artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
小松浩子
会期:2017/09/09~2017/10/14
gallery αM[東京都]
写真家の小松浩子の個展。工事現場の資材置き場を写したおびただしい数のモノクロ写真を会場の床や壁を埋め尽くすほど展示する作風で知られる写真家である。なかでも2012年に目黒区美術館の区民ギャラリーで開催した「ブロイラースペース時代の彼女の名前」は、広い会場にプリントされた印画紙のロールを張り巡らせた圧巻の展示だった。
今回の個展でも、その才覚はいかんなく発揮されていた。壁という壁がモノクロ写真で埋め尽くされ、それは床にも及んでいるため、来場者はそれらを踏みつけながら鑑賞することを余儀なくされる。文字どおり四方八方にイメージが拡散しているため、正面や中心を設定することは不可能に近い。それゆえ、私たちは特定の写真に視線の焦点を絞ることすらできないまま、まるで宇宙空間を漂うかのように、写真空間の中をあてどなく彷徨うほかないのである。
興味深いのは、そうであるにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、その夢遊病的な彷徨は結果として「資材置き場」の視覚的なイメージよりも触覚的なイメージを強く感じさせるという点である。瓦礫や鋼材のざらついた質感だけではない。泥を浴びたブルーシートや剥き出しの土までもが、思わず触れたくなるような触覚性を醸し出している。この皮膚感覚を励起させたいがために、小松はこれほどまで執拗に写真空間の密度とボリュームを追究しているのではないか。
物質の触感を写真の平面に焼きつけ、なおかつ空間をそれらの平面で充填することによって、その触覚性を空間の物質面で増強すること。それは、一点の写真作品の芸術性を審美的に(つまり視覚的に)問う写真の規範では計りしれない、小松ならではの方法論である。写真作家としてそれを獲得していることに大きな意味がある。
2017/10/05(木)(福住廉)
長島有里枝「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」
会期:2017/09/30~2017/11/26
東京都写真美術館2階展示室[東京都]
武蔵野美術大学在学中の1993年、パルコが主催する「アーバナート#2」展に長島有里枝が出品した、セルフポートレートを含む「家族ヌード」には衝撃を受けた。まったく新しい思考と感受性と行動力を備えた写真家が出現してきたという驚きを、いまでもありありと思い起こすことができる。その長島の25年にわたる軌跡を辿り直す「代表曲を収録したベストアルバム」(野中モモ)というべき東京都写真美術館での個展は、その意味で僕にとってはとても感慨深いものだった。あっという間のようで、さまざまな出来事が凝縮したその25年のあいだに、ひとりの女性写真家がどのように変貌していったのか、あるいは何を保ち続けてきたのかが、ありありと浮かび上がる展示だったからだ。『YURIE NAGASHIMA』(風雅書房、1995)、『empty white room』(リトルモア、1995)、『家族』(光琳社出版、1998)、『PASTIME PARADISE』(マドラ出版、2000)と続く、キャリアの前半期の写真群には勢いがあり、自分と家族、社会との関係が小気味よく切り取られている。だが、むしろ結婚、出産、離婚などを経た後半期の作品に、写真家としての成熟がよくあらわれていると思う。写真集『SWISS』(赤々舎、2010)におさめられた写真や、母親と共同制作したという個展「家庭について/about home」(MAHO KUBOTA GALLERY、2016)のインスタレーション(写真も含む)には、生の苦味や重みを背負いつつ作品として投げ返し、一歩一歩進んでいくアーティストの姿勢がしっかりと刻みつけられていた。どうしても腑に落ちなかったのは、「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々。」という、どこかのテレビ局のメロドラマのようなタイトルである。もしかすると、タイトルと展示の内容との違和感が狙いなのかもしれないが。
2017/10/04(水)(飯沢耕太郎)
六本木アートナイト2017
会期:2017/09/30~2017/10/01
