artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

『[記録集]はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』

発行所:武蔵野市立吉祥寺美術館

無名の撮影者たちの写真群をあらためて再構築して読み解いていく、そのような「ヴァナキュラー写真」への関心の高まりを受けて、武蔵野市立吉祥寺美術館から素晴らしい写真集が刊行された。『[記録集]はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』は、写真というメディウムを、新たな方向に大きく開いていく可能性を秘めたプロジェクトといえるだろう。「はな子」はいうまでもなく、1949年にタイ王室から上野動物園に寄贈され、54年に井の頭自然文化園に移ったアジアゾウである。まだ敗戦の痛手が残る厳しい社会状況のなかで、多くの人々の心を和らげて人気者になった「はな子」は、その後69歳という異例な長寿を保って2016年に亡くなった。今回の企画は、市民が撮影した「はな子」とともに写っている169枚の写真と、その撮影当日に執筆された飼育日誌とをつなぎ合わせ、「彼女・・の歩んだ道のりの一瞬一瞬、1日1日に光をあてたもの」である。写真集には1950年10月9日から2016年4月30日までの日付を持つスナップショットと、その日の飼育日記の記述が、同じページにレイアウトされている。さらに「撮影者と被写体にまつわるエピソード」、「撮影された当時の、印象に残るエピソード」、「あなたがこれまで失った大切なもの」という3つの質問に対して、写真の提供者が寄せた解答の一部が、別冊として挟み込まれていた。このような周到な編集によって浮かび上がってくるのは、「はな子」という、いつでもどこか哀しげな佇まいのアジア象のイメージを消失点とする、日々の記憶の遠近法とでもいうべき構図である。そこに記録された個々の物語は、互いに響き合い、結びつきあって、より大きな「日本人の戦後」の物語として再浮上してくる。その作業を遂行するために「ヴァナキュラー写真」がじつに効果的に、的確に使われていることに感銘を受けた。写真をただ複写して印刷するだけでなく、たたみ込むようにレイアウトしたり、重ね合わせたりした複雑なレイアウトも、とてもうまく機能している。松本篤(AHA!)の編集とともに、尾中俊介のデザインワークも特筆すべき出来栄えといえるだろう。このような試みを、この企画だけで終わらせるのはもったいない。全国各地には、「はな子」のような物語がたくさん埋もれているはずだ。それらにぜひ写真を通じて光をあてていってほしいものだ。なお、写真集の刊行に合わせて井の頭自然文化園彫刻館(9月9日~10月15日)とJR吉祥寺駅南北自由通路(8月21日~10月15日)で、写真展「はな子のいる風景」が開催された。

2017/10/08(日)(飯沢耕太郎)

村山順子展「ケモノのキモノ 2」

会期:2017/09/23~2017/10/7

ギャラリーギャラリー[京都府]

染織作家、村山順子の個展。団栗、エンジュ、桜、ヤマモモなどの自然の染料を用いて、《春のケモノ(クマ)》《冬のケモノ(冬毛のオオカミ)》《石のケモノ(ナキウサギ)》《川のケモノ(カワウソ)》という動物の毛並みのイメージに織り上げられた着物4点が展示された。草木染めの絹糸で織られた表面は起伏に富み、光の当たり方によってさまざまな表情を見せる。淡いグレーの中に茶褐色と沈んだ紺が潜み、黄土色と白の線が現われ、銀灰色の中に緑がかった水色が幾筋も走り、深い赤と直交する。目を凝らすたびに、名状し難い色の中に新たな色が現われ、百の、そして千の色彩が移ろっていく。それらは人間のまとう着物の形をしているが、表面の豊かな表情と光沢は野生の獣の毛並みを想起させ、人間でも獣でもない身体が立ち上がる。
「衣服」は人間と動物を弁別する装置のひとつだが、化学合成繊維が発明される以前、人間は、動物から剥いだ毛皮を身にまとい、自然から採取した繊維で布を織り、草木や土を染料に用いて布を染めてきた。人間は自然界と連続した「第2の皮膚」をまとってきたのであり、また、動物の毛皮や羽根を身につけて精霊や自然神に擬態する祭りや儀式、ヒトならざるものに変容する変身譚は世界各地に残る。村山の「ケモノのキモノ」シリーズは、そうした衣服の起源、「擬態」や「変身」という呪術的機能、皮膚/外界や人間/自然を隔てつつ連続させる「衣服」について再考を促す。それは、「高度な技術で織り上げられた衣服を身にまとうことで野生化、動物化する」という転倒を孕み、「繊細な野蛮さ」とでも言うべき魅力に満ちている。

