artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

air scape / location hunting 2017 ヤマガミユキヒロ

会期:2017/10/10~2017/11/05

Gallery PARC[京都府]

カテゴリー:美術
京都市中京区の御幸町通三条にあったGallery PARCが、そこから南西へ10数分の距離にある室町通六角へ移転。活動再開の第1弾としてヤマガミユキヒロの個展を行なった。ヤマガミは「キャンバス・プロジェクション」という独自の作品で知られるアーティストだ。同作は、まず綿密なロケハンで選んだ場所を写真撮影し、その情景を丹念に描写した鉛筆画を制作、次に同じ場所で映像を定点撮影し(撮影時間は、短時間、一昼夜、春夏秋冬などさまざま)、その映像を鉛筆画の上に重ねて投影するというものだ。絵画と映像の要素を併せ持ち、そのどちらとも異なる空間性や時間性を表現し得る手法として評価を確立している。本展は新作展ではなく、これまでのヤマガミの代表作を複数の展示室に配置するプチ回顧展の趣となった。彼の作品を知らない人にとって絶好の機会となっただろう。一方、見慣れた人にとっての注目ポイントは映像技術の向上だ。2点の大作が1点ずつ映像を投影しているのに対し、小品群はひとつの壁面あたり10数点の映像を1台のプロジェクターで投影していた。しかも作品は横一列ではなく二段掛け、三段掛けである。大がかりなシステムを用いずに正確な映像制御が行なわれていたことに驚かされた。映像技術が向上すれば、ヤマガミの表現はさらに多彩になるだろう。次に行なわれる新作展がいまから楽しみだ。

2017/10/10(火)(小吹隆文)

児玉幸子展覧会「眩惑について」

会期:2017/10/06~2017/11/26

清課堂[京都府]

児玉幸子は「磁性流体」という液体金属の一種を用いて美術作品を制作するアーティストだ。「液体金属」と聞くと映画「ターミネーター2」の悪役アンドロイドを思い出すが、当然ながら彼女の作品とは無関係だ。磁性流体は磁力をかけると変形する性質をもつ。児玉はさまざまな形の容器に磁性流体を流し込み、磁力をコンピュータで制御することで、生き物のように変形する作品をつくり出す。その形態は、トゲの集合体やぬるっとした流線型などさまざま。プログラムは一定時間ごとに繰り返されるが、磁性流体の反応はその都度微妙に異なり、同じ形を繰り返さないのでなかなか見飽きない。作品によってはヒーリング効果も期待できそうだ。本展では伝統的な京町家の蔵と和室で展示が行なわれたが、とりわけ見事だったのは床の間の展示。幽玄な雰囲気を醸し出しており、インスタレーションとしても見応えがあった。

2017/10/10(火)(小吹隆文)

北辻良央「全版画Ⅰ〈1976~1988〉」

会期:2017/10/07~2017/10/28

+Y GALLERY[大阪府]

1970年代から関西を拠点に発表を続けている北辻良央。彼の全版画作品を、今年10月から来年4月に3期に分けて紹介する展覧会が始まった。第1期の今回は1976年から1988年の作品が紹介されている。筆者にとって北辻作品と言えば、1970年代のコンセプチュアルな作品──地図をトレーシングペーパーに忠実に写し取るなど、記憶や反復をテーマにしたもの──や、1980年代以降の物語性が濃厚なオブジェや作品が連想される。しかし1970年代後半の版画作品は一度も見たことがなく、それらへの興味が画廊へと足を向かわせた。では1970年代後半の版画作品とはいかなるものか。それは、ゴッホやゴーギャンなど著名画家の肖像画や、セザンヌの《カルタ遊びをする人々》の模写である。しかし単なる模写ではない。例えばゴッホの肖像画では、画家の自画像を見ながら部分部分を銅板にエッチングし、原画とは逆向きになったイメージを見ながら、今度は部分を統合した肖像画を銅板にエッチングする(原画と同じ向きになる)。そして2点のプリントを並べて展示するのだ。この複雑なプロセスは1970年代前半のコンセプチュアルな作品を想起させ、具象画の引用は1980年代の物語性豊かな作品へとつながる。つまり北辻作品の時代ごとの変遷と接点が明らかになるのだ。今年12月から来年1月にかけて行なわれる第2期では1992~95年の作品が、来年4月の第3期では1999~2018年の作品が取り上げられる予定。そこでもまた新たな発見があるに違いない。ロングスパンの展覧会となるが、今後も欠かさずに出かけて全版画作品を見届けたい。

2017/10/10(火)(小吹隆文)