土曜の深夜と日曜の午後の2回見に行った。なんだかいろいろにぎやかにやっていたけど、見て得したっていうのはそんなに多くなかったなあ。いくつか挙げると、まず、六本木ヒルズ内の通路の一画を写真スタジオに見立て、正面を向いてポーズをとる十数人の人物像を置いた江頭誠。壁も床も人物もすべてロココ風の花柄の毛布で覆われて、じつに華やかというか不気味というか。その前で同じ花柄の上着を着せてもらって撮影できるというサービスつき。これは人気があった。同じヒルズの通路内と六本木西公園でプレゼンしたナウィン・ラワンチャイクンの《OKのまつり》は、六本木を題材にした映画やワークショップの構成。映画とワークショップは見てないけど、そのために描いた宣伝用の看板絵には、森美術館の南條史生館長をはじめ理事長やキュレーターが登場して内輪ウケする。三河台公園では幸田千依が大作絵画を屋外制作し、木村崇人は公園の樹木を使ってを星形の「木もれ陽」をつくるワークショップ。あまり接点がなさそうな幸田と木村の組み合わせだが、共通項は「太陽」だ。
圧巻だったのは、東京ミッドタウンの芝生広場で公開された「ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ2017」。これはスイスの音楽祭ルツェルン・フェスティバルと日本の音楽事務所カジモトが、東日本大震災の復興支援のために発案し、建築家の磯崎新と彫刻家のアニッシュ・カプーアによってデザインされた、収容人数500人ほどの移動式コンサートホール。クラインの壷を思わせるドーナツ状の巨大なバルーンで、内部に空気を送り込んで膨らませる仕掛け。中に入ると、なるほど送風機が何台も稼働していて、気圧が高いことが耳でわかる。この奇怪な位相建築、六本木アートナイトの出し物というより、東京ミッドタウンの開業10周年を記念して誘致されたもので、21_21デザインサイトの「そこまでやるか」展でも紹介されていた。入場料500円とられたけど、これがいちばん得した「作品」。
2017/10/01(日)(村田真)
藤飯千尋展「轍の行く先」
会期:2017/09/30~2017/10/05
ギャラリー島田[兵庫県]
青、赤、白、黒、黄などの色彩が奔流のように渦を巻く藤飯千尋の作品。しかし、驚くほどダイナミックな画面にはストロークの気配がない。本人に訊ねたところ、やはりと言うべきか、ゆるく溶いた絵具を床置きの画面に流しかけているらしい。それ上の詳細は教えてもらえなかったが、絵具の粘度やキャンバスの置き方(高低差の利用)などの自然現象を味方につけているのは間違いない。同様の手法で描く画家はけっして珍しくないが、彼女の作品が放つ臨場感はほかより一頭抜きん出ているように感じられた。出品作のうち大作は1点だけだったが、彼女は一人で制作しているので、作品のサイズには限界があるのかもしれない。しかし、この画風は大作と馴染みが良いはずだ。150号や200号のキャンバスを何枚もつなげるぐらいの超大作を披露してくれたら嬉しいのだけど。
2017/10/01(日)(小吹隆文)
「断片的資料・渡辺兼人の世界 1973─2018 第1回スナップ─「声」」
会期:2017/09/14~2017/09/30
AG+GALLERY[神奈川県]
渡辺兼人の写真家としての軌跡を辿り直す連続展が、神奈川県・日吉のAG+GALLERYで、7回にわたって開催されることになった。来年9月まで続くその第1回目では、2011年にスタートした新作のストリート・スナップショットのシリーズ「声」が展示された。
渡辺といえば、6×6判の端正かつ厳格な風景写真を思い浮かべる。その彼が、スナップショットを撮影していたことはまったく知らなかったので、展示を見てかなり驚かされた。というのは、画面の隅々まで完璧にコントロールし、1ミリの揺らぎもないプリントをつくり上げていく渡辺のいつもの流儀は、偶発性に支配されるスナップ撮影ではほぼ通用しないからだ。しかも、当初は6×9判のブローニーサイズのカメラを使っていたにもかかわらず、途中から35ミリ判の、しかもとても扱いにくいローライ35に変えたのだという。にもかかわらず、そこに出現してきたのは、いかにも彼らしい「スナップショット」としてのクオリティを保った作品群だった。
展覧会のチラシに、渡辺のストリート・スナップには「『うまく写す』ことに対する執着が一切感じられない」と記されている。「良否や美醜を遥かに超越したところでこれらの写真は制作されている」ともある。そう見えなくもないが、じつはそうではないと思う。「うまく写した」ように見えないように「うまく写して」いるのが渡辺のスナップショットなのではないだろうか。同様に、そこには「良否や美醜」への鋭敏で繊細な配慮が感じられる。「純粋写真」、「絶対写真」のつくり手である渡辺兼人は、ここでもスナップショットの純粋化、絶対化に全力で取り組み、それを見事に成功させているというべきだろう。これから先の連続展示も楽しみになってきた。
2017/09/30(土)(飯沢耕太郎)