2017/10/07(土)(高嶋慈)

ボストン美術館の至宝展─東西の名品、珠玉のコレクション

会期:2017/07/20~2017/10/09

東京都美術館[東京都]

まるでビエンナーレのように頻繁に開かれる「ボストン美術館展」だが、巡回展の供給元だった名古屋ボストン美術館が来年度いっぱいで閉館しちゃうと、激減するのではないかと心配になる。ともあれ「ボストン美術館展」といえば、これまでミレーやゴッホを中心とするフランス近代絵画展か、日本の美術館以上に充実している日本の古美術展かのどちらかだったが、今回は古代エジプト美術から、中国の宋画、江戸期の美術、フランス近代絵画、18-20世紀のアメリカ美術、そして現代美術まで、それぞれ数は少ないけど世界の美術史のダイジェスト版を見せている。日本に世界美術史のダイジェスト展ができる美術館があるかというと……ない! さすがボストン、やっぱ名古屋は閉館しないでほしい。
展覧会を見ていくと、中国12-13世紀の宋画の次に18世紀の江戸期の水墨画があるので、両者を見比べてみるのもおもしろい。例えば陳容の《九龍図鑑》と、曽我蕭白の《風仙図屏風》との比較は、ルネサンスとマニエリスムの違いにも似ていて、さすが宋画はどっしりして品格があるなあと東洋美術には疎いぼくでも感じる一方、蕭白の奇想に富んだユーモアにはかなわないなと愛国心の薄いぼくでも思う。比較でいうと、今回の目玉であるゴッホの《郵便配達人ジョゼフ・ルーラン》と、《子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人》もいろいろ考えさせられる。ルーラン夫妻を描いた2点だが、前者ではあらためて絵のヘタクソさに目を奪われる。いったいジョゼフの手はどうなってるんだ!? こんなにデッサンが狂っていながら高く評価され、美術史上もっとも人気の高い画家はほかにいないだろう。ルーラン夫人はもっとスゴイ。背景の緑とオレンジの目玉のような、あるいは細胞のような不気味な模様はいったいなんだ? この2点のあいだにゴッホが例の耳切事件を起こしたわけで、いっちゃなんだが「使用前/使用後」のように見比べてみるのも一興かと。

2017/10/06(金)(村田真)

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杉戸洋 とんぼ と のりしろ

会期:2017/07/25~2017/10/09

東京都美術館[東京都]

