artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

映画監督・佐藤真の新潟──反転するドキュメンタリー

会期:2017/09/15~2017/10/15

砂丘館ギャラリー[新潟県]

『阿賀に生きる』(1992)、『まひるのほし』(1998)、『SELF AND OTHERS』(2000)といった、日本のドキュメンタリー映画の歴史に残る傑作を残し、2007年に亡くなった映画監督・佐藤真。没後もその仕事の見直しが粘り強く進められ、2016年には多くの関係者が原稿を寄せた評論集『日常と不在を見つめて──ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』(里山社)が刊行された。今回の企画は、佐藤とは縁が深い新潟の地で、彼の業績を振り返るもので、筆者も9月24日に「佐藤真と写真」と題するギャラリートークに参加させていただいた。
旧日本銀行新潟支店長役宅を改装した砂丘館には、『阿賀に生きる』のスチール写真(撮影=村井勇)をはじめとして、佐藤の著書、関連資料などが展示されていた。そのなかには、牛腸茂雄の写真集『SELF AND OTHERS』(白亜館、1977)におさめられたポートレート写真(プリント=三浦和人)もある。佐藤は砂丘館館長の美術批評家、大倉宏の示唆で新潟県加茂市出身の牛腸の存在を知り、彼の写真に強く惹きつけられて映画『SELF AND OTHERS』を制作するに至った。また、長岡市で歯科医院を営みながら、明治30年代~大正時代に膨大な数のガラス乾板の写真を遺した石塚三郎にも関心を抱き、彼の記録写真をベースにした映画も構想していた。その石塚の写真も今回の展示作品のなかに含まれていた。
こうしてみると、佐藤はドキュメンタリー映画作家として活動しながら、無意識のレベルでの視覚的な認識を基本とする、写真表現の可能性にも大きな刺激を受けていたことがわかる。1990年代後半には、当時構想していた『東京』と題するオムニバス映画の準備も兼ねて、自ら東京の街を徘徊してスナップ写真を撮影している(『日常と不在を見つめて』に収録)。佐藤真の映画と写真との関係については、まだいろいろなことが見えてくる可能性がありそうだ。牛腸茂雄についての強いこだわりは、映画『SELF AND OTHERS』に結実したのだが、石塚三郎の写真は、結局映画には使われることなく終わった。そのあたりも含めて、また別の機会に「佐藤真と写真」を総合的に検証する機会をつくっていただきたいものだ。

2017/09/24(日)(飯沢耕太郎)

ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭

会期:2017/09/09~2017/09/24

旧郷小学校 ほか[京都府]

京都府北部の日本海に面する京丹後市を舞台に、「音」にまつわる表現に焦点を当てた芸術祭。「音」を主軸に、現代美術、音楽、サウンド・アート、ダンスなどの領域を横断して活躍するアーティスト計12名が参加した。2014年に続き2回目となる今回は、ローカル鉄道を舞台としたオープニング・パフォーマンス、廃校舎での展覧会、音を手掛かりに古い町並みを歩くサウンド・ワークショップなど、サイトスペシフィックで多彩なプログラムが展開された。
私が実見したのは、廃校舎を会場とした展覧会「listening, seeing, being there」とクロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」。前者の展覧会では、「音」を聴く体験や周囲の環境を取り込んで成立する作品など、感覚を研ぎ澄ませて味わう繊細な作品が多い。とりわけ、木藤純子の《Sound of Silence “Mの風景”》が秀逸。灯台の内部のようにぐるりと階段が続く部屋に案内され、真っ白い段の途中に一人立つと、部屋の灯りが消される。暗闇に目が慣れてくると、足元の階段が一段、また一段と、闇のなかにぼうっと仄かな光を放ち始める。おそらく蓄光塗料で描かれているのだろう、絡み合う草花のような繊細なイメージが闇に浮かぶ。上昇する階段に促されて視線を上げると、高みの壁にかけられていた白いキャンバスは薄いブルーの光を放ち、屋外からはピチピチという鳥の囀りが聴こえてくる。先ほどまでただの白い壁だった空間が一気に開け、物質性を失い、無限の空あるいは海の透明な青い光へと通じている。肉体が滅び、意識だけになった存在が彼岸へ続く階段を昇ろうとしている……そんな錯覚さえ起こさせるほどの、宗教的で濃密な体験だった。


「古代の丘のあそび 91’ 93’ 96’ 資料展示」会場風景

また、なぜ京丹後の地で「音」の芸術祭なのかという疑問に答えるのが、アーカイブ・プロジェクトの一つ、「古代の丘のあそび 91’ 93’ 96’ 資料展示」。90年代に3回開催された芸術祭「古代の丘のあそび」では、国内外のアーティストが丹後に集い、地域の人々の協力を得て交流した様子が、記録映像や各種資料によって提示された。丹後は、日本のサウンド・アーティストの草分けである鈴木昭男が、日本標準時子午線 東経135度のポイントで耳を澄ますサウンド・プロジェクト「日向ぼっこの空間」を1988年に行なった場所であり、以後、30年に渡る鈴木の活動拠点となってきた。クロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」では、豪商の元邸宅でのダンスパフォーマンスに始まり、海に面したロケーションで、鈴木がガラスチューブで自作した楽器を即興演奏した。刻々と暮れてゆく空の表情と相まって、忘れられない時間となった。


クロージング・パフォーマンス「午後5時53分まで」

公式サイト:http://www.artcamptango.jp/

2017/09/24(日)(高嶋慈)