新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 小森はるか+瀬尾夏美《声の辿り『二重のまち』》、是恒さくら《ありふれたくじら》、久保ガエタン《その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える》

会期:2017/09/22~2017/10/09

横浜市民ギャラリー[神奈川県]

他者の記憶を拾い集めて再 物語化し、「語り」という身体的営みやテクストを通して共有すること。個人的記憶の収集とその複層的な重なり合いを通して、大文字の歴史化へのオルタナティブを探ること。あるいは、「歴史の表象空間」という政治的な場への抵抗を示すこと。そうした「記憶」の継承や「記録」する行為それ自体への問いを扱う作家4組のグループ展。小森はるか+瀬尾夏美、是恒さくら、久保ガエタンについての前編と、笹岡啓子についての後編に分けて記述する。

小森はるか+瀬尾夏美は、東日本大震災を契機に陸前高田に移住し、現在は仙台を拠点とするユニット。住民への聞き取りを元に、人々の記憶を内在化させた土地の風景への眼差しを映像、絵画、テクストといった複数の媒体で表現している。出品作《声の辿り『二重のまち』》は、「2031年」の想像上の陸前高田を舞台にした小説『二重のまち』を、地元住民たちが朗読し、現在の風景とともに記録した映像作品である(この小説は、砂連尾理の演出作品『猿とモルターレ』の2017年大阪公演でも朗読され、重要な役割を担っていた)。『二重のまち』では、4つの季節のシーンが、それぞれ別の主人公による一人称視点で語られる。新しい土地の上の町/地底に眠る町、記憶の中の「故郷」への想い/人工的な風景を「故郷」として育つ子供たち。そうした未来の視点からの「2031年」の物語が、更地に生い茂る植物や、山を切り崩し「盛り土」工事を行なうクレーン車といった「震災後の現在の光景」を前に語られることで、時制のレイヤーが折り重なった奇妙な感覚を生む。ここは未来か、過去か、現在か。これは誰の記憶なのか。また、「一人称の語り手」と「朗読者」との年齢や性別の差異や不一致も巧妙に仕掛けられる。例えば、「少年の僕」の語りを女性が朗読し、一人の語りが複数人で分割して語られることで、「語り」の主体が曖昧に分裂して多重化し、いつかどこかで遠い誰かの身に起きた出来事を「民話」や「寓話」のように語り継ぐ光景のように思えてくる(あるいはそうなってほしいという願いが顕現する)。


展示風景 左:小森はるか+瀬尾夏美《にじむ風景/声の辿り》 右:是恒さくら《ありふれたくじら》 Photo: Ken KATO

また、是恒さくらは、アラスカや東北、和歌山など捕鯨文化の残る土地を訪ね、鯨にまつわる個人の体験談を聞き取り、リトルプレス(冊子)と刺繍として作品化。国同士の反発の要因ともなる「捕鯨」を、むしろ国や言語という境界線を超えて、異文化間の価値共有の可能性を探るための文化として提示する。

久保ガエタンは、母の出身地である仏ボルドーで19世紀に造られた軍艦が、アメリカを経て幕末の日本に渡り、最終的に解体されて発電機に再利用されたという史実を軸に、「変身」「再生」にまつわるさまざまなエピソードを織り交ぜ、自伝的要素と歴史や神話が入り交じるグラフィカルな「物語」を提示した。

関連記事

砂連尾理『猿とモルターレ』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/10/09(月)(高嶋慈)

Search & Destroy

会期:2017/09/29~2017/10/15

TAVギャラリー[東京都]

「検索エンジンによるイメージの結果から、再構と破壊を試みる現代美術家、計5人によるグループ展」とのことだが、そんなことはいまどきのアーティストならフツーにやってることであって、この展覧会で重要なのはいい作家をしっかり集めていたことだ。竹内公太の「エゴサーチ」と渡辺篤の「」は以前にも書いたので略。末永史尚は矩形の物体をタブローと化す作品で知られるが、今回はマーク・ロスコとエルズワース・ケリーの抽象画を10-20点ずつ小さな画面に並べて描いている。これは画家の名前を検索したときに現われる均質化されたサイズの画像をそのまま描いたもの。これはカワイイ。岩岡純子は初めて見るが、展覧会のチケットやチラシ、切手などに描かれた名画の人物にファッションチェックを入れた作品。チケットやチラシにはそれが開かれた年月を、切手には消印を残して残りの部分は消し、その時代のモードを検索して調べ、先生が添削するように細かく赤入れしているのだ。こういうの好きだな。これを見られただけでも阿佐ヶ谷まで足を運んだ甲斐があった。

2017/10/09(月)(村田真)