「ボストン美術館の至宝展」のついでに寄ってみたら、こっちのほうがはるかにおもしろかった。杉戸洋というとなんとなく頼りなさげな絵を描くいかにもいまどきの画家、というイメージしかなかったが、同展はそんなイメージを覆す、というか、もう絵なんかどうでもいいくらいすばらしい展覧会であった。まず会場入口のガラス扉に淡い色がつけられ、下りのエスカレーターの両脇にもピンクのアクリル板が立てられている。というのはあとで気づくのだが、これがおそらく微妙に気分に影響を与えるのではないかと思われる。順路に沿って見ていくと、三角屋根の家らしきものを描いたキャンバスが壁にポツンポツンと余裕をこいて並んでいる。凡百の画家がこういうシャレた真似をすると、そんな空間を無駄にするほど価値のある作品かと怒り出すところだが、これは明らかに違って空間のほうに価値を見出せるほど巧みな配置になっている。また、絵には額がついてたりついてなかったり、絵の裏にピンクのウレタンみたいなものが挟まってたり、床に何枚も重ねて置いてたり。絵の中身はどうでもいいというか、絵に描かれている内容を見せようというよりも、絵そのもののあり方、展示の仕方、絵のある空間全体を見せようとしているように思える。
下の階では、壁面と床の角に発泡スチロールのブロックを並べて布を被せたり、額縁代わりに段ボール箱に絵を入れてみたり、いろいろと試みている。通路のような展示空間には、さまざまなタイルを貼りつけた全長10メートルを超す壁(裏に三沢厚彦の彫刻が置いてあったりする)を建てている。タイルといえば、都美館を設計した前川國男はタイルの使用が特徴的なので、その前川に敬意を表してか、それともおちょくってかは知らないが、この建築から発想されたものに違いない。階下の吹き抜けの大空間の壁にも絵は飾られてはいるけど、大半は10号以下の小品で、おまけに絵と絵との間隔がずいぶん離れている。大空間にあえて大作を展示することなく小品を見せ、しかもそれがイヤミでなく説得力があってじつに心憎い。ああ見てよかった。

2017/10/06(金)(村田真)

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怖い絵展

会期:2017/10/07~2017/12/17

上野の森美術館[東京都]

中野京子のベストセラー・シリーズ『怖い絵』にあやかった企画展。怖い絵といっても神話や聖書から採られた主題の作品が大半なので、絵そのものが怖いというより、ストーリーが怖かったり、これから起こる出来事を想像すると背筋が寒くなるという作品が多い。例えば今回の目玉作品《レディ・ジェーン・グレイの処刑》を見ると、目隠しされた少女がなにやら手探りしている。左の女性たちが顔を背けたり壁のほうを向いているので、目隠し鬼ごっこでもしてるのかと思ったりもするが(思わないか)、タイトルを見て解説を読み、手前にあるのが断頭台で、右側に斧を持った処刑人が立っているのがわかれば、このあとの恐ろしい出来事が予想できるってわけ。
《チャールズ1世の幸福だった日々》は解説を読まなければぜんぜん怖くない。イングランド王が家来を伴い家族で優雅に船遊びに興じている場面で、怖いどころか幸せそうだ(幸せが怖いという人もいるが)。じつはこのあとチャールズ1世が斬首される運命にあることを知れば、幸福そうな家族の行楽もまた違った見方ができるはず。でもそれは10年以上先の話であって、そんな先の運命まで読み取れないし、絵に表わすこともできない。もしこれを「怖い絵」というなら、19世紀以前に描かれた肖像画のモデルはいまではすべて死んでいるから、どれも「怖い絵」になってしまうだろう。
と、ひとまずケチをつけたところで、でもこの展覧会はなかなか示唆に富んでいる。出品作品の大半は18-19世紀のロマン主義や象徴主義の絵画に占められ、間違っても明るい陽光の下で描いた印象派や20世紀のキュビスムとか抽象画とかは出てこない。だが、例えばモネには死にゆく妻を描いた《死の床のカミーユ・モネ》のような恐ろしい絵があるし、20世紀のシュルレアリスムまで範囲を広げれば「怖い絵」だらけになる。ピカソの《ゲルニカ》なんか虐殺される民衆を描いた恐ろしい絵だが、これを怖いという人はあまりいない。そうなるといったいなにが「怖い」のか、「怖いとはなにか」という根本的な疑問にぶち当たるが、けっこうそんなところにこの展覧会の狙いがあるのかもしれない。ちなみに、フューズリの《夢魔》(ただし小品)、モッサの《彼女》、ローランスの《フォルモススの審判》あたりは絵そのものが十分怖かった。

2017/10/06(金)(村田真)

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