Expect The Unexpected 田中真吾

会期:2017/09/01~2017/09/30

eN arts[京都府]

田中真吾は炎を駆使した作品で知られる作家だ。これまでに、紙、木の角材や板、ビニール袋などを燃やして、その痕跡を造形化した作品を発表してきた。本展では薄い鉄板をバーナーで焼く行為を繰り返し、熱の影響で不規則に歪んだ表情を見せる平面作品や、ビニール袋をバーナーで溶かして積み上げた立体作品、バーナーで溶かしたビニール袋を鉄板に溶着させた平面作品を発表した。それらの作品が持つ起伏に富んだ表情は、炎あるいは燃焼という自然現象がもたらしたものだ。そこには作家がコントロールしている部分と人智を超えた部分が混在しており、田中はその絶妙な配合を探りながら、綱渡りのようなバランスで表現を物にしていく。筆者は彼の個展をほぼ皆勤賞で見ており、作品を見慣れているつもりだが、それでも毎回予想を超えて来るのは大したものだと思う。

2017/09/23(土)(小吹隆文)

身体0ベース運用法「0 GYM」

会期:2017/09/02~2017/10/15

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]

「身体0ベース運用法」とは、染色作家の安藤隆一郎によって考案された、ものづくりの観点から出発した身体運用法の名称。安藤の染色作品は、細い線描で描かれた有機的で流体的な形態が、柔らかい色彩のグラデーションで染められた繊細な印象を与えるもので、身体トレーニングとの関連性は最初は意外だった。だが、例えば染色のハケを往復させる腕の動きを素振りのように繰り返し、滑らかに動かせるように練習するなど、身体と一体化した技術への関心が以前からあったという。また、安藤は、スポーツに加え、ブラジリアン柔術や合気道を習っており、鍛えられたダンサーのような体格だ。
本展で提示された「身体0ベース運用法」の基本トレーニングは、「物編」「場所編」「リズム編」の3つに分かれる。いずれも、歩く、座る、走るといった誰もが日常的に行なっている身体運動に、「物の運搬」「地面の凹凸」「リズムの意識」といった契機や負荷を与えることで、バランスの不安定さや重心の移動、皮膚感覚の活性化が生まれ、機械が何でも代行してくれる日常生活の中で希薄化した身体への意識を回復させることを狙いとしている。例えば「物編」では、背負子をしょって歩く、長い木の棒を片手に持って走る。「場所編」では、地面を裸足で歩き、複雑な凹凸や柔軟の違いといった情報を足裏の皮膚感覚で掴む。「リズム編」では、田植え歌や機械労働以前の労働歌のように、反復的な作業を効率良く行なうための気持ちの良い「リズム」を探し、リズムの違いによる身体運動の変化を観察する。こうした実践は、安藤自身がさまざまな場所で行なった記録映像とともに、背負子や木の棒の実物、模擬的なトレーニングフィールドも仮設され、観客が実際に体験することもできる。また、展示室の一室はスタジオとして使用され、「パーソナルトレーニング」に参加した美術作家たちが、トレーニングを行ないながら作品の公開制作を行なっている。
身体意識の活性化を通した「身体づくり」を基盤とする安藤のこうした実践は、既存の美術教育現場への優れた批評でもある。特に美術大学の教育では、「コンセプト」の洗練や「素材」「技法」の習得が重視される一方で、素材を実際に扱う身体の運用や意識の仕方については等閑視されがちだからだ。さらに、「身体0ベース運用法」の思想と実践は、あらゆる人間の活動のベースとなる「身体」を基盤に置く点で、美術に限らず、医療や介護、ダンス、運動科学などさまざまな分野と通底する可能性を持っている。

身体0ベース運用法「0 GYM」 Shintai 0 Base Uny h : 0 Gym from Gallery @KCUA on Vimeo.

2017/09/23(土)(高嶋慈)

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進藤環「仙人のいる島」

会期:2017/09/16~2017/10/14

ギャラリー・アートアンリミテッド[東京都]

進藤環はこれまで自作の写真を切り貼りしてコラージュし、架空の風景を組み上げていく作品を発表してきた。ところが、今回東京・六本木のギャラリー・アートアンリミテッドで開催された新作展では、展示されたほとんどの作品が「ストレート写真」だった。コラージュの手法を用いた2点も、ほとんど操作の跡は見えない。
作品のスタイルが変わったのは、おそらく今回のテーマ設定によるところが大きいのではないだろうか。進藤は3年ほど前に岡山県笠岡市の北木島を訪れ、周囲から「仙人」と呼ばれる不思議な老人に出会う。そのたたずまいに惹かれて、島を再訪して彼のポートレートだけでなく、住居や周囲の風景を撮影した。主題となる被写体が限定的である場合、コラージュによって再構築する必然性はなくなる。実際、今回のシリーズでは、「ストレート写真」が違和感なく目に飛び込んできた。モノクローム中心の緻密な画面構成、丁寧なプリントも、テーマにふさわしいものになっていた。3年前に、九州産業大学芸術学部写真、映像メディア学科の講師として福岡に移り住み、制作の環境が大きく変わったことも、作風の変化に影響しているのではないかと思う。
ただ、このまま全面的に「ストレート写真」に移行する必要もないだろう。次に何を撮影するかで、コラージュの手法が再び復活することがあるかもしれない。よりフレキシブルに、新たな領域にチャレンジしていってほしいものだ。

2017/09/21(木)(飯沢耕太郎)