて作品の幅を狭めてしまうのではないだろうか。確かに「カプセルホテル」は、外界や社会から遮断してひとりになれる避難場所を象徴する一方で、個人の生を最小限に規格化されたユニットに押し込む近代的合理化や均質性の極限的装置であり、モビリティや経済格差の拡大を反映する社会的装置でもあり、立地場所は都市のなかの場所の地政学とも関わり合っている。「カプセルホテル」という主題は、そうした広範な可能性を秘めている。「自己と向き合う」作業を通じて、個の内面の凝視にとどまらず、自身を取り巻くより広範な社会性が否応なしに透けて見えてくる、そのようなシリーズとしてのさらなる成長を期待したい。



会場風景

2019/04/14(日)(高嶋慈)

KG+ SELECT 2019 裵相順「月虹」

会期:2019/04/12~2019/05/12

元・淳風小学校[京都府]

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019の同時開催イベント「KG+SELECT 2019」に公募で選出され、個展を開催した裵相順(ベ・サンスン)。1月の個展に引き続き、彼女が近年精力的に取り組んでいる「月虹」シリーズが、新たな構成で展示された。

20世紀初頭、朝鮮半島において、日露戦争に備えた鉄道開発と移住政策を日本が行ない、近代都市として形成された大田(テジョン)。だが、敗戦後の日本人居留者の引き揚げ、朝鮮戦争による街並みの破壊を経て、植民地期の都市形成や日本人社会の記録は、日韓両国の歴史においてほとんど語られることがなかった。裵は、約3年間かけてリサーチを行ない、かつて大田で生まれ育ち、引き揚げ後は日本国内での差別から朝鮮半島生まれであることを語らずに生きてきた高齢者たちにインタヴューを行なった。リサーチに基づき制作された写真作品《シャンデリア》は、日本と韓国の錦糸を複雑に絡み合わせたカラフルな糸玉を撮影した作品だ。両国の狭間で引き裂かれたアイデンティティ、70年以上も胸に秘めてきた記憶、そうした苦悩や記憶のもつれを心象風景として描出するとともに、複雑に絡み合った日韓関係、容易には解きほぐしがたい感情や歴史問題、さらには線路の拡大とともに肥大する帝国主義的欲望の膨れ上がった姿など、「糸」の持つ多義的なメタファーと相まってさまざまな読み取りを誘う。

今回の個展では、元小学校の教室という空間を活かし、インスタレーションとしても完成度の高い展示空間が出現した。また、絡みもつれ合う糸の写真作品とともに、引き揚げ経験者たちのポートレートを新たに並置した。老人たちはみな穏やかな表情をたたえ、わかりやすく「悲惨さ」をアピールする写真ではない。近づいてよく見ると、皮膚に刻まれた皺や輪郭を鉛筆でなぞったラフな線が描き加えられている。「他者の生や記憶に触れたい」という願望の現われ、あるいは静止した写真に生命の振動を与えようとする所作ともとれる。絡み合った糸や紐の写真は、これらのポートレートと並置されることで、人体の有機的な組織であるような印象がより強まる。心臓、血管、毛髪、へその緒、子宮……。アニメーションの映像作品では、もつれた糸の塊が、まさに心臓のように脈打つ。それは彼らの生き抜いてきた生命の強さであるとともに、歴史を現在と断絶したものではなく、血肉の通った生きられた記憶として捉えるように見る者を促す。



会場風景

「現在と地続きの過去」への意識は、教室の窓を用いたインスタレーションにおいても顕著だ。繁った樹木の写真が窓ガラスに貼られ、窓の向こう側に街路樹があるかのように緑の光が差し込み、ステンドグラスのような荘厳な雰囲気に包まれる。裵が韓国で撮影したこれらの樹木は、移住した日本人が街路樹として好んで植えたものであり、現在その種類の樹が生えている場所がかつて日本人の居住エリアであったことを示すという。樹木の写真は、モノクロのなかにカラーが混在し、その鮮明な緑色と今も息づく命は、根強く残る差別、未解決の歴史問題、日本の占領と敗戦を経て朝鮮戦争から今に至る南北分断の状況が、現在と切り離された「過去」ではなく、現在と地続きの問題であることを示す。樹木の写真の合間には、軍隊の記録写真や消印の押された切手も配され、郵便(通信)が鉄道建設と同様に、軍事と密接に関連した産業であることを示唆する。

「戦争」を「現在の日本の領土内で起こった事象」に限定する狭窄な視野は、問題の本質を見失わせる。日本による都市建設や鉄道開発は、「近代化に貢献した」という肯定的な評価、あるいは「土地を収奪された」という糾弾、どちらに偏っても不十分だ。また、私たちの前に静謐なポートレートとして佇む元居留者たちは、植民者・支配者でありつつ、敗戦によって故郷から強制的に隔てられ、かつそのことを隠して生きてきたという点では被害者でもある。被占領者側からの糾弾する視点にのみ立つのではなく、「狭間で生きた人々」に焦点を当てる裵の視線は、韓国の大学を卒業後、日本の美術大学で学び、約20年間日本に在住して2つの視点を持つ彼女だからこそ可能になったといえる。その姿勢は、アートを通してポストコロニアルを考えるうえでも大いに示唆に富んでいる。



会場風景

公式サイト:http://kyotographie.jp/kgplus/2019/

関連レビュー

裵相順「月虹 Moon-bow」|高嶋慈:artscapeレビュー

2019/04/14(日)(高嶋慈)

KG+SELECT 2019 福島あつし「弁当 is Ready.」

会期:2019/04/12~2019/05/12

元・淳風小学校[京都府]

近代日本の植民地支配、アメリカの銃社会、性的マイノリティ、高齢化社会など、社会性のあるテーマを扱った作品が多く、充実していた今年の「KG+SELECT 2019」。KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭の同時開催イベントであり、公募から選出された12組のアーティストが元・淳風小学校の各教室で展示を行なう。最終的にグランプリに選ばれた1組は、来年のKYOTOGRAPHIEの公式プログラムに参加できる。

今回のグランプリに選ばれた福島あつし「弁当 is Ready.」は、高齢者専用の弁当屋の配達員をしていた福島が、2004年から10年間にわたり撮影した写真群で構成されている。「配達員」から次第に、カメラを介して老人たちと1対1で向き合う関係性を築き上げていく過程が、10年間の厚みとともに示される。それは、「高齢化社会」「独居老人」「孤独死」といった社会問題を提起しながら、「生きる」ことの根源についても触れる力に満ちていた。

とある住宅の玄関先を写したショットから展示は始まる。汚れた布団とそこからはみ出した羽毛、その白い埃のような羽毛にまみれて横たわる老人。積み重なった新聞や、累々と連なるゴミ袋の山、床に散らかった空の弁当箱。ドアの向こう側にあるのは、異臭と孤独の匂いが強烈に立ち込める世界だ。(おそらく多くは独居の)老人たちの居住空間に、「配達員」として足を踏み入れ、次第に接近していく福島を追体験するように、展示は展開していく。配達された弁当を、背中を丸めて一人で寂しく食べる老人たちの姿は、斜め後ろや横からのアングルで撮影され、彼らに対する距離感や「孤独さ」が強調される。老人たちの表情は見えないか陰に暗く沈み、雑然と散らかった室内も写し込むことで、「独居老人」「高齢化社会」といった社会問題を告発するが、分かりやすい紋切り型のイメージに留まる点は否めない。



© Atsushi Fukushima

しかし、福島のカメラは次第に、ひたすら無心に懸命に「食べる」老人たちの表情に真正面から対峙していく。硬直した身体を傾げながら、新聞紙をよだれかけ代わりに首に巻きつけ、弁当を食べる老人。鼻にチューブを通した老人が見上げる窓のアルミサッシには、自らを鼓舞するかのように、「生命力」という言葉がマジックで書かれている。ぎこちなく握ったスプーンでご飯にかぶりつく老人は、「それでも食べるんだ」という強い意志を無言で発する。彼らの身体になおも宿る生命力の強さや生への意志が垣間見える瞬間であり、告発調のドキュメンタリー(のメッセージの持つ単調さ)から一歩も二歩も踏み込んだ。そこには、「配達して終わり」の関係から、日々通うなかで時間をかけて関係性を築き上げながら、老人たちに対する視線を徐々に変化させてきた福島自身の変化が写し取られている。

ただ、展示方法には相反する両面を感じた。「額装した写真を、床から少し浮かした低い位置に水平に並べる」という展示方法は、ベッドや床に力なく横たわる老人たちの身体の水平性や物体的なあり方を反復するという点では効果的だ。だがその一方、観客が「上から見下ろす」視線のあり方は、 社会的弱者である彼らを文字通り見下ろすという点で、視線の暴力性を強く感じさせる。床に散乱したゴミやゴミ袋の写真も多いが、それらゴミと老人たちを等価に眼差す構造を誘発してしまうのだ。(ホワイトキューブではなく、元小学校の教室という展示空間の難しさもあるが)、「床と水平かつ低い位置」という展示方法は、イレギュラーであるだけに諸刃の剣となる可能性もある。
シリーズとしては撮影は終了しているというが、来年のKYOTOGRAPHIEの公式プログラムへの参加も決定している。展示方法やプリントの大きさを含め、より練り込んだ発表をさらに期待したい。



会場風景

公式サイト:http://kyotographie.jp/kgplus/2019/

2019/04/14(日)(高嶋慈)

久松知子絵画展

会期:2019/04/10~2019/04/15

日本橋三越本店本館6階[東京都]

女の子に「あなたの絵は日本画なの? 洋画なの?」と問われた久松らしき人物が、「これは絵画です」と答えるマンガが案内状に載っている。日本画出身の久松がよく聞かれる質問なのだろう。今回の出品作品は大半がキャンバスにアクリルなので、素材的には日本画ではないけど油絵でもない。強いていえば「絵画」だ。タイトルも「久松知子展」ではなく「久松知子絵画展」と銘打ち、「絵画」であることを強調している。でもこれらは単なる絵画というより、「絵画」についての絵画、つまり「メタ絵画」というべきだろう。もっと詳しくいえば「日本近代絵画」についての絵画であり、そのなかには日本画と洋画の対立や戦争画などのアポリアも含まれている。

出品は約40点で、昨年ARKO(Artist in Residence Kurashiki, Ohara)で制作した大原美術館関連の作品をはじめ、戦争画を巡る作品、身近な風景や食べ物などモチーフは多岐にわたる。なかでも、《アッツ島玉砕》を描く久松の背後に岡倉天心の亡霊が現れる自画像(?)や、たくさんの富士山の絵とそれを売って購入した戦闘機の写真や文化勲章に囲まれた横山大観像など、戦争画の関連作品がグロテスクだ。また、大原美術館の館内風景には画中画がたくさんあるが、思わず目が止まったのが、熊谷守一の息子の亡骸を写生した《陽の死んだ日》まで描いていること。一見ポップな絵のなかにもしっかり死臭を漂わせているところは巨匠並みだ。アッパレ!

2019/04/13(土)(村田真)

KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019

会期:2019/04/13~2019/05/12

京都文化博物館別館ほか[京都府]

京都国際写真祭も7回目を迎えた。企画のクオリティの高さと世界各地からの観客の動員力という意味では、日本で開催される写真フェスティバルのなかでも群を抜いている。京都という場所の知名度はもちろんだが、写真展を中心としたイベントの企画力が観客を惹きつける魅力になっているのではないだろうか。

ただ、ここ数年の上げ潮に乗っていた状況と比較すると、今年は翳りとはいわないまでもいくつかの問題点が生じてきているように感じた。京都国際写真祭の最大の特徴は、京都の町家や寺院などの特徴ある建築物の空間を活かした展示のインスタレーションにある。今回も京都新聞ビル印刷工場跡の金氏徹平「S.F.(Splash Factory)」、誉田屋源兵衛竹院の間の「ピエール・セルネ&春画」、両足院(建仁寺山内)のアルフレート・エールハルト「自然の形態美──バウハウス100周年記念展」など、その特徴がよく出た展覧会を見ることができた。ただ全体的に見ると、企画の内容とインスタレーションとがやや噛み合わない展示が多くなっている。また、テーマとして掲げている「VIBE」がほとんど意味を持っていないのも気になる。抽象的なテーマでお茶を濁すよりは、例えば時代や地域やジャンルのような、より具体的な統一性、共通性を求めたほうがいいのではないだろうか。

今回、展示として一番見応えがあったのは、メインの「パブリックプログラム」ではなく公募型のサテライト展の一環として開催された「KG+12 SELECT」展(元・淳風小学校)だった。応募された展示プログラムから選出されたという12人の写真家たちの作品は、どれも力がこもったもので、むしろ京都国際写真祭の新たな方向性を示唆しているようにすら感じる。中井菜央、藤倉翼、藤元敬二、藤安淳、堀井ヒロツグらの展示を見ることができたのは大きな収穫だった。

2019/04/13(土)(飯沢耕太郎